【 はくだりみん 】
◆NdcvquKVLg




20 :No.6 はくだりみん 1/4 ◇NdcvquKVLg:08/03/16 04:09:26 ID:JDT1ULZd
 ぼくは、静かに本を読む繭美を見つめていました。彼女の膝の上にはアメショのルクが乗っかりゆるやかに寝息をたてているのが見えます。
 幸せだなあ。可愛い彼女と可愛い子猫。同棲しはじめて一年経ったけど、まったく飽きてきません。本当に幸せだなあ。
「ねえ、何読んでるの?」
「本」
 それはわかります。その本がどんな内容なのかが知りたいのです。ぼくはエサをお預けされた北極熊のような心境で、
一目たりともこちらを見ようとしない彼女を見つめた。食べちゃうぞー。
「水槽に魚を入れて、じょじょにじょじょにゆっくりと温度を上げていったらどうなると思う?」
 エサをお預けした飼育員が、裸で目の前に飛び込んで来たときの北極熊の気持ちがわかるような気がします。食べて良いですか?
というかなんですか? いきなり、その質問ですか? でも、幸せなぼくは普通に答えますよ。だって幸せですから。
「死ぬんじゃない?」
「死なないんだって。慣れると沸騰したお湯のなかでも泳ぎ続けるらしいよ」
 へー、そうなんだ。うそっぽいなあ、地球が丸いというぐらいうそっぽいなあ。北極熊が裸の飼育員と
コッサクダンスをする話の方が信憑性がありそうだと思います。
 でも、反論はしません。ぼくが繭美に反論するなんて、アメリカ大統領と北朝鮮総書記が世界平和を願って
コッサクダンスをする話よりも確率が低いと思われます。
「だから地球温暖化は問題ないんだってさ」
「ああ、それなら安心だね。ぼく達もずっと一緒にいられるよ」
「でも、水が沸騰しきって無くなったらどうなるんだろうね?」
「死ぬんじゃない? やっぱり環境のことは考えないとダメだね」
 ぼくにとって繭美の言葉は、煌びやかでやさしくて真綿のようにふわふわ軽いけど世界平和よりも重いのです。
「何を考えてこんな話を書いたんだろうね、この作者」
「さあ? ちょっと書いてみたかったのだろうね」
「そんなもんかあ」
「そうそう、理由なんて必要ないよ。人間、なんとなく行動するものだし」
 会話の内容なんてふわふわと空の彼方の涅槃へでも飛んで行けば良いのです。
繭美と話していることが何より一番幸せなのですから。天上天下唯繭独尊。

21 :No.6 はくだりみん 2/4 ◇NdcvquKVLg:08/03/16 04:11:06 ID:JDT1ULZd
「その本、面白い?」
「わからない。百ページも読んだのに、事件が起こらずダラダラしてる」
 ミステリーなのかな? 表紙の絵はかわいらしい感じですけど。まあ、どうでもいいです。
蓮の上のお釈迦様がどんな荘厳雄大風光明媚な悪口を言ったとしても、
例え彼女がキリストを売ったユダだとしても、ぼくにとってはどうでも良いのです。
「そうだ、私、お願いがあるんだけど……」
 繭美が本を爽やかに投げ出して言いました。口を動かす度にふるえるやわらかい頬がかわいい。食べちゃいたいです。
ぼくは彼女の願いならなんでも聞いてあげたいと思います。彼女に右の頬を打たれたら、左の頬をどうぞと差し出します。
ルーベンスが描いたキリストの昇架を見て眠るネロとパトラッシュよろしく、ぼくと繭美の間には通じ合った心があるのですから、
彼女と一緒に居られるならばどんなつらいことでも我慢できるのです。
「何?」
「別れましょ」
 ごめん、やっぱ無理。その願いは聞き入れられません。それだけはダメ。というか何故ですか? どうして?
来ないで天使。ぼくまだ疲れてないから、ネロやパトラッシュはここにいませんから。
「この部屋は私が借りてるから、出て言ってね。三ヶ月ぐらいは待ってあげる」
「ちょっと、いきなりどうしたの? 何か気に障るようなことした?」
「ううん、別に」
「じゃあどうして?」
「理由なんて必要? 人間、なんとなく別れたくなるものだよ」
 なんかどっかで聞いたような言ったような言ってしまったようなセリフです。そんな言葉で納得できる人間がいるわけない!
そんなセリフで納得できるのなら天使と悪魔だって結婚してます。ぼくはあなたと結婚したいです。だから待ってください。
「突然どうしたの、嘘でしょ?」
「突然ってわけじゃないよ。ずっと考えてたのよ」
 ずっと? ぼくが前に何かしたのでしょうか? 胸に手を当てても思い出せません。浮かぶのは『押し倒しちゃえよ、体は正直だぞ』
とのたまう悪魔の囁きだけです。押し倒すことはできません。彼女との、繭美との楽しい性行為はムードが大事なのです。
押し倒したら殺されます。やっぱり悪魔の囁きです。メフィストフェレスの囁きです。
ファウストは言いました『時間よ止まれ、お前は美しい!』と。ぼくも言いたいです『時間よ止まれ。繭美は美しい!』と。
「いつから?」

