【 恋のエイプリルファースト 】
◆lnn0k7u.nQ




75 :No.15 恋のエイプリルファースト (プレゼント) 1/5 ◇lnn0k7u.nQ:08/03/02 18:41:37 ID:Z5EbkkdB
 俺には毎朝の習慣がある。それはランニングのように健康的なものではなく、お祈りのように宗教的なもの
でもない。壁にぶら下がった数百枚の紙束。その一番上の紙を破り去るだけの簡単なものだ。それ故に毎日
の継続は容易い。面倒くさがりの俺にとって唯一長続きしている習慣。それが日めくりカレンダーだった。
 今朝もベッドから起き上がると、寝ぼけ眼でカレンダーに手を伸ばし、慣れた手つきでビリッと一枚破ってやった。
破った正方形の紙はまた後で使うので机の上に置いておく。初めのうちは適当に丸めてゴミ箱に捨てていた
のだが、美穂にもったいないと言われてからやめたのだ。美穂というのは俺の誕生日に三年連続で日めくり
カレンダーをプレゼントしてくる幼馴染のことなのだが、まあこいつのことはどうでもいいか。
 俺は背伸びをしながら、破った後のカレンダーに目を移した。そこには大きく『4月』と書かれていた。
そういえばさっき破った紙は『31』だったっけか。カレンダーをもう一枚破ってやると、今度は大きく『1』という
数字が現れた。四月一日。俗に言うエイプリルフール。こんな面白いイベントの日に学校が春休みだなんて、
なんだか歯がゆい思いがするものだ。カレンダーを眺めながら、そんなことを考える。よく見ると数字の下に
小さな文字で何か書いてあったが、俺は気にせずトイレへ向かった。
 リビングへ降りると、食卓の上にラップを被されたご飯と味噌汁が置いてあった。両親はもう仕事に出かけた
らしい。電子レンジで温めたそれらを食べている最中にインターホンが鳴った。俺は箸を休めて受話器を取り
上げた。
「あ、小久保ですけど、亮一君いらっしゃいますか?」
「亮一君なら今ご飯とお味噌汁食べてますけど何か御用ですか?」
 束の間の沈黙。外の雑音だけがザーッと聞こえた。笑いを堪えている美穂の様子が俺の脳裏にありありと
浮かんできた。
「……もうっ、亮ちゃん? あのね、亮ちゃんに預かってもらってる春休みの課題冊子なんだけど」
「ああ、そういえば……」
 俺は二週間前のことを思い出した。終業式前に美穂が宿題を全て終わらせてしまったものだから、もう提出
まで必要無いなら俺が預かっておいてやろう、お前は昔っから宿題をやるのは忘れないのに学校へ持っていく
のを忘れる奴だからな、わははは、と言って春季課題のワーク数冊を美穂から預かっておいたのだ。それは
今回に限らず、大型連休になる度に繰り返されてきた年中行事であった。もちろんその本質は解答を写すこと
一点にあったといってもよい。
「そういえば、最近俺の部屋の気圧が低いんだ。ドアが物凄い勢いでバーンって……」
「……まだ写してないのね? そんなことだろうと思った」受話器の向こう側、つまり門前で美穂はやれやれと
いった表情をした、ような気がした。「別に返してもらいに来たんじゃないの。きっと忘れてるだろうから思い
出させに来てあげたのよ」

