【 愛の誕生 】
◆GxqZhYcGx




65 :No.16 愛の誕生 1/5 ◇GxqZhYcGx:08/03/09 23:53:21 ID:UJ1xGysT
 香歩が妊娠したという。
 直樹にどうしようと言われても俺にはどうしようもない。産むのも産まないのも結局は二人で話し合っ
て決めることだ。俺が直樹に言えるのはどちらの選択をするにしろ、香歩に誠意を持って接しろというこ
とだけだ。直樹も香歩も同じように俺の大切な友人なのだから、どちらかが悲しむようなことにはなって
ほしくない。正直に言えば、親の都合でこれから生まれようとする子どもの命が消されるべきではないと
思うし、何より幼なじみの二人の子どもは是非見てみたかったが、まだ大学生である直樹に未来を絞れと
言うのは酷なことだとわかっている。
 直樹がどうしようと言うのもつまりはそういうことなのだ。子どもを産むことになれば、建築家になる
ために浪人して入った建築学部を退学し、選り好みせず今すぐ受け入れてくれる会社にとりあえず就職し、
家計のために簡単に辞めることはできないだろう。どうせ同じように香歩と家庭を持つのなら、それは建
築家になってからでも、あるいは成れずとも迎えたばかりの二十代を自分の満足の行くように生きたあと
で結婚するならば、十年後の家族の状況は同じことだ。それは美容師になったばかりの香歩にとっても。
ただ異なるのはそのとき授かる子どもが、今香歩の腹の中にいる子どもとは別人ということだけで。
 だから俺には今の子どもの命をできるだけ彼らに尊重してほしいと祈ることしかできない。とにかくち
ゃんとケジメはつけろよ、香歩を悲しませたらお前とは縁を切る。そう言って電話を切ってからしばらく
子どもの無事を祈ったあと、俺は頭を自分の問題に切り替える。俺は俺で人生の岐路に立たされている。
子どもやら結婚やらに比べれば些細なことかも知れないが、俺は今日二十年の人生で初めて女の子に告白
をした。少し考えさせて。そう言った彼女の少しとはどの程度なのか。正直に言えば、俺は直樹との電話
の最中に彼女から電話がかかってきたらどうしよう、という不安をずっと抱えていた。幼稚園からの親友
のおそらく後にも先にもないほどに真剣な相談も、所詮は他人事なのだ。

 自分で言うのもなんだけど、俺はモテない方ではないと思う。特別モテると言う訳ではないが、年に一
回くらいは誰かしらに告られている。それでも俺が未だに女の子と付き合ったことがないのは、小学校の
ときからずっと香歩のことが好きだからだ。それは中学のときに香歩が直樹と付き合い始めてからも変わ
ることはなかった。もちろん二人はそのことを知らない。それどころか二人の仲介役を引き受けたほどだ。
ほとんど同時に二人から別々に恋愛相談を受けたときには、さすがにへこんだ。けれど、俺の好きなこの
二人が両思いで結ばれることは、俺の淡い初恋を犠牲にしても喜ばしいことである、と半ば強引に友情に
かこつけて結論づけてからは、二人に幸せになってほしいという気持ちは本心として確実に存在する。
 一方で、香歩のことを好きだという気持ちも消えずにそのまま残っていた。普通に考えて、初恋の人と
生涯を共にするなんてことはほとんどあり得ないのだから、俺もしばらくすれば他に好きな人ができて、

66 :No.16 愛の誕生 2/5 ◇GxqZhYcGx:08/03/09 23:53:45 ID:UJ1xGysT
いつかこのことを二人に冗談として面白可笑しく話せる日も来るだろうと楽観視していたのだが、そんな
日はなかなか来なかった。友達と異性を取り合って友情を取るか愛情をとるか、という話はよくあるが、
俺は直樹だけでなく香歩とも普通に友達だったわけで、二対一で友情が確実に勝っている状態ではそんな
葛藤も無意味なまま、友人たちが恋愛に精を出している高校時代を悶々と過ごしていた。やりきれなくな
ったときには、香歩をおかずにオナニーをした。時折想像の香歩のブラジャーを外す手が直樹の手に重な
ると、俺は激しい罪悪感に襲われたが、香歩を好きだという気持ちは願っても消えてはくれなかった。
 だから百合子は俺の運命の相手に思われた。サークルの後輩の百合子は、香歩とは全くタイプの違う女
性だった。長身でボーイッシュな外見だけでなく性格も豪快で男勝りな香歩とは正反対で、ウェーブのか
かった薄茶の髪を胸まで伸ばしている百合子は、女の子の中でも小さい方で、ふわふわしたスカートがよ
く似合っていた。つまりそれまで自分が好きなタイプだと思っていた子とは真逆の女の子を一瞬で好きに
なってしまったわけで、それが十年間の一途な恋の後に突如訪れたとすれば、運命と言い切ってしまうの
もあながち間違いではないように思われた。
 俺はその直感を現状の突破口だと信じた。結局のところ、選択の決定は気分や理論でなく、信仰に由来
するのだ。何かを信じたいという気持ちは確実に未来を紡ぐ。
 その日、百合子から連絡はなかった。

