【 空が落ちる夢 】
◆TmTxvjEhng




35 :No.09 空が落ちる夢 1/5  ◇TmTxvjEhng:08/03/09 22:39:00 ID:UJ1xGysT
 空が落ちてくる。そう言ったのは誰だったか。
 祐作は枯れ枝のような腕を窓の外に広がる空へ向けて伸ばした。
現場仕事をしていた若かりし日の彼の腕は丸太のようだった。それを思えば今の痩せ細った腕はまさに枯れ枝と言えよう。
その枯れ枝が、白いシーツの上に音もなく落ちた。限界だった。祐作の身体は寿命という終焉へと向けて、着々と準備を進めていた。
ベッドの上に身体を横たえている。祐作はもう一度腕に力を入れようとはせず、呆っと天井を眺めた。病室は清潔感を出すためか白を基調とされていた。
白い天井が、虚しさを感じさせた。虚しさを感じたその心に、哀愁じみた何かがするりと入り込む。
「あぁ――」
 掠れた声が喉から出る。まだ声が出ることに驚いた。
生きている。まだ、生きている。それを噛み締めるようにして、彼は目を閉じる。
   ……夢を、見るために――。

「オイ! 寝てんじゃねぇよ、新入り!!」
 その場に居る誰もが振り向くような大声で、祐作は目を覚ました。
慣れない力仕事に疲労困憊だった彼は少し身体を休めようと腰を下ろしたまま舟をこいでしまっていた。
「どうしても眠ぃなら」
 その祐作を叱咤する声の持ち主は現場監督の山場だった。
「あそこに行って寝やがれ」
 山場が親指で示した場所はホテルだった。昼過ぎだったからネオンはついていなかったが派手な装飾からはそれがラブホテルであることが容易に想像できた。
「あそこにゃベッドがあるからな」と言いながら仕事に戻る山場を、他の作業員が「山場さん彼女出来たことないのに行ったことあるんスか」と笑いながら茶化していた。
 そのふざけたやり取りが祐作を刺激したのか、元々負けん気の強い彼は自分の身体に鞭を打ち、その日の仕事をやり遂げた。

 作業着から私服へと着替えている祐作の肩に手が置かれた。山場だ。
「よぉ、新入り。今からイケるか?」
 言いながら山場は親指と人差し指で作った輪っかを口元でくいっと傾けるジェスチャーを見せた。
「いや、俺は……」
「まぁそう言うな。行くぞ」
 まだ着替えている途中の祐作を山場は強引に引っ張っていく。
「あ、ちょっと!」
 祐作にできることと言えば寸でのところでTシャツをつかみ、上半身裸で街をうろつくという犯罪に近しい行為を防ぐことくらいだった。

36 :No.09 空が落ちる夢 2/5  ◇TmTxvjEhng:08/03/09 22:39:17 ID:UJ1xGysT
 カウンターに座る二人の前にビールが並々とそそがれたジョッキが置かれた。
「よし! じゃあアレだ、新入りの就職を祝ってカンパイしようじゃねぇか」
 意気揚々とジョッキを掲げる山場とは対照的に、祐作は顔をうつむけたままだった。
「何だよ新入りぃ。元気だせよぉ」
「……俺、やっぱこの仕事やめます。向いてないの分かりましたから」
 下を向いたまま祐作はそうこぼした。
山場は先ほどの豪快な笑顔から優しく微笑むような顔に変わり、自分のジョッキを祐作のジョッキにコツンとぶつけ、ビールを少し口に含んだ。
「……まっ、そう言うだろうとは思ったんだよ」
 山場はちらと横目で祐作を見る。無反応だった。
「皆な、そう言うんだよ。思ってたよりキツイ。ついていけそうにない。辞めたい、ってな。だから俺は初めての奴はこうやって無理にでも飲みに誘ってんだよ」
 その言葉を聞いて祐作は居酒屋に来て初めて顔を上げ、山場の方を見た。
「辞める奴は辞めるけどな、それでも俺が無理やり連れてくるようになって辞める奴が減ったんだ。だったら嫌がる奴でも連れて来といて損はねぇだろ?」
「……なんでそんなことするんです? 人がいなくなればまた別の人連れて来ればいいじゃないですか」
 山場は「あー、まぁなぁ……」と少しバツの悪そうな顔で頬をかく。そしてジョッキの中身を半分ほど一気に飲み、その勢いで口を開いた。
「俺はな……女にモテないんだ」
 真面目な顔でそんなことを言う山場に祐作は、はぁと気の抜けた返事をするだけだった。
山場は今年で三十五歳になるというのに、今まで彼女と呼べる人がいなかったという話は他の作業員が話しているのを聞いて知っていた。
山場の風貌を分かりやすく説明するなら『大柄で毛むくじゃら』。土木建築業というよりは山男と言ったほうがしっくりくる。祐作も初めて山場を見た時は熊みたいだと思ったくらいだ。
「昔なぁ、ばっちゃが言ってたんだよ。空には神様がいる。いいことをすれば神様はそれをちゃんと見てくれている。ってな」
「……それが」女にモテないことと関係あるのか? と疑問に思う。
「俺は女にモテない。見た目はこんなだし、女を前にすると変に緊張するしな。それはもうわかったし、あきらめたんだ。歳も歳だしな。だから俺は来世にかけることにしたんだよ。
今いっぱい良い事しておけば、次に生まれて来るときは、ほら、じゃにーずみたいになってるかもしれねぇだろ」
 無邪気な顔で話す山場を祐作は少年のようだと思った。思って、熊みたいな少年、と一人で笑った。
「あっ、てめぇ何がおかしいんだよ。もういい。俺がじゃにーずみたいになってもお前に女の子はわけてやらんからな」
「いいっすよ、別に。そもそも次もまた人間に生まれ変わるなんてわかんないじゃないですか。イルカとか、ゴキブリとか、熊とか……」
 言いかけて祐作は顔がにやけるのをごまかすためにビールを飲んだ。
「まぁな、だからお前も良い事しとけってことだ。人生何があるかわからないからな。常に俺の名前みたいなつもりでいろってことだよ」
「……山場?」
「そ、クライマックス」