76 :No.15 恋のエイプリルファースト (プレゼント) 2/5 ◇lnn0k7u.nQ:08/03/02 18:41:58 ID:Z5EbkkdB
 俺は美穂の親切心に感動を覚えると同時に、なんだか馬鹿にされたような、自分が惨めな野郎のように
思えてきた。昔っからそうなのだ。美穂は俺のダメな部分を指摘しながらも、そんな俺を放っておいてくれない。
それは幼馴染の腐れ縁なのだろうが、対して俺の方はというと、その恩義に十分報いてきたとは如何せん言い
難いのである。
「始業式の日は忘れずに持って来てね。それが亮ちゃんの役目なんだから」
  美穂はそう言うと、話はこれで全て終わりで、あとは俺の言葉を待っている、というような沈黙に入った。
  こいつは見返りなんて求めていないのだ。当たり前か。俺から得られるものなんてあるはずがないもんな。
しかし、お前はこのままでいいのかと問いただす魂の声に対して、俺はいつまでも耳を塞いでいるわけには
いかなかった。
 俺は受話器を右手から左手に持ち替えると、固い意志を胸に淡々と話し始めた。
「美穂、少し待っていてくれないか? 俺は今からお前にもらった課題の答案を俺のまだ真っ白なワークに
驚異的なスピードで書き写す作業を開始するつもりなんだ。一ページにつき一分、いや、三十秒以下のペース
で書き写してみせる。一冊あたり約五十ページのワークが数国英で三冊、合わせて百五十ページくらい。
理論的には一時間程度で全てを仕上げることが可能なはずだ。もちろん写すペースを落とさずに一時間も
文字を書き続けることは、手首の筋肉を始めとして上腕二頭筋や肩の三角筋を著しく疲労させるだろう。
もしかしたら俺は腱鞘炎にかかってしまうかもしれない。しかし、今となってはそれすらも厭えない状況に
なっているんだ。何故かと問われても上手く答えることはできないが、そうしないことには納得できない、腹の
虫が治まらない俺の心境を察してほしい」
  受話器の向こうで小さな子供のはしゃぐ声が聞こえると同時に、窓の外からも同じ声が聞こえてきた。美穂
は俺が話している間ずっと口を挟まずに黙していた。いつになく真剣な様子の俺に気づき、神経を研ぎ澄まして
耳を傾けていたのだろう。インターホンの前で眉をしかめ、糞真面目な顔をしている彼女の姿が目に浮かんだ。
「というわけで一時間ばかり待っていてほしいんだが、もしかしてこの後何か予定が入っていたりする?」
「え、何も無いけど……」美穂はそう言ってからふふっと笑った。「亮ちゃんの話を聞いてると何だか私たちが
燃料の尽きた宇宙船に乗っていて、未知の星にエネルギーを求めて不時着しようとしているみたいね」
「いまいちよくわからないな」
「うーん、いちいち話が大袈裟ってことよ。……まあ、亮ちゃんがそこまで言うなら、待っててあげてもいいわ」
「かたじけないな。家の中に入って待っていてくれ」
 俺は受話器を元の壁に戻すと、急いで玄関へ向かった。美穂はいつもの制服姿とは違い、白いワンピースと
いう非常に女の子らしい服装で門前に立っていた。両手で桃色のハンドバッグを持ち、頭にも同じ色の髪飾りを
付けていた。まるでこれから恋人とデートに行くとでもいうような格好だ。しかし、実際は何も予定が無いと言う。

77 :No.15 恋のエイプリルファースト (プレゼント) 3/5 ◇lnn0k7u.nQ:08/03/02 18:42:15 ID:Z5EbkkdB
ということは、これが女の子の普通なのだろうか。俺にはよくわからなかった。
「亮ちゃんの部屋に入るの何年ぶりだろ」階段を上りながら美穂が楽しそうに言った。
「三年ぶりくらいじゃないか。あんまり期待しない方がいいぞ。以前とたいして変わっていない」俺は背中で
答えた。そして部屋の前へと辿り着き、ドアを開ける。「さあ、お入りくださいませませ」
 美穂はぺこりと頭を下げて、部屋の中へ入って行った。「失礼しまあす。……うわあ、本当に変わってない。
部屋ごとタイムカプセルみたい」
「変わってるのはカレンダーの日付けぐらいだろうな」俺は学校の鞄をあさりながら言った。鞄の中身も終業
式の日から変わっていなかった。美穂から預かった課題ワーク三冊は大量の教科書の下に埋もれていた。
「私があげた日めくりカレンダー、ちゃんと使ってるみたいね」美穂はベッドの縁に座って、壁に掛けられた
数百枚の紙束を見つめた。
「ああ、自慢じゃないけど、この三年間一度もめくり忘れたことはないよ。八十年経っても俺は日めくりカレン
ダーをめくり続けているだろうな。それだけが人生で唯一誇れることになっているかもしれない」そう言いながら
俺は勉強机に腰掛けた。自分のワークと美穂のワークとを並べ、右手にシャープペンシルを持つ。左手で冊子
の一ページ目を開く。おぞましい量の数式が目に飛び込んでくる。俺は覚悟を決めた。大きく息を吸い込み、
唾をごくりと呑み込むと、迅速かつ正確、しかし大雑把に解答を写し始めた。
「……それじゃあ私は八十年間ずっと亮ちゃんに日めくりカレンダーを与え続けようかしら」
 美穂が何か言ったような気がしたが、俺の頭はそれを理解するための容量を備えていなかった。一時間で
三冊を仕上げる。それだけを念頭に置いて、俺は戦場へと駆け出していたのだ。

 ――それは、まさしく戦争だった。

 最後のハイフンを打ち終えた時、俺の手から自然とシャープペンシルが転げ落ちた。背もたれにうなだれ
ながら、首だけ動かして時計を見てみると、開戦してからちょうど一時間が経過したところだった。つまり、
この戦争は我が軍の勝利である。
 俺はホッと溜め息をついて、美穂に声を掛けようとした。しかし、できなかった。ベッドに腰掛けて適当に
漫画を読んでいたはずの美穂は、いつの間にか仰向けになってすやすやと眠っていたのである。なんて無防
備な奴なんだろう。俺は呆れ返りながらも、そんな美穂のあどけない寝顔を見ていると、何か心が穏やかに
なってくる思いがした。
 ――ちょっとイタズラでもしてやるか。

78 :No.15 恋のエイプリルファースト (プレゼント) 4/5 ◇lnn0k7u.nQ:08/03/02 18:42:53 ID:Z5EbkkdB
 俺は美穂の元へひたひたと歩き出した。その手には水性マジック。どんな落書きをしてやろうか思案を巡ら
しながら、ゆっくりと近づいて行く。定番では『肉』だが、ここは敢えて『米』の方にしておくか。
 ベッドで横になった幼馴染は、迫り来る魔の手にも気づかず、静かに寝息を立てていた。俺はその体に
覆いかぶさるようにしてペンを持った右手を伸ばす。そうして、今まさにペン先が美穂の額に触れようという、
その瞬間だった。
「……亮ちゃん」
 それはきっと寝言だったに違いない。しかし、その一瞬限り俺を焦らせるには十分過ぎるほどの奇襲だった。
俺は余りにも焦り過ぎて、手に持ったペンを放してしまった。空中で自由を得たペンはすかさず重力に支配さ
れて一直線に落下した。落下した先には美穂の美しい額が光り輝いていた。
「いたっ」美穂は小さく声を上げて、目を開いた。「……亮ちゃん? な、なにやってんの……」
 俺と美穂の顔の間にはわずか数センチの隙間しか無かった。それは驚いた美穂が若干首を上に持ち上げた
せいでもある。が、やはり依然として俺が覆いかぶさっているというのが一番の要因だった。俺は敢えて体勢を
立て直そうとしなかった。
「わからないのか? 見ての通り、お前を襲おうとしてるんだよ」
 次の瞬間、百六十キロの剛速球が俺の頬にぶつかった。いったいどこから投げ込まれたんだ? 震盪する
脳で疑問に思ったが、なんてことはない、それは美穂の平手打ちだった。いや、パーで側頭部を殴られたという
表現の方が真実性を帯びているか。俺は体勢を崩して美穂の横にうつ伏せで倒れこんだ。
「きょ……、今日はエイプリルフールだろうがよ」
「言ってもいい嘘と悪い嘘があるのよ、馬鹿!」美穂はベッドから起き上がり、大声で叫んだ。「亮ちゃんなんて
大嫌い!」
 まさかこんなに烈火の如く嫌われるとは思ってもいなかった。美穂は顔を真っ赤にして俺に背を向けた。
ひどく怒っている様子である。言ってもいい嘘と悪い嘘がある、それはもっともだと俺は思った。
「悪かったよ、美穂。機嫌を直してくれ」俺は頬をさすりながら上半身を起こした。純粋に痛かった。「そうだ、お前
今日誕生日だったろ? 実は俺、プレゼント用意してるんだぜ」
 俺がそう言うと美穂は驚いたように振り返った。「なんで私の誕生日知ってるの?」
「幼馴染の誕生日くらい知ってるに決まってるだろう」
「だって亮ちゃん、今まで祝ってくれたことなんて無かったじゃない。プレゼントだって一度もくれなかった。私が
四月一日に誕生日だって言う度に、『そんなあからさまな嘘には騙されないぞ』とか言って、馬鹿笑いしてたじゃない」
 馬鹿は余計だと思ったが、否定はできないので黙認しておいた。

79 :No.15 恋のエイプリルファースト (プレゼント) 5/5 ◇lnn0k7u.nQ:08/03/02 18:43:11 ID:Z5EbkkdB
「最初は頑なに嘘だと思い込んでたんだが、三年前にあるものを見てから気が変わって信じることにした
んだよ」俺はそう言いながら日めくりカレンダーの方を見た。『1』と書かれた数字の下に黄色の蛍光ペン
で『M・B』と書かれている。「ご丁寧に毎年書き足しやがって。何がマイ・バースデイだ」
「ミ……、ミホズ・バースデイよ」恥ずかしそうに俯いたまま美穂が修正した。「気づいてたんなら、なんで
去年一昨年何もしてくれなかったの?」
「準備に時間がかかったんだよ。始めっから俺の計画じゃ三年間かかる予定だったんだ」俺はベッドから
立ち上がり、机の上に置かれた二枚の紙を手に取った。『31』『4月』と書かれた正方形の薄い紙だ。その
内の一枚を美穂に手渡す。「ほら、これで鶴を折れ」
「鶴?」美穂は不思議な顔をしながら、今朝まで日めくりカレンダーの一部だったものを受け取った。「まさか
それがプレゼント?」
「いいからさっさと折れ」俺はもう一方の紙でテキパキと鶴を折る作業に取り掛かっていた。美穂は憮然と
しながらも、それを見よう見まねで折り始めた。
 しばらくして二羽の鶴が完成した。
「ちょっと待ってろよ」
 そう言うと、俺は立ち上がって、押入れからあるものを取り出した。それは俺の三年間の習慣の賜物であり、
今ようやく完成しようとしている美穂への誕生日プレゼントでもあった。
「え……、それって」美穂が思わず声を上げた。
 俺は二羽の鶴をそいつに合体させると、ひもを固く綴じて、ついにそれを完成させた。そうして、誇らしげに
高く掲げ上げた。
「すごーい」美穂が感心しながらパチパチパチと拍手をする。「これ、もしかして全部カレンダーで作ったの?」
「その通り。雨にも負けず、風にも負けず、毎日一羽ずつ、決してくじけることなく折り続けた、俺の血と汗と
何かの結晶だよ」
「な……、何かって何よ」
「それは言えないな」俺は笑いながらその手に持った千羽鶴を美穂に手渡した。「まあ、一人で持って帰るの
は恥ずかしいだろうから、家まで送って行ってやるよ」
「うん……、ありがとう、亮ちゃん」その声は震えていた。はっとして見ると、美穂の目には涙が溜まっていた。
「な、何泣いてんだよ。そんなに失望したのか?」俺は不安になって尋ねてみた。
 美穂は首を横に振った。そして、決して華やかとは言い難いモノクロの鶴たちを抱えながら、こう呟いた。
「なんだか私、今ものすごく幸せ」
                            めでたしめでたし



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