 隣の席には袴姿の若い女性たちのグループが座っていた。きっと卒業式を迎えた女子大生だろう。別れ
を悲しむ様子もなく、大きな笑い声がこちらまで響いてくる。俺もこんなにもあっさりとした別れを迎え
ることになるのだろうか。なんとなくついたため息とともに吐き出される煙草の煙、袴とコーヒー、そし
てマイ・ファニー・ヴァレンタイン。モダンという言葉がふと頭をよぎったころ、香歩が現れた。心なし
かお腹が大きくなっているような気がする。はっと気がついて、俺は慌てて煙草を消した。
「ごめんね、急に呼び出して。こんなときに頼れるの、健司しかいなかったから」
「いいよ、こっちだって大変なときに二人の役に立てるのは、友達甲斐があるってもんだし」
「ありがとう。だったら率直に言うわ。健司にこの子の父親になってほしいの」
 一瞬、辺りが静まり返ったのは、俺が動転したからというだけではない。マイルス・デイヴィスだけが
俺たちの会話を聞かなかったかのように、あの自由極まりないサックスを吹いていた。隣を見ると、女子
大生たちが即座に目を反らして再びおしゃべりを初めた。
「えっと意味がわからないんだけど」
「直樹からは何も聞いてない?」
 俺が首を振ると、香歩は強気だった顔を少し緩ませた。瞬間、俺の好きだったころの香歩を垣間見た気

67 :No.16 愛の誕生 3/5 ◇GxqZhYcGx:08/03/09 23:54:30 ID:UJ1xGysT
がした。
「意見が別れたの。私は下ろしたいのに直樹は産んでほしいって。私、直樹も下ろそうって言うもんだと
思ってたのに。だけど違って、その上案外頑固なのよ。俺の子どもを勝手に下ろさせはしないとか言い出
して。あげくの果てには子育てがいやなら、俺が一人で全部面倒見るから、産んでくれって。」
「おろしたいのに、俺に父親になるの?」
「手術のときに父親のサインが必要なの。父親なってほしいっていうのはそういう意味」
 予想外だった。たとえば逆なら、香歩は子どもを産みたがるけど直樹は嫌がる、と言うパターンならあ
り得るとは思っていたけれど、そしてその場合、俺は香歩と子どもの味方をしてなんとか直樹を説き伏せ
ることもしようとは思っていたけれど。
 俺はどう答えていいのかがわからなかった。だって、俺はまだ恋人がいたことがない。セックスはもち
ろん、男女の諍いなんかも経験したことがない。なのに今俺に求められているのは、正論や一般論でなく、
経験や信仰や友情に基づいた生の声だった。そうしたものを香歩は求めているからこそ、相談相手は誰で
もよかったのでなく、「健司しかいなかった」のだ。俺が経験豊富だからでなく、香歩が俺のことを信頼し
てくれているから俺を選んでくれたのだろうが、香歩の求めているものがわかるからこそ、俺にはあまり
に経験がなさ過ぎて何も言うことができない。こんな単純な疑問以外には。
「香歩はどうして下ろしたいの?」
「だって私美容師になったばかりなんだよ。今が一番努力しなければいけない時期なの。はっきり言って
子どもなんて産んでいる暇ないもの。普通に会社員だったら産んだ後に仕事復帰もできるかもしれないけ
れど、美容師なんて毎年山のように新人が入ってくるんだから、何ヶ月も休んだら居場所なんてないの」
 香歩は、そして健司も俺の知らない間にとんでもなく大人になっていた。
「ごめん、少し考えさせて。香歩の言い分はわかったけど、直樹の意見も聞きたいし。それに香歩ももう
少し落ちついた方がいいよ」
 当たり障りない返答で、俺はその場を逃げた。

 百合子からメールが来たのは告白から数日後のことだった。
「お返事遅くなってごめんなさい。私今まで男の人と付き合ったこととかなくて、それでこういうときど
うしていいかわからなくて少し考えていました。私は先輩のことを恋愛対象として見たことがなくて、で
も嫌いとかそういうんじゃないんです。お話しててすごく楽しいし、フットサルやってるところとかはす
ごくかっこ良いです(嘘じゃないです)
 特別に好きってわけでもないけれど、好意は持っていて、そんな気持ちでお付き合いをお受けするのは

