【 ピテカントロプスエッグ 】
◆fSBTW8KS4E




47 :No.12 ピテカントロプスエッグ 1/3 ◇fSBTW8KS4E:08/03/16 19:11:43 ID:XP4qbfqC
 火曜日は、近所のスーパーで卵が安く売られるので、僕は六個入りのパックを買い、水曜日から月曜日まで、毎朝卵を一
個ずつ割る。コップに一つ落とすと、そのまま一気に飲み込む。火曜日は、飲まない。そうすることによって、僕は日々の
生活にリズムをつけた。
 火曜日に飲まない理由は、他にもある。昔、僕にも可愛い彼女がいた。彼女は毎週火曜日、近所の駅前公園で歌を唄って
いた。ピアノを弾きながら、自分の歌を唄い、そうして夢に近づこうと努力をしていた。
 実際彼女のファンもいるらしく、僕が仕事から帰宅し駅を出ると、少ないが彼女の周りには人混みがあった。それに紛れ
て、彼女の歌を聴いているのが、その時の僕と彼女にあった決まり事だった。
 ある火曜日、僕は仕事の用事とは別に、帰りが遅くなった。部下の女の子にどうしてもと誘われ、聞きたくもないバンド
のライブに行っていたのだ。いつも彼女の歌を聴いている時間に、他人の歌を聴いているのは、少し居心地が悪かった。
 ライブが終わった後に女の子を見送り、自分も急いで帰った。駅を出た時には彼女のパフォーマンス時間をとっくに過ぎ
ていた。しかし、改札を出るとそこにはいつもよりも人だかりがあった。
 もしかしてという上擦った期待は、赤いサイレンと黄色いテープ、それから青い制服の警官によって、もしやという不安
へ変わった。
 彼女が演奏しているとき、聞いていた観客が肩を振って歩いてきた若いチンピラにぶつかったらしい。チンピラは凄みを
きかせその観客を睨み、睨まれた観客はすぐに謝ってその場は落ち着いたように見えた。しかし、彼女が異議を申し立てた。
あなただって迷惑のかかるような歩き方してたんだから、謝りなさいよ。彼女はマイクを使って叫んだので、多くの駅利用
客が注目した。注意を去れ、注目を浴びたチンピラは静まりかえった怒りを再燃させ、彼女に突っかかった。彼女はひるむ
ことなく立ち向かった。チンピラは怯えない彼女に腹を立てたのか、両手で彼女の肩を強く押した。少し彼女が後退したと
き、彼女の足は置いていた機材に足を取られ、大きく転んだ。そして頭は、彼女がいつも座っていた石の台座へとぶつかり、
それにより彼女は意識を無くした。見ていた人から通報を受けた警察と救急が来るよりも早く、彼女は出血多量により死亡
した。
 それが僕が駅に着いたときに聞かされた状況だった。チンピラも逮捕されたが、その事件は事故として処理された。
 誰一人として、僕を責めなかった。当然と言えば当然かもしれない。しかし、僕がもし部下の誘いを断っていれば、彼女
の演奏をいつも通り聴いていれば、事態は変わっていたはずだ。
 家に帰り、広く感じる部屋でテレビを点けてみた。ニュースには何も上がらず、僕はスイッチを切るのも億劫で、そのま
ま点けっぱなしにしていた。そして深夜を回り泣き疲れた頃、テレビでは映画が流れていた。あの有名なボクサーの映画だ。
そのワンシーン、男がトレーニングに励むところだ。片手で腕立てをしたり、吊した肉塊を殴ったり、長い階段を駆け上がっ
たり。その中で男がコップに卵をいくつも入れ、そのまま一気に飲み干すカットがあった。
 次の日に卵を買ってきて、六個を一気に飲もうとした。しかし、喉で流れは止まり、気持ち悪くなった僕はそのまま洗面
台に流した。これは僕の罪を裁くには良いものかもしれない、そう感じた僕は、彼女の葬式や通夜をこなし、四十九日を終