37 :No.09 空が落ちる夢 3/5  ◇TmTxvjEhng:08/03/09 22:39:35 ID:UJ1xGysT
「もういいですから! 喋らないで下さい!」
 山場の言葉は何とか絞りだしているようで途切れ途切れだった。視界がぼやけているのか、焦点の定まっていないような虚ろな目をしている。
頭から血は止め処なく流れ、いくら祐作が止血しようと試みても無駄だった。
山場は遥か上空から落ちてきた資材の下敷きになったのだ。祐作を、かばって。
「救急車はぁっ!? 救急車はまだなのかよぉッ!!」
 叫ぶ祐作の声も嗚咽を堪えようとして震えている。
「ちょっと、静かにしろよ。頭、いてぇんだからよ」
 普通の人間なら即死でもおかしくはない怪我のはずだ。それでも山場にまだ意識があるのは、彼が山男のような屈強な男だからか、それとも……。
「山場さん……」
「泣く、なよ。自分の命張って、人助けたんだ。最高に……良い事じゃねぇか。じゃにーず、決定だろ? へ、へ……」
 それとも、祐作に心配をかけまいと必死に抵抗する意思の強さか。しかし力の無い笑いが、かえって祐作の焦りをかきたてる。
運が悪かった。山場が丁度休憩に入ろうとヘルメットをはずした直後のことだった。
もし、ヘルメットをかぶっていれば。もし、自分が気付いていれば。もし……。意味の無い考えが祐作の頭の中を何度も往復する。
「何で山場さんなんだよ……。神様はちゃんと見てるんじゃなかったのかよッ!!」
 自分をかばっての結果に行き場の無い怒りと悲しみがあふれてくる。その行き場に、信じていなかった神を持ち出す。まだ数年しか経っていないのに、もうずっと昔のように感じる、山場の話を思い出して。
「見てくれてるさ」
 山場はもう力の入らない腕を、震わせながらなんとか持ち上げ、祐作の頭の上に手のひらを乗せる。
「ほら……お前が無事だ」
 そう言って、山場は笑った。そこで祐作の糸はぷつんと音を立てて切れた。
「ぅ、ああああああぁぁぁぁ!!」 
 人目を気にせず、まるで赤子のように大声をあげて泣いた。零れ落ちる涙を拭おうともせず。ただただ、感情のままに。
「山場さん! 山場さんッ!! 俺、頑張るから! 仕事もすげぇ頑張るし、良い事だってめちゃくちゃやる! だから、だから山場さん……ッ」
「あぁ、そりゃいい考えだ……」と、息を吐き出すようにして言いながら、山場の手が力なく地面に落ちる。目が開いているのか閉じられているのかわからないほど細められる。
「山場さんッ!!」
「あぁ、オイ、こりゃすげぇぞ祐作。空が……落ちてくる」
「え?」と思い祐作は空を見上げた。涙でぼやけた空は、それでもいつもと変わらない、澄んだ青だった。
「あー、そうだ。次生まれてくる時は、お前、一緒にじゃにーず入るか?」
 それが山場の最後の言葉だった。

