【 愛なら負けない 】
◆QIrxf/4SJM




12 :No.3 愛なら負けない 1/5 ◇QIrxf/4SJM:08/03/09 14:42:02 ID:ZKn+Su6d
 溢れ出る涙を抑えきれず、僕は机に突っ伏して肩を揺らした。
「どうして、どうしてなんだよ――」
 一体何のために、僕は700分もの時間を費やしてきたというのだろう。
 心にはぽっかりと穴が開いて(ドリルで貫かれたのだ)、そこに二文字がこだましている。
 ニア、ニア、ニア。
 手にかいた汗はとても嫌なものだ。ある一瞬を境に、汗の持つ意味合いが負の方向へと大きく変わってしまった。
 燃え上がる情熱も、手の平に握る汗も、たったの一分ほどで台無しにされてしまったのだ。
「こんな、ことって、ニア」もう一度笑顔を見せておくれ。
 つかみどころが無く、ふわふわとしたその全てを思い出す。それは儚くも、空気に溶けて、消えていった。
 それから僕は、全てを救い、全てを失った男の後姿を思い出す。
 役目を終えれば、全てを次の世代に託して去る。確かに英雄とはそういうものかもしれない。
 乱れた呼吸を整えようとしても、肺は言う事を聞かない。
 たぶん僕は、ニアのことが大好きだったのだ。
「だけど――」別に、一人ぼっちで旅立たなくてもいいはずだ。
 ふと、背中に優しい重みを感じた。次第に熱を帯びて、小さな手であることがわかってくる。
 息が少しずつ穏やかになって、嗚咽が止まる。僕はまだコドモだから、背中をさすってもらえるのだろう。
 僕は顔を上げて、真っ黒な画面を見つめた。ぐちゃぐちゃで、すっかり気味の悪くなった顔が映っている。その奥には、綾波の綺麗な顔があった。
 僕は袖で涙を拭って立ち上がった。
 もう、目は閉じないほうがいい。
「ごめん」僕は言いながら、綾波の頬を撫でた。
「悲しいのね」彼女は僕をじっと見つめて、頬の手に触れる。
「ありがとう」僕は笑顔を作って、彼女に向けた。少し、楽になる。
 部屋を出て、洗面所で顔を洗う。スクラブ洗顔剤が、顔面をそぎ落としていくみたいだ。
 タオルでしっかり顔を拭き、薄く馬油を塗る。鏡に映る僕の目は、赤みを帯びていた。
 洗濯機の前で、ピカチュウがケチャップを舐めている。
 僕は思わず口元を緩めた。「そんなに吸っていると、体を壊すよ」
「ピカ!」電気袋が揺れる。
「大丈夫、とったりしないから」
 僕はくすくすと笑いながら洗面所を後にした。もちろん、換気扇も電気もつけっぱなしだ。
 部屋に戻ると、綾波は本棚の隣に立っていて、じっとドアを眺めていた。


13 :No.3 愛なら負けない 2/5 ◇QIrxf/4SJM:08/03/09 14:42:39 ID:ZKn+Su6d
 窓際のポン・デ・ライオンは、明日に向かって吼えている。
 僕はDVDプレイヤーからディスクを取り出して、机の上のケースにしまった。心には風穴が開けられて、ニアの実体を削り取ってしまった。
 壁にかかった時計が、八時を告げた。
「まだ、あと四時間もある」
「いいや、四時間しかないんだ」ポン・デ・ライオンは言った。「キミは十九年間、ずっとコドモとして生きてきた。目先の祝福のために、その四時間を蔑ろにしてしまってもいいのかい?」
「ここ700分を無駄にしたんだ。今更四時間くらい」
 ポン・デ・ライオンは僕の肩に飛び乗り、前足を上げて立った。
「いいかい。さっきまでの700分を無駄にするかしないかはキミ次第なんだ」
「ニア――」胸が冷たくなる。
「キミはこれからの四時間、好きなことをして過ごすんだよ。それがコドモに与えられた特権の、最後の行使だ」
「好きなこと?」
「なんでもいい。四時間を好きに使うんだ。眠ってもいい、泣き続けてもいい」
 彼らと話ができるのもあと四時間だ。一分でもその境界を越えれば、僕はオトナになってしまう。
「ニアを取り戻したい。でもどうすればいいかわからない」
 僕は綾波をみた。彼女は無表情に僕を見ている。
「だから、その次にしたい事をするよ。ジョリーパスタのピザを持ち帰って、みんなと一緒に食べたい」
 ドアの隙間からピカチュウが入ってきて、ケチャップを大きく掲げた。「ピッカ!」

 僕は買ったばかりの折りたたみ自転車に乗ってジョリーパスタに向かった。
 ポン・デ・ライオンは肩の上で、しっかり前を向いて立っている。
「ねえ、やり場のない悲しみって、どうすればいいのかな」
「大人は時に、お酒を飲んで誤魔化すんだ」
「逃げればいいの?」
「ぼくならば、壊れるまで立ち向かう」
「ポン・デ・ライオンは明日に吼える、か」
「そういうこと」
 綾波なら、ピカチュウならどうするだろう? 少なくとも、彼らは逃げたりしない。今はまだ同じコドモなのだ。
 ジョリーパスタに着くと、僕はマルゲリータを二枚買い、隣のコンビニでコーラのボトルを買った。
 家に戻り、机の上を片付けてピザを広げる。
 机を囲っているのは、綾波とピカチュウとポン・デ・ライオンと僕。