48 :No.12 ピテカントロプスエッグ 2/3 ◇fSBTW8KS4E:08/03/16 19:11:59 ID:XP4qbfqC
えた帰り、スーパーで安売りされていた卵のパックを買ってきた。
 それから今に至るまで、僕は卵を毎朝飲み続けている。罪が晴れた気分は未だに感じない。
 ある日、彼女の実家から届け物があった。中には彼女が小さい頃に聞いていたCDや、読んでいた小説が入っていた。添
えられた手紙には、必要なものはこっちで保管してしまいましたが、残ったものを捨てるのも気が引けるので、もしよろし
ければ貰ってください、と書いてあった。
 数あるCDを眺めていると、自分でもよく聞いていたものがあった。さよなら人類、そう題された曲は僕にとって衝撃的
な曲だった。思えば、彼女もよく口にしていた、私たちはいつになったらピテカントロプスになれるのかしら、なんて。
 コンポにCDをセットして、その曲を流した。牛を忘れた牛小屋のように気の抜けた部屋に、彼らの音が充満していった。
 僕はいつものように卵を割り、コップに落とす。飲み干したところで頭に歌詞が流れてくる。僕はあの子を探すけど、月
の光に邪魔されて、あの子のかけらは見つからない。この荷物が届いたのは、彼女が僕に伝えたいのかもしれない。僕は自
分に都合の良い妄想を始めた。彼女が私のことなんか気にしないでいいから、卵を割ることだってしなくていいのよ、そう
言ってくれているのではないだろうか。けどそんなことを考えながらも僕は明日も卵を割る。僕が見つけられるのはいつも
卵のかけらだけだ。
 僕にライブを誘った例の女の子は、後ろめたいのか、僕と会うといつも頭を下げて、立ち去る。別に君のせいじゃないと、
何度も話すが、一度頭に付いた考えを剥がすのは難しいのだろう。
 一度だけ、彼女を突き飛ばしたチンピラが、謝罪しに来た。チンピラと言ったが、その時は髪も黒く染め、スーツを着て
いて、まともな好青年のような格好をしていた。僕は何を言えばいいのかわからず、彼が持ってきた菓子折を受け取りなが
ら、どうもすいませんと謝った。彼女が、あなたが謝るのはおかしいと言ってきたような気がして、頭を上げると、彼は深
々と土下座をしていた。
 みんながみんな、罪の意識に悩まされている。あの駅前公園には花束と手紙が、行くたびに置いてあり、僕はそれをまと
めると彼女の墓まで持って行く事に決めた。
 彼女の墓は、彼女の両親の意向で実家の近くの霊園に建てられた。僕の住んでいる場所からは少し距離のある場所で、こ
れは泊まりになるかもしれないと考えた僕は卵を一つ、ラップと梱包罪で包み持っていくことに決めた。
 彼女の両親は、四十九日で会って以来だったけれども、相変わらず悲愴な面持ちで僕を迎えてくれた。
 墓参りと、駅前公園にあったいくつもの花束と手紙を届けるのを終えると、もう帰りの電車には間に合わない時間になっ
ていたので、彼女の実家に泊めて貰うことにした。
 実家では、彼女が好きだったシチューを食べ、寝室として彼女の部屋を使わせて貰った。この前段ボールで送ってもらっ
ていたので、本棚やCDラックは空だった。窓際に置いてあった勉強机には、くだらない落書きが多く、ほほえましかった。
 深夜、眠れないでいると彼女の父親が入ってきた。怒られるかもしれないと身構えていたが、彼は日本酒とコップを二つ
持っていた。

49 :No.12 ピテカントロプスエッグ 3/3 ◇fSBTW8KS4E:08/03/16 19:12:12 ID:XP4qbfqC
 一杯ずつ酌をして、飲むと無言の時間が続いた。外からは風の音しか聞こえない。
「忘れないでいることも大変だが、それは罪を償うのとは違う意味合いを持っているのかもしれないな」
 彼がそう呟いた。彼もまた、罪の意識を感じていた一人なのだろう。そうですね、と僕が頷くと、君に会えてよかったと
彼は告げて部屋を後にした。
 そのまま、朝を迎えた。
 僕は台所から昨日使わせて貰ったコップを出し、持ってきた卵も出す。シンクの縁で軽く卵を叩き、ひびに両手の親指を
あて、コップに落とす。
 そこには黄身が二つ転がっている。感動か感嘆か、口から声を漏らす。
「ありがとう」
 それを飲み干して、僕は早いうちに実家を後にした。父親が駅まで送ると言っていたが、僕はそれを丁寧に断り、さよな
らを交わす。
 その日から、僕は卵を割る習慣をやめることにした。

 了



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