【 ある青年の話 】
◆c3VBi.yFnU




75 :時間外No.02 ある青年の話 1/5 ◇c3VBi.yFnU:08/03/11 18:55:07 ID:8c7giJXm
「あなたに弟が出来ました」
 十年ぶりにお袋が寄こした手紙。その一番最初に、こう書かれていた。十年前、まだ小学生だった
俺を放り出して、他の男になびいた母親。俺はその顔すら覚えていない。思い出そうともしなかった。
親父はどうだっただろう。恐らくショックだったのかもしれない。そのせいで酒浸りになって、俺の
腹を好き勝手殴っていたのだろう。
 俺は両親に恵まれなかった。子供は親を選べないというが、誰かは知らないが上手い事を言ったも
のだ。よくもあんな人間が親になれるものだ。偶々出来た子供が俺だったからか、それとも、本来生
まれるはずだった誰かの身代わりなのか。一般的に不幸と言われる環境で育った俺は、それでも何と
か生きてこれた。生きただけ。他には何もしていない。
 生きる為には何だってやった。スリや万引きは当たり前。金が無かったのだ、仕方が無い。何も考
えずにヘラヘラ生きている奴らに比べれば、俺のほうが何倍も「生」に執着していた。何故かは解ら
ない。だが俺は生きたいと思った。こんなところで死んでたまるか。その思いだけで生きてきた。そ
れだけ必死だった。
 俺が親父を殺した事も、生きる為には必要だったのだ。いや、必然と言うべきか。あばらを折られ、
前歯が欠けてしまったことは、別に関係ない。内臓が破裂して血を吐いたことも、左目が見えなくな
ってしまったことも、特に関係は無い。
 親父は俺の親友を殺した。俺の心を殺した。子供の頃からの親友を、いとも簡単に殺した。それは、
やってはいけない事だった。親友を守り抜くこと、考えてみれば、それが俺の生きる理由だった。
「お前の部屋にいたアレな、うるさいから殴った。そうしたら、動かなくなった」
 生気の無い青白い顔で、親父は俺にそう言った。小さなコンクリートの箱が積み木の様に重ねられ
た、粗末な建造物。そこが俺たちの家だった。競馬中継のラジオが煩わしい。ちゃぶ台の上には日本
酒の一升瓶。昼間から酒を飲むことは珍しくは無い。テレビの前で寝転がって酒をかっ喰らう姿を、
俺は見慣れていた。
 部屋の隅に、赤黒い肉の塊があった。
 一升瓶を右手に握り、俺は親父の背後に立った。片目が見えないので、距離感が上手く掴めない。
だが、近すぎると言う事は無い。出来るだけ自然に、親父に近付いた。右腕を思い切り振り上げる。
「なぁ……」親父が何か言おうとしたが、それよりも頭が割れる方が早かった。酒と血で、親父の身
体はぐちょぐちょになった。部屋の隅に転がっているアレと同じ。赤黒い肉塊に成り下がった。
 俺は荷物をまとめる。最早この部屋にいても意味が無い。元々意味なんて無かったが、それでも親
父の世話はしていた。最後の良心だったのかもしれない。だがそれも潰えた。親友すらも失って、