68 :No.16 愛の誕生 4/5 ◇GxqZhYcGx:08/03/09 23:54:43 ID:UJ1xGysT
おこがましいような気がしています。それが私の正直な気持ちです。まだお付き合いとかなしでよければ、
今度二人でどこか行きませんか?」
 百合子の言葉で言えば、俺はずっと香歩を「特別に好き」だった。俺に告白してきてくれた子の中には
好みの子や、なんとなくいいな、と思っていた子たちも中にはいたけれど、俺には特別に好きな香歩がい
たからずっと断ってきたのだ。もしも香歩のことが好きでなければ、彼女たちの告白は全部受けていただ
ろう。そのときには、彼女たちをまるでずっと好きだったかのように振る舞いもしただろう。けれどそれ
は普通のことだ。
 だからこの百合子の初々しさに俺は胸がきゅーんとなる。なんとピュアで愛おしいんだろう。特別に好
きじゃないから付き合っていいかわからないなんて。友達以上恋人未満な関係のスタートだ。ゆくゆくは
恋人になれればいい。俺は即座に了承の返事をして、次に合う日時と場所を決める。「なんだか今度会うと
き、絶対にお互いに照れくさいですよね」とのメールに「そうだね。服とか何来てこうか今からすげー悩
む。じゃあ日曜日に。おやすみ」そう返したところに、直樹からの電話がかかってくる。

 直樹は、いつのまにか父親に目覚めていた。どうしても香歩に子どもを産ませたいから、俺からも説得
してほしいと直樹は言う。確かに俺だって香歩には子どもを産んでほしいと思っていたし、論理的に考え
て当事者たちのあいだにおいても、直樹と子ども対香歩で、二対一で産むという結論の方が多数派なはず
だ。
 でも実際に子どもを産むのは俺でも直樹でもなく香歩なのだ。その優位性は絶対に消えない。最終的に
は香歩が嫌だと言ってしまえばどうしようもない問題なのだ。それは実際に香歩に会って思ったことだっ
た。香歩だってちゃんと考えた上で子どもを下ろそうとしていて、俺にはそんな香歩が悪いとは思えなか
った。でも俺の子どもを勝手に殺す権利は香歩にだってない、と直樹が電話越しに怒鳴った声は、鼓膜を
突き破るかと思った。どうしてそんなにいきなり父性に目覚めたんだよ? 俺は香歩から話を聞いて以来
ずっと疑問だったことを聞いた。
「親が子どものこと第一に考えて何が悪いんだよ。それが親ってもんだろうがよ。俺だってわかんねーけ
ど、自分の中で一度子どもの存在を認めたら、中絶なんて考えられなくなったんだよ」
「よく意味がわかんねーよ」
「童貞のおまえにはわかんねーよ」
 かちんときた俺は、もう好きにしろと捨て台詞をはいて、電話を切った。人が真剣に相談にのってやろ
うとしているのに。
 ああそうだ、俺は童貞だから、直樹の話も香歩の話もよくわからない。頭では理解できるけど、リアル

69 :No.16 愛の誕生 5/5 ◇GxqZhYcGx:08/03/09 23:55:14 ID:UJ1xGysT
なものとして受け止めることができない。それでも友人としてできることがあればしたいと思ったし、実
際話の聞き手になることくらいしかできなかったけれど、それで十分だと思ってはいけなかったんだろう
か。……俺は無力だ。結局のところ満足な話し相手にすらなってやれなかったじゃないか。彼らは間違い
なくそれぞれに俺を頼ってきてくれているのに。メールの受信音が鳴った。
「おやすみ」
 百合子からだった。直樹と香歩に比べれば、俺たちの関係なんてままごとみたいなものだろう。何が友
達以上恋人未満なんだろう、二十歳にもなって。でもそこから始めるしかないじゃないか、俺たちは、経
験がないのだから。
 直樹と香歩だって初めはそうだったはずだ。中学のころ、俺に恋愛相談を持ちかけてきたころの二人に
は、まだ俺はしてやれることがいっぱいあった。告白の場所やら言葉やらを直樹と一緒に考えたり、それ
を内緒にしつつ、不安がる香歩にも「直樹も香歩のこと好きなんじゃないかな」とか「きっとうまくいく
よ」とかなんとか言って直樹の好きな髪型や服装を教えたりして。
 それを香歩に言うのは、本当につらいことだった。でも香歩の笑顔を見ると、香歩が幸せになってくれ
るのなら(それも直樹と!)祝福するべきだったのだ。それは間違ってない。

 ふと、香歩を好きだった頃の気持ちが甦ってきた。いつのまにか勃起していて、俺は本当に久しぶりに
香歩を思ってオナニーをした。想像の香歩は昔のままだった。俺は目をつぶって手を早めた。

 発射の瞬間に、香歩のイメージも一緒に散った。

 精液をティッシュで拭った手で俺は百合子にメールを送った。おやすみの返信で会話は終わったはずだ
けどどうしても送らなければならなかった。
 送信をしながら、俺は直樹と香歩の子どものことを考えた。

 おまえは産まれたいのか?






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