38 :No.09 空が落ちる夢 4/5  ◇TmTxvjEhng:08/03/09 22:39:51 ID:UJ1xGysT
 目が覚めたとき、祐作の目じりはかすかに濡れていた。乾いた指で跡をなぞる。
(泣いて……いたのか――。)
 懐かしい夢を見て泣いたのか、悲しい夢を見て泣いたのか。目を覚ました今となっては思い出せない。
ただ、自分が涙を流したことに驚いた。もうずっと、何年も、何十年も涙など流さなかった。
身近な人が死んだ時も、妙に気が張ってしまい、涙がこぼれることはなかった。
まるで歳とともに涙まで枯れてしまったようだった。
最後に泣いたのは、いつだったか……。
 祐作は目をゆっくりと閉じて、昔を懐かしむように思いをめぐらせる。今まで、色々なことがあった。ありすぎた。
仕事は人一倍こなし、慈善事業にも多く参加した。そうやって歳をとるなかで、妻を娶り、子を授かった。
しかし、妻は十年以上前に他界し、一人息子も成人する前に喧嘩別れした。今の祐作は一人だった。
働く必要もないし、誰かのために尽くすこともできない。落ち着いた今になって思えば、随分と生き急いだ人生ではなかっただろうか。
だから、もう休んでもいいではないか。
急ぐ必要はない。もう、ない。
あとはただ、一人で空へと還るだけ。誰にも看取られることなく、一人で。
……一人で逝くしかないのか。あれ程世のため人のために尽くしてきた自分が一人寂しく死ぬだけなのか。
そう考えると、祐作はあの日のことを思い出さずにはいられなかった。山場が言っていた、あの話を。
祐作は山場に対する自責の念も働いてか、今まで山場の言うところの"良い事"をやってこれた。
しかし何の見返りも無いそれは、時には辛いこともあった。投げ出したくなることもあった。
だのに山場はそんな"良い事"を自分から行っていた。彼は本当にジャニーズに入りたいがためにそんなことをしたのか。
初めて飲みに行った日の、小さな乾杯を思い出した。きっと、それが彼の本質なのだ。
だから無理に"良い事"を続けてきた自分を神様が見ていてくれなくても仕方ないのだ、と。

39 :No.09 空が落ちる夢 5/5  ◇TmTxvjEhng:08/03/09 22:40:12 ID:UJ1xGysT
「そんなことねぇよ」と、誰かが言った気がした。「神様はちゃんと見てくれてんだ」山場の声だった。
 病室の扉が開けられる。そこから中学生くらいの男の子が入ってくる。続いて中年夫婦も。
「……じいちゃん?」
 男の子は祐作を見ながら、そう言った。祐作は中年夫婦の方へ目をやる。
二十年以上の時が経ち、顔の造形が多少変わってはいるが、それは確かに喧嘩別れした一人息子だった。
息子に連れ立つ女性は落ち着いた雰囲気のある女性だ。老衰した眼でははっきりとは見えないが、良く分かる。
気難しい息子と相性の良さそうな、いい女性だ。そして……
ああ――。感嘆に息が漏れる。
二人の息子であろう男の子は初めて見る祖父が、垢まみれで生気が感じられないような自分であるのに、
心配するような目で見てくる。少年の優しさが窺えた。
そして何より、彼は中性的な可愛らしい顔つきをしていた。いかにも異性から好まれるような。
「ほらな、カッコ良いだろ?」もう一度、山場の声が聞こえた気がした。

 最後の荷が降ろされたからか、祐作は自分の体が軽くなるような気がした。
トクン、と。心臓の鼓動が聞こえた。聞こえの悪くなった耳が、突然研ぎ澄まされるようだった。
窓の外で吹く風の音を聞き取り、体内をめぐる血流の音を感じる。
調子の悪いときはほとんど見えなかった目が、今は空の青さをくっきりと映している。
祐作はすぐに悟った。
体が教えてくれているのだ。時間ですよ、と。
意識が少しずつ体から離れていくような感じがした。体から離れた意識は空へ、空へと昇って行く。
体から離れきった意識は、やがて往年の彼の姿を作り出す。
その身体を、そっと、後ろから抱きしめられるような感じがした。
母の胎内にいるようなその温もりは、生涯愛した人の温もりだった。
祐作はその見えない手に、自分の手を重ねる。二人でまた、空へと昇って行く。
空へ昇る最中、流れてゆく雲と、迫ってくる青を見て、祐作は最後にこう思った。

    ああ……空が、落ちてくる。



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