76 :時間外No.02 ある青年の話 2/5 ◇c3VBi.yFnU:08/03/11 18:55:22 ID:8c7giJXm
俺がここにいる理由は無い。出て行くという結論が出るのは、当然の流れだった。親父だったものはそ
のまま放置した。わざわざ逮捕されるつもりは無いし、腐臭で誰かが気付くだろうし。だが今は冬。
腐敗の進行は遅いだろうから、すぐに発見される事は無いだろう。友人なんていないだろうし。
 お袋から来た手紙を上着のポケットに入れる。現在の住所も書かれていた。東京から遠く離れた東
北の街。地方のとある都市に、お袋とまだ見ぬ弟がいるらしい。
 お袋に会って何をするか。そんな事は考えていなかった。それよりも、どうやって会いに行くかが
問題だった。俺は金なんて持っていない。新幹線は勿論、普通の電車ですら少々無理があった。財布
の中には五千円紙幣が一枚、千円札が一枚。この六千円が、俺の全財産だ。
 そのうちの九百円を使い、俺は電車に乗った。郊外の高速道路付近にいれば、もしかしたらヒッチ
ハイクが出来るかもしれないと思ったのだ。東北方面に行きそうな車を探す。近くのコンビニで、岩
手ナンバーのトラックを見つけた。運転手に話しかけると、二つ返事で了解してくれた。事情を聞か
れたので、母親に会いに行くと言った。それを聞いた運転手は、何かに感動したらしく、道中で飯を
奢ってくれた。いろんな話をした。彼は母親を小さい頃に亡くし、中学を卒業してからずっとこの仕
事をやってきたらしい。今では娘も出来て、幸せだと言っていた。
「親ってもんは、どうやっても自分の子供は捨てられないんだよ」
 彼はハンドルを握りながらこう言った。彼が俺の父親なら良かったのに、と思った。彼を殺そうだ
なんて、誰も考えたりしないだろう。俺は自分の父親を殺した。勿論そのことは黙っていたが、俺の
様子が少々おかしいと言う事には気付いていたのかもしれない。彼は親父について何も聞かなかった。
だが、車のラジオが余計なことをしてくれた。
「今日の昼頃、都内のアパートで男性の死体が発見されました。息子の……君と連絡が付かなくなっ
ており、警察は事件に関連性があるものとして、調査を進めています」
 偶々借金返済の勧告に来た人が、アレを見つけたらしい。元々計画性なんて無かったが、こんなに
早く発見されるのは少々都合が悪い。俺は黙ってラジオを聞いた。
 幸いノイズに紛れて、俺の名前は聞き取れなかった。だが知人からの証言により、俺の身体的特徴
は、余すところ無く精密に語られてしまった。欠けた前歯を見て、彼は尋ねる。
「殺さなければ、だめだったのか」
 俺は短く「はい」と答えた。俺はその後、親父を殺した経緯を手短に話した。彼はハンドルを握っ
たまま、俺の話を聞いていた。時折相槌を打ちながら、俺が話し終えると彼は言った。
「俺は自分の娘を心から愛している。その上で俺が娘に殺されるなら、これほど悲しい事は無い。だ
がお前は違う。聞いた限り、お前は親から愛されていなかった。今から会いに行く母親も、恐らく

77 :時間外No.02 ある青年の話 3/5 ◇c3VBi.yFnU:08/03/11 18:55:38 ID:8c7giJXm
お前の事を愛してはいないだろう」
 俺は黙っていた。心のどこかで、望んでいたのかもしれない。親父もお袋も、俺の事を愛していた
と。少なくとも俺が生まれたときくらいは、精一杯の祝福を与えてくれたかもしれない、と。
「お前は父親を殺した、勿論それは許されることじゃない。だが、お前の両親もまた、お前を殺した。
心を殺したんだ。そうでなければ、父親を殺せるはずが無い。その意味では、お前の父親は、殺され
て当然だったのかも知れん。因果応報、というやつだ」
 難しい言葉は解らない。だが、少なくとも彼は俺を咎めようとはしなかった。同情もしなかった。
その後、その話をする事はなくなった。俺は流れる景色を横目にタバコを吸い、彼はずっとハンドルを握っていた。

「じゃあな、元気でやれよ」
 別れ際、彼は車の窓からそう言った。罪を償えという意味か、それとも言葉通りの意味か。恐らく
その両方だろう。彼は俺を通報しないと言った。いつかは自首しろと言って、連絡先を教えてくれた。
東京に戻る事になったら、都合が合えば乗せてくれると言った。
「その時は、よろしくお願いします」頭を下げて、俺は彼を見送った。
 手紙に書かれた住所まで、ここからそう遠くは無いようだった。地図が添えてあったが、歩けば一
時間程度で辿り着けそうな距離だ。俺は歩くことにした。お袋に言うべき言葉を探そうと思った。
 はじめまして。皮肉は効いているが、今はそんなものは必要ない。久しぶり。顔も覚えていないの
だ、多少違和感がある。
 実際に会うとなると、考えていた以上に思考が纏まらない。お袋はどんな人だったか。弟はどんな
顔をしているのか。俺に似ているのか、それとも面影すらないのか。お袋は俺の顔を覚えているか。
そんな事を考えているうちに、一つの言葉が頭に浮かんだ。
 おめでとう。弟が知らない間に出来ていたのだ、この言葉が相応しいと思った。心から祝ってやれ
るかどうかはわからないが、取り敢えずこの言葉を贈ろうと思った。

 俺が住んでいたアパートとは正反対の、綺麗で巨大なマンション。ここの最上階に、お袋は住んで
いるらしい。想像した事も無かった。俺がこんな場所に足を踏み入れるなんて、夢にも思わなかった。
別にこれからここで住むわけじゃないが、妙な緊張が走った。
 玄関の前に立つと、管理人らしき人に声をかけられた。関係者以外は入れないらしい。だが俺がお
袋の事を話すと、いきなり笑顔になって、即座に扉を開けてくれた。どういう訳か話を聞くと、この
マンションはお袋の物らしかった。息子が来ると話は聞いていたらしく、俺はお袋が俺の事をまだ

