【 親と子供と恋人と 】
◆gNIivMScKg




30 :No.08 親と子供と恋人と 1/5 ◇gNIivMScKg:08/03/09 22:35:28 ID:UJ1xGysT
「ご会葬の皆様方には、ご多忙の中、ご参列、ご焼香いただき――」
 会場にはマイクを通した、友香のお母さんの震える声が響いている。黒喪服を着て、堪えるようにしながら娘への弔いの
言葉を紡ぐその顔には、憔悴のためか影が暗く落ちている。
 享年十六歳。あっけなく幕を閉じた、あまりに短い人生。早すぎる死の訪れは、人々に何を焼き付けていくのか。
 俺にとっての結末は、きっと何も変わらなかった。だが、キミは――?
 友香――――

「陽平さん。これ、どこの棚だったっけ?」
 くだらない週刊誌を雑誌コーナーに並べている俺に、商品を積み上げたカートを重そうに引きずる少女が話しかける。
「ああ、菓子パン……は分かるよな。電池とノートは二列目の奥。それで……」
 商品を確認しながら陳列棚を説明していくうち、一つ問題が生じた。カラフルな直方体の箱に『薄さ世界最小』と書かれ
たコレ。まごうことなき避妊用具なのだが、なんと言っていいものやら。別に相手は年頃の女の子なんだし、知らないわけ
がないのだが、どうもこの純真な少女の前ではそんなことすらも禁忌であるような焦りを覚える。
 いや、これも俺の勝手な思い込みなんだろう。しかし、心に生まれた背徳感はそう簡単に拭えるものでもなかった。
「あ、コンドーム? 生理用品の横、でしたっけ?」
 そんな俺の葛藤を余所に、ひょい、とそのうちの一つを手にとって気にした様子もなくそれを眺める少女。心配は予想通
り杞憂に終わったのだが、なんとも腑に落ちない感覚。女の子は見た目よりもずっと早熟だというが、男はいつになっても
夢――という名の妄想を追い続ける少年なのだな。
「そう、そこで合ってるよ。まあ、そのうちお世話になるだろうからじっくり見ておくのも悪くないぞ」
 なんとなくヤケクソ気味のセクハラ発言で返す俺は、事実、見た目以上に子供だっただろう。
 格好悪いことこの上ないが、一応年上としてのプライドは守っておきたい。情けない二十六歳のささやかな抵抗だった。
「でも……私には必要ないかもしれないです」
 呟くような声。その意外な言葉に手を止めて、思わず彼女の顔を見つめる。まだ中学生だと言っても通じる、幼さの残る
愛らしい顔立ち。その口唇からコンドーム、なんて単語が出てくることに違和感を覚えるのも少年たる俺には当然のこと。
「……たぶん、だけど」
 そう微笑む、やはり純粋な顔に、素っ気ない相槌を打つ。しながらも人知れず安堵する俺は、寂しい父親のようだった。

 とある平日である。
 どういうわけか、ランチタイムのファミレスで向かいの席に座っているのは友香だ。俺はたまたまバイトもなく、職探しに
も飽きて暇だった。そして学校に通っていない友香も暇だった。そして二人は古本屋でばったり出くわしたのだが、そこで手

31 :No.08 親と子供と恋人と 2/5 ◇gNIivMScKg:08/03/09 22:35:45 ID:UJ1xGysT
にしていた本が良くなかった。取り立ててやましい類の本ではなかったのだが、どうも友香の興味をそそってしまったらしい。
「なんで子育ての本なんか見てたんですか?」
 そう。それが原因。
 理由なんかあるようでない。高校時代の友人が妊娠出産したという知らせを聞いたので、なんとなく手にとって眺めてい
ただけなのだ。その一瞬を見つけられてしまうなんて……偶然とは恐ろしいものだ。
「なんとなくだよ。別に妊娠したわけでもなければ、出産する予定もない」
 そりゃそうですよ、と笑う友香は楽しそうにコップの中の氷をくるくると回している。
「キミこそなんでこんなことに興味を持つんだ? 確かに将来的にはそんな機会もあるだろうが……」
 何気なく訊いたつもりだった。しかし、その言葉にコップを回す動きが止まると、しばしの間、俯き黙り込んでしまう。
 返答を考えているのか、それとも考えていることを話すべきかどうかを考えているのか。俺にはどちらなのかは分からな
かったが、やがて開かれた口から出てきたのは思いもよらない言葉だった。
「陽平さん。人間が生まれるのっていつだと思いますか?」
「は?」
 こんな間抜けな返事を誰が笑うことができよう。確かに年齢のわりには聡いことを言う子だとは思っていたが、まさかこ
んなファミレスで生命論をふっかけられるとは。――もちろん赤ん坊がお母さんのお腹から出てきたとき、と言うことはで
きる。だが、そんな答えを期待しているわけじゃあないだろう。たぶん。
「そ、そうだな……人間としての最小の可能性の誕生はおそらく受精の瞬間、だろうな。精子と卵子の状態では人間として
発生することはできないからな」
 なんとか動揺を誤魔化そうと、論理的に答えてみようと試みる。
「じゃあ、受精卵は人間って言えるんですか?」
 そう返事が来るのが分かっていたみたいに、間髪入れず問いかけてくる目の前の少女。その眼差しは真剣そのものだ。
「そうとも言い切れないよ。そういった状態も生命と捉えることはできるけど、それが人間であるとは俺には思えない。人
間は人間らしい生活をして始めて人間になるんだと、俺は思ってる。だから、例を挙げれば、脳死した人は生命ではあるけ
ど人間ではないんだと思う。酷い言い方かもしれないけどね」
 そっか、と短く答えて再び考え込むように俯く友香。そんな様子に逆に好奇心が生まれる。
「友香はどう考えているんだ?」
 俺の問いに少しだけ間を空けた後、ゆっくりと顔を上げて話し出す。その顔は心なしか晴れやかに見えた。
「私はね――」

