【 チョコレートコスモス 】
◆/SAbxfpahw




105 :No.20 チョコレートコスモス (お題:色) 1/3 ◇/SAbxfpahw:08/03/02 22:43:44 ID:sDUpDDm2
 安いアパートはよく音が響く。隣の住む女の声が部屋に入ってくる。テレビでも見ているのだろうか、自転車
の急ブレーキの様な甲高い笑い声だ。
 僕は耳を両手で軽く押さえながら外に出た。何故だか外の方が静かに感じた。
 気分転換にと当てもなく歩く。ふと、道を歩く人達を一瞥すると皆下を向いている。建物の方に目を移すと、
どこの店も不景気なのかシャッターを閉めている。その中で一軒だけ、開いている店があり、店の中から押し出
される形で花が飾ってある。その店の近くに行く。看板を見ると『花屋・コスモス』とあった。
 この付近で花屋だけが、何故? と疑問に思ったけれども、自分は花には興味がないのでそんな思考はすぐに
飛んでいった。
 そこからもう少し歩くと、一軒だけ周りから浮いている西洋風の建物が見えてきた。それは喫茶店だった。
 いつもは素通りするはずなのに、今日は暇なので中に入ってみる。
 営業中らしく「いらっしゃいませ」とマスターとおぼしき中年の男性が、自分に向けて言いながら、ステンレ
ス製のお盆を片手にせわしなく動いていた。
 マスターらしき男に軽く会釈して、僕はさっきの家での事を思いだし、無意識に静かな奥の方に座ろうとする。
中は空席が目立っていて好都合だった。
 入り口からは囲いがしてあって見えなかったが、奥に赤いマフラーを巻いた女性が一人リラックスした格好で
本を読んでいた。表紙は、花には疎いのでよく分からないが可憐な花の写真というのは分かった。
 僕はその女性から左上になる位置に座り、コーヒーとショートケーキを注文する。
 コーヒーを飲もうと顔を上げると、目の中にちらちらと彼女が入ってきた。
 女性を見ながら思う、どれくらいこの喫茶店にいるのだろうかと。彼女のコーヒーカップに目をやると、コー
ヒーが入っていたであろう所に、茶色の線だけがある。暑くなってきたのか、マフラーを取った。
 僕がショートケーキを食べ終える頃には、彼女はバッグに本を納め、そして立ち上がり歩き始めた。何気無く
彼女の動く足を目が追い、そのまま目を上に動かす。その時、何かの違和感を感じた。それを考え込んでいる間
に彼女はどんどん行ってしまう。ああそうだ、あの赤いマフラーだ。
「あのお姉さん忘れものですよ」
 彼女は「えっ、私?」と知らない人からいきなり呼び止められた為か、不機嫌な表情と驚いた表情を混ぜた顔
をしながら言った。僕は彼女が座っていた席を指差す。
「あら、ほんとう」と呟き、こちらに深く頭を下げ「ありがとうね」と言い去っていった。彼女が起こした風か
ら花の薫りがした。

106 :No.20 チョコレートコスモス (お題:色) 2/3 ◇/SAbxfpahw:08/03/02 22:44:02 ID:sDUpDDm2
 その夜、隣の女のブレーキ音など頭に入ってこなかった。
 次の日また喫茶店に行くことにした。僕はあの店が気に入った。家で陰気に過ごしているよりよっぽど良い。
 シャッター通りを抜け、花屋の前に行くと昨日かいだあの薫りがし、奥の方をチラッと覗くと黒い花が置いて
あった様な気がしたが、きっと自分の見間違いだろうと思い通り過ぎた。
 喫茶店に入るとマスターが鳴いた。また、彼女がいるんじゃないかと期待しながら、入り口から奥は見えない
のでじらされながら奥へと進む。
 彼女は昨日と同じ状態でいた。目が合う。
「昨日はどうも、ありがとね」向こうのほうから言った。
「いえいえ」
 少しの沈黙があって、僕はとっさに質問をする。
「あっあの、なんの本読んでるんですか? それ」
「あっ、これ。私ね今ここの近所の花屋で働いてるんだけど、将来自分でも店持ちたくってね、その為に花の勉強中」
 頭の中で花の薫りがした。
「ところで、君は何してるの?」
「学生です。そこの大学に通ってます」喫茶店のステンドグラスの窓から指差す。
「えっ、あのブンスク大学? うそっ! 有名な所じゃん、君って賢いんだね。じゃ、将来は博士それとも官僚
にでもなるのかな? フフフ」
 意地悪な笑いをし僕を見る。謙遜しながら、笑われている事に少し嫌悪感の様な後ろ目たさの様な物を感じた。
たぶんそれは、自分は世間から見れば良い大学に入っているかもしれない。けれど、何の目標もなくダラダラと
過ごしている己と、彼女の自分の花屋を持つことが夢、との落差を感じたためかもしれない。
「勉強は良く出来ても、女性の勉強は全くダメですけどね」
 嫌な思考を立ちきるべく、滅多に言わない事を言う。
「あらあら。ウフフ」
 彼女が大人らしい振る舞いで受け流してくれた。
「もっと話ししたかったんだけど、今日は用事があるから。またね」と手を振って彼女は足早に帰っていった。
その後、今回はコーヒーだけを頼んだ。飲むといつもより苦い気がした。
 勉強の方が忙しくなり、最近喫茶店に行っていない。隣の自転車のブレーキは今も錆び付いたままだし、町行
く人は下を向いたまま、シャッター通りも賑わいそうになく、何一つ変わっていない。

107 :No.20 チョコレートコスモス (お題:色) 3/3 ◇/SAbxfpahw:08/03/02 22:44:16 ID:sDUpDDm2
 ある日、花屋の前を通ると彼女がコスモスをくれたのだった。真っ黒だった。僕は黒いコスモスなんか初めて
見たと言ったら彼女が「珍しい品種でチョコレートコスモスと言うのよ。これあなたにあげる」と言ってきた。
僕は花に興味がないからいらないと断っても「この子寒さに弱いから、注意して育ててね」と無理矢理くれたの
だった。その次の日彼女は花屋を辞めていた。
 今になって彼女の名前を訊いていない事に後悔している。僕の目の前にその花があり、鼻を近付けてかぐと彼
女と同じ匂いがする。ふと、チョコレートコスモスをもっと詳しく知ろうとネットで調べてみると、花言葉が書
いてあった。花言葉は「少女の純真」だった。
 彼女はこのコスモスを僕にあげて何を言いたかったのか、今分かったような気がする。それと同時に自分の中
で気持ちが変わった。


【完】



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