78 :時間外No.02 ある青年の話 4/5 ◇c3VBi.yFnU:08/03/11 18:55:53 ID:8c7giJXm
息子だと思っていたことに、今更ながら少し驚いた。
 エレベーターで最上階まで上る。ごうんごうんという機械の音が耳に響く。三十階建ての高層マン
ション。これがお袋の持ち物なのか。きっと金持ちと再婚でもしたのだろう。俺が持っている五千円
札なんか、紙切れでしかないのかもしれない。この金だって人から盗んだもの。俺はとうに犯罪者な
のだ。お袋は俺の事をどう思うだろう。親父の事をなんと思うだろう。
 エレベーターが、三十階で止まった。

「おめでとう」俺は最初にそう言った。赤子を腕に抱いたお袋が微笑む。
 綺麗に着飾った、優しそうな顔立ちの女性だった。涙を流し、抱きついて何度も俺に言った。ごめ
んなさい、と。俺は何も答えなかった。予想はしていたが、実際謝られると、悲しい気分になった。
 やはり、お袋は俺を捨てたのだ。謝るという事は、少なからず自分に非が有るという事。それをお
袋は認めたのだ。なぜお袋が俺を捨てたか、そんな事は聞きたくなかった。それよりも、大事なこと
があった。
「なんで、今更俺を呼んだんですか。弟が出来たことはわかりました。でも、それが俺を呼んだ理由
なら、もう帰ります。俺にはやらなきゃいけない事がある」
 お袋は暫く黙っていたが、やがて口を開き、こう言った。
 あの運転手の言った言葉が木霊する。彼はやはり、いい親だったのだろう。
「あなたとの、親子の縁を切りたいの」
 俺は自分を呪った。やはりどこかで期待していた。せめてお袋だけでも、俺の親であってくれると。
捨てられても尚、この人は俺の事を愛していると。
「遺産の問題で、あなたが私の戸籍上の息子だと、不都合があるの。遺産はこの子に相続させたいか
ら。この子は夫との本当の子供で、あなたとのつながりは殆んど無いから。勿論、それなりのお金は
用意するわ。今まで苦労をかけてしまったし……」
 寝息を立てている赤子の髪を撫でながら。お袋は俺の顔も見ずにそう言った。
 結局、俺はこの人の息子ではなかった。生まれただけ、それ以上でも以下でもない。偶々あの親父
との間に生まれて、それだけだった。お袋が小切手を差し出す。額にして一千万円。この人にしてみ
れば、そんな金はいくらでも出せるのだろう。俺との絆も、その程度の価値しかなかった。
 俺は、祝福されて生まれた子供ではなかった。
 笑いがこぼれる。今までこんな事に気付かなかった俺自身に向けて、俺は精一杯嗤った。道化師に
も劣る無様。必死に生きてきた結果がこれとは、親父を殺す意味も果たしてあったのかどうか。

79 :時間外No.02 ある青年の話 5/5 ◇c3VBi.yFnU:08/03/11 18:56:14 ID:8c7giJXm
「本当に、ごめんなさい……」
 そんな時ですら、人の顔を見れないこの女は何様のつもりか。勝手にいなくなって、勝手に縁を切
って。挙句の果てに、ごめんなさいとは。
「ハハッ……謝るなよ……謝るなよぉ……っ」
 いい加減、残っていた最後の心が、
「謝るなよぉぉぉぉぉおおおお!」
 壊れてしまった。

 荒れ果てた部屋の中で、ふと我に返る。足元には、いつか見た赤黒い塊が二つ。右手にはワインボ
トルが握られていて、アルコールと血の匂いで酔ってしまいそうだった。人が来る気配は無い。俺は
バックから着替えを取り出し、シャワー室で血を洗い流す。
 部屋の電話から、あの運転手に連絡した。ここまで迎えに来て欲しいと言うと、彼はすぐに向かう
と言って電話を切った。俺は塊に話しかける。
「俺は親父を殺しました。あなたが俺にくれたインコを、親父が殺したからです」
 記憶の片隅に有る、懐かしい思い出。顔を思い出した今は、昨日の事のように鮮明に蘇る。
「俺の全てでした。顔も忘れてしまったあなたとの、最後の記憶だった」
 思えば、最後の誕生日プレゼントだった。
 荷物を背負い、部屋を後にする。かつて母親だったものは、最期まで愛してるの一言も言わなかっ
た。無様に泣き叫び、罵声を上げるだけだった。赤子を必死に守るその姿が、憎くて仕方が無かった。
「俺にはもう、何もありません。自首して、罪を償います」
 さようなら。口に出さなかったその言葉は、空っぽの心に木霊する。涙も出ない。俺には結局、親
はいなかった。彼に会ったら、全てを話そうと思う。だがその前に、彼に一言言いたかった。
 俺は、生まれるべきじゃなかった。



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