 ――挨拶は続く。あちこちから喘ぐような声が聴こえている。その中でも一際大きく聴こえるすすり泣きは会場の前の方

32 :No.08 親と子供と恋人と 3/5 ◇gNIivMScKg:08/03/09 22:36:24 ID:UJ1xGysT
からだった。後方の席に座っている俺からは見えないが、声色から察するに大人の男。
 ――ああ、もしかしてあれが例の彼なのか。
 俺は目を瞑った。

「彼氏ができたんです」
 そう聞かされたときはショックで倒れるかと思った。特別彼女にそういった想いを寄せていたわけではなかったのだが、
なんと言うんだろうか、この気持ちは。嫉妬じゃない、悲しみじゃない、喪失感のような、感情。
「そっか、良かったね」
 形だけでも祝福できたことが奇跡に近かった。だが、次に聞かされた言葉には、二の句が継げずに呆然とするしかなかった。
「うん。お金持ちなんだ。できたら来年には結婚したいと思ってるの」
 ――考えてみれば実は不思議なことではない。彼女の家は母子家庭でお世辞にも裕福とは言えない。だからこそ、友香は
高校にも行かずにアルバイトに精を出していたのだ。俺と一緒のシフトに入るコンビニの他にも、いくつかかけもちをして
いたらしい。そこで出会った上司と恋に落ち、結婚するというのは彼女の将来のためにも、毎日夜遅くまでパートで働いて
いるという彼女の母親のためにも、決して間違った選択ではない。しかし――
「軽薄な女だと思いましたか?」
 その台詞にドキッとする。一瞬でも、軽々しく結婚だ、離婚だと騒ぎ立てる馬鹿な男女と重ね合わせてしまった自分に腹
が立った。この子には明確な理由も、しっかりとした意思もあるというのに。
「あ、いや……なんて言うのかな……正直言うと、少し焦り過ぎかな、とは思うよ」
 ここがバイト上がりの薄暗い車の中でよかった。こんな顔、見せられたもんじゃない。
「そうですよね。でも、私……」
 そこまで言うと黙り込んでしまう。車は彼女のアパートへ向かう。何度も送っていった道だ。迷うはずもない。しかし、
どうにも払うことのできない沈黙が、今までとは違う景色を映しているようだった。
「着いたよ」
 なんとか絞り出した声は、しかし、彼女の強い言葉にかき消された。
「私、早く子供を産みたいんです」
 大きな声ではなかった。ただ、真っ直ぐな、凛とした、声。
 驚きがなかったといえば嘘になる。だが、俺は心のどこかで彼女がこんなことを言うのを予想していたのかもしれない。
 そして、思い出していた。あのファミレスで聞いた、彼女の言葉を。
「それがキミの生きてる証、だから?」
 彼女は頷かない。その代わりの一言だけ。

33 :No.08 親と子供と恋人と 4/5 ◇gNIivMScKg:08/03/09 22:36:46 ID:UJ1xGysT
「少しうちに上がっていってくれませんか?」

 少し黄ばんだ壁と、傷だらけのフローリングに小さなキッチン。真ん中には折りたたみの質素なテーブルが一脚。これが
友香の家。友香は冷蔵庫から麦茶を出すと俺の分、そして自分の分とグラスに注いでいく。
 テーブルを挟んで、しばらく俺たちは無言だった。グラスの中の氷がきしり、と鳴る。
「…………前にも話したと思いますけど、私、人間として生きていきたいんです」
 彼女の言いたいことは分かっているつもりだ。中学までしか出ていない自分はこの先、何か社会に貢献できる職業に、自
分がやりたいと思える仕事に就くことは難しいこと。このままではその日の生活資金を稼ぐための生活が延々と続いていく
だろうということ。経済力のある人と結婚できれば、それらを解決できるかもしれないこと。
 ――そして、それは彼女の望む『人間として』の生き方に反するものであること。
「子供を自分の意思で産む。そして、自分のやりたいこととして子供を育てる。そういうことだよね?」
 やはり友香は頷かない。しかし、その瞳の揺らぎが肯定と、そして葛藤を浮かべていた。
「でもね、本当のところ、そんなのは後付の理由なのかも。確かに私は自分の力で自分の道を選んで、自分のしたいことを
できることが人間なんだ、って言いました。だけど、最近もっと単純なことに気付いたの」
 グラスの周りの水滴がこぼれ、テーブルの上を濡らしていく。窓の隙間から吹き込んだ冷たい風が、俺の火照った体を少
しだけ冷ましていった。
「人間を産めるのは人間だけなんだ、って。私が産んだ子が人間として生きていけるなら、それは私が人間として生きてき
た証拠なんじゃないか、って」
 そう話す口唇は微かに震えて。
 分かっているんだ、この子も。それが、自分への慰めでしかないことを。自分を誤魔化すための虚言に過ぎないことを。
 若い、と思う。たかだか二十六歳の俺が言うのもおかしいかもしれない。だが、俺は妥協の意味を、それを正当化する術
を知っている。だからこそ、思う。切ないほどに真っ直ぐな心。自身の矛盾に今にも押しつぶされそうな、頼りない若さ。
「……今は苦しいかもしれない。でも、それだってキミが自分で選ぶ道だ。それさえ忘れなければいいんだ。きっと」
 これはかつて自分がかけてもらった言葉。もうその贈り主はこの世には居ないけれど、自分の中に息づく力。これで今、
彼女が救われるわけじゃない。でもこの言葉の意味が理解できたとき、きっと自分を誇れる日が来る。俺がそうだったから。
「彼氏、善い人なんだろう? 大切にしてもらいなよ」
 してやれることはもう、ない。氷の溶け切った麦茶を一気に流し込み、暇を告げようと立ち上がる。
 ――と、背中に軽い衝撃、柔らかい温度。冷えた胃とは裏腹に、ドクドクと、再び熱を帯びた鼓動は早まっていく。
「今だけでいい、私を人間でいさせて、ください……」
「…………どういうこと、かな」

34 :No.08 親と子供と恋人と 5/5 ◇gNIivMScKg:08/03/09 22:37:05 ID:UJ1xGysT
 下手な芝居だったと思う。人間でいること。自分が望むことをしたいと願う友香。それを与えることのできる俺。
「私は、軽薄で、わがままで、汚い、人間です」
 飄と流れる静寂。その言葉はどこまでも純粋に響いた、気がした。

 葬儀会場の外。喪服の内ポケットから煙草の箱を取り出し、一本に火をつけようとして、やめる。あの日、古本屋で見た
育児雑誌。その一節がよぎったから。
 苦笑しながらも、煙草の箱を再びポケットへとしまい込む。そして先ほど会場の廊下で聞いた話を思い出してみる。
 自転車に乗る友香をはねたトラックは、どうやら居眠り運転だったらしい。長距離運転で疲れてふらふらと運転していた
ところに、長時間のバイトで疲れた友香がふらふらと車道に出てきた、というのが真相なのだとか。
 本当を言うと、そんなことはどうでもよかった。友香が交通事故に遭い、死んでしまった。その事実だけが、俺にとって
必要で、重要な情報だったから。
 小雨のぱらつく薄闇の中、俺は震える自分の肩を抱いた。丁度、あの時してやったように。
 とうに枯れたはずが、つう、と込み上げる感覚。思わず空を仰ぐ俺は、誇ることだけが拠り所だった。
 俺は、あの子が人間として生きた、そう思える時間を与えられたんだ――
 傲慢でいい。俺が思うことで、あの子が生を受けたことを喜んでくれる気がしたから。

 葬儀から一週間。相変わらずのコンビニで、しかし、前とは違う昼のシフトで俺は働いている。同じ給料で来客数の多い
この時間帯は、わりに合わない気もする。だが、あのシフトだけはどうしても入る気にはなれなかった。正直なところ、こ
の店で働くことさえ躊躇われたのだが、これは情けない二十六歳のささやかな抵抗だ。
 昼のラッシュを終えたところで、複雑そうな顔の店長が、バックヤードの俺に話しかける。――あの子のことなんだが、と。

 それからすぐに俺は家へ帰された。全く仕事にならなくなったからだ。やはり情けない。
 ――でも、と思う。
 きっと、これでよかった。結末は訪れてしまったけど、彼女が生きた証は、息づいていたのだから。
 どちらのものなのかは分からない。俺である可能性は低いだろう。それでも構わない。彼女が生きる手助けをしたこと。
彼女にとっての生きた証ができたこと。そこに関連性があろうとなかろうと、選んだ道には一つの答えが出たのだから。
 友香。キミは子供だった。自分がちゃんと生きていたことも知らなかった。でも、心配要らない。もう胸を張って言える。
 俺だってそう。胸を張って言えることがあったんだ。もしも、キミがここに――――
「…………今更、か。まったく、いい趣味じゃないよなあ――」
 痛む胸を誇りながら見上げた青焼けは、どこまでも純粋に透き通っている。 <了>



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