22 :No.6 はくだりみん 3/4 ◇NdcvquKVLg:08/03/16 04:12:04 ID:JDT1ULZd
「朝から」
 思考が止まりました。時間は止まりません。やっぱりあなたは美しいです。年を取っても美しいでしょう。
 ぼくは思いました。ずっとじゃない! 全然ずっとじゃない! カップラーメンを待つ三分間の方が長いぐらいです。
「あなたは私のこと好き? 愛してる?」
「もちろん。当たり前だろ」
「それなら私の望み通り別れてよ。愛する人の願いが聞けないの?」
 聞けません。絶対に聞けません。その願いを聞くことだけは却下します。
ノーボーダーとうたっているカップラーメンも、中身の味付けは国ごとに違います。言葉なんてそんなもんです。
今、反論できれば良いのです。だから、ぼくは精一杯の言葉を紡ぎます。あなたと別れたくないのです。
「お昼にぼくが作ったカニ玉をおいしいって言ってくれたじゃん」
 繭美がとても嬉しそうに食べていたのを思い出したのです。あれはとてもかわいかった。
どれくらいかわいいかというと、子猫が母猫のおっぱいを飲んでゲップしたのを見るぐらいかわいいです。
あのかわいさに国境はありません。ノーボーダー。けれどもどうして、ぼくと彼女は冷戦中。冷たく彼女は言いました。
「私はどんなに嫌いな人が作った物でも、おいしければおいしいと言うわ」
 正直で誠実。そこが好き。大好き。だから離れたくないのです。
「私は伝えたから。できるだけ早く出て行ってね」
「ちょっと待てよ!」
「急に大声出さないでよ。ルクが驚いて起きちゃったでしょ」
 ぼくが耳掃除してもらう場所で寝ていたルクは、ぼくの方をひと睨みするとソファの上でちょこんと座りました。
むかつく! 優雅なそぶりとビー玉みたいな冷たい目が小憎たらしいです。猫がかわいいって言った奴、ここに出てきなさい! 
「ルクのことなら心配しなくて良いわよ。ちゃんと私が面倒みるから」
「そんなことは心配してない。今は大事な話の最中だろ? 一体、ぼくとルクのどっちが大事なんだ!」
 一度、言ってみたかった、このセリフ。
「ルク」
 使うときには、既に結果が見えているだろうことを失念していました。やっぱりね。
 ばーか、とルクが啼いた。そう聞こえました。クスクス、と時計が笑った。そう聞こえました。
ニヤニヤ、とビー玉みたいなお日様が笑った。そう思えました。夜だけど。森羅万象全有無機物が、ぼくを笑った。そう思えました。
「もう一度、考えなおしてよ」
「もう決まったことだから。そもそも私は、あなたのことをもう愛していないの。そんな私と一緒にいてもしょうがないでしょ?」
「ぼくは君と一緒にいられれば幸せだよ」

23 :No.6 はくだりみん 4/4 ◇NdcvquKVLg:08/03/16 04:13:30 ID:JDT1ULZd
「それじゃあ人形と変わらないわね」
 繭美が無機物のような冷徹な表情で言いました。でも、かわいいです。美しいです。綺麗です。愛してます。
だからと言ってそれで怯むわけにはいきません。ぼくの愛であなたの渇いた砂漠に潤いを与えたいです。肌に潤いがあることはわかります。
「こんなこと一方的に言われて納得できるわけないだろ?」
「あなたは別れ話を切り出すとき、『明日、別れ話をしようと思う』と相手に相談してから始めるのですか?」
 始めませんね。その通りです。返す言葉もありません、けど頑張って探します。砂漠に落ちた砂を探すよりも、
難しい作業のようですが、ぼくは精一杯探します。探しはしましたが出てきません。努力すれば良い結果が得られるということが
迷信であることは、まるで努力をしていない人でもわかる確かな常識です。どうしましょう?
「冗談だよ」
 突如、繭美が言った。いや、繭美様がおっしゃられました。正確な言葉が聞こえません。本当は聞こえたけど意味がわかりません。
ぼくの努力が足りないのでしょうか? ジョーダン? マイケル? ブルズの? それともメジャーリーガーの? 
どっちも同じ人でしたね。ところで、何が冗談? いままでの話が? ぼくは喜んで良いのですか?
「暇だったから、からかってみたの」
 彼女の言葉が見えない階段を駆け上り、ぼくの頭にダンクを決めたようです。歓声に揺れるコート。震えるボード。
ぼくのモードが切り替わったのがわかります。
「別れよう」
「そう、わかったわ。じゃあ、三ヶ月以内に出て行ってね」
「うん、そうするよ」
 あれ? もうどうでも良いや。バスケットカウントワンスロー。     <了>



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