14 :No.3 愛なら負けない 3/5 ◇QIrxf/4SJM:08/03/09 14:43:18 ID:ZKn+Su6d
「あと三時間だ」ポン・デ・ライオンは言った。
「冷めないうちに、食べてしまおう」
 綾波は静かに頷き、ピカチュウが可愛らしく返事をした。準備はできた。
 手を合わせて、バカみたいに口をそろえて言う。「いただきます」
 ピザを四等分して、それぞれの受け皿に移す。ピカチュウはケチャップをかけて、ポン・デ・ライオンはシュガーをふった。
 ピザはゆっくりと減っていく。コーラは僕しか飲まなかった。
 カーテンの無い窓から、隣のビルが見える。一つの部屋の明かりが消えた。
「どうすればいいんだろう」
「やりたいことをやるんだ」
 僕は携帯Mp3プレイヤーのスイッチを入れた。小さなディスプレイに、再生途中だった曲のタイトルが表示される。
 僕の心を取り戻すために。
「おんぼろの車を手に入れて」僕は言った。
「行き先知れずのチューインガムを噛んで、そよ風に誘われたいのかい?」ポン・デ・ライオンが言った。
 黒いブーツを履いて、灰色の空の下へ旅立つのだ。
「無理だよ。」
 ピカチュウが膝の上に乗って、吐き捨てるように鳴くと、ピザを一枚奪い取っていった。
 振り向きざまに、ギザギザのしっぽが僕の頬に打ち当たる。
 僕は綾波の方を向いた。
「わかったよ」
 コーラを一口飲んで、時計を見た。あと二時間。
「行ってくる」
 綾波は無表情に僕を見て、静かに頷いた。


 黒いブーツを履いて、玄関を出る。空は全くの黒で、手にはオレンジジュースも何も持っていない。
 ドアを閉めると、激しいエンジン音が聞こえてきた。どんな車とも違う、少し変わったガスを吐く音。それはどんどん近づいてくる。
「ぼろぼろの車を、おんぼろの車を手に入れ――」ちょっと口ずさんだ。
 僕は激しい土煙に包まれた。思わず目を瞑る。
 エンジン音が静かになる。
 瞼を開くと、目の前には黄色いベスパとそれにまたがった女が浮いていた。ハルハラ・ハル子だ。

15 :No.3 愛なら負けない 4/5 ◇QIrxf/4SJM:08/03/09 14:43:59 ID:ZKn+Su6d
「一緒に行く?」
 僕はただ突っ立っていた。
「やっぱダメ」ハル子さんは言った。「まだ、コドモだから」
 彼女はゴーグルをして、空の彼方へと飛んで行った。
 ベスパのエンジン音が遠ざかって消える。
 僕はにやりとして言った。「たまには弾いてよ、そのギター」

 黒いブーツを脱いで、部屋に戻った。
 ピザはすっかりなくなっていて、ピカチュウはケチャップを舐めている。ポン・デ・ライオンはいつもの窓際に立っていて、明日に向かって吼えていた。
 ふと気になって時計を見る。あと、110分。
 綾波は流しで使った食器を洗っていた。
 僕は彼女の後ろに立った。「主婦とかが似合っていたりして」
「何を言うのよ」と綾波は言った。
 僕はにやりとする。
「やりたいことをやればいいんだね」 
 ニアは消えた。もういない。
「けれども、僕にはペンがある」
 僕はチラシを裏返しにして机の上に広げた。
 目を瞑って、ニアのことを思い出す。
 僕はまだコドモだ。きっと許される。
 ポケットからボールペンを取り出して、思うままに走らせた。
 形に残すことが何よりも大切だ。簡潔であればあるほど想像の余地は広がり、僕の風穴はふさがっていく。
『背を向ける。立ち止まる。観衆がざわめく。振り返る。指輪を拾って、そこに居る』
 ボールペンを置いた。
 チラシを折って、紙飛行機を作る。
 僕は窓を開けて、ポン・デ・ライオンの隣に立った。
「それだけでいいのかい?」
「うん」
 外へ、世界へ、紙飛行機が飛んでいく。
「二人でずっとずっと、お幸せにね」と僕は言った。

16 :No.3 愛なら負けない 5/5 ◇QIrxf/4SJM:08/03/09 14:44:45 ID:ZKn+Su6d
 僕はゆっくりとシャワーを浴びて、布団に潜った。
 電気を消す前に時計を見る。残り、3分。
 目を閉じて、鼻の上まで布団を上げた。
「ピカ!」
「もう少しでキミはハタチだ」
「おめでとう」
 次に目を開けたとき、僕はハタチになっている。
 700分はきっと、無駄にはならなかった。
 口元が綻び、体がまどろみに包まれていく。
 そして、僕は深い眠りに落ちた。


 目が覚めると、僕はハタチになっていた。当たり前だ。
 もう、僕はオトナになってしまったのか?
「髪の毛がぼさぼさかも」
 布団から出て、洗面所で顔を洗う。
 鏡の中の自分と目が合った。
 思わず、口元が綻ぶ。
 二つの瞳には、桃色の花が映っていたのだ。



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