【 ひとりひとりの協奏曲 】
◆HkDez0eBAE




50 :No.10 ひとりひとりの協奏曲 (お題:音) 1/5 ◇HkDez0eBAE:08/03/02 14:26:41 ID:5KYolZuF
 狭い部屋に流れる時間を、メトロノームが等分していく。
 モデラートよりも少し速め、といったところか――
 ほのかな木の香りに包まれながら、光一は反射的にそう思った。
 日はすでに西に傾いている。窓から注ぐ赤紫色の光は、それ自体が陰を帯びているように重苦しい。夏希は粗
末な椅子に座り、譜面台とにらめっこをしていた。小さな手に握られた銀色のトランペットが、やけに大きく見
える。楽譜の脇には小さなチューナーが置かれ、空気を震わす周波数を絶えず監視していた。
 繰り返される、八小節の単調なフレーズ。金属的な音は遠慮がちにくぐもり、壁に当たって虚しく収束してい
く。夏希の華奢な背中が、息継ぎに合わせて苦しそうに上下する。光一の口から溜め息が漏れた。声をかけずに
はいられなかった。
「今日はそのくらいにしておきなよ」
「はい、でも……今日の合奏で注意された部分、まだちゃんと出来なくて」
か細い声で夏希は言った。視線はまだ音符を追っている。
「無理が一番よくないよ。まだ合宿始まったばかりだし。疲れて、明日から音が出なくなったら困るだろ?」
トランペットは唇の振動を楽器に伝えて音を出す。長時間吹いていると唇の筋肉が疲労し、音に影響が出てしまう。
「……確かにそうですね」
「明日は昼まで自由時間だから、一緒に練習しよう。今日は早く休んだ方がいい」
「はい。ありがとうございます」
微笑みながら礼を言う夏希。肩まである黒髪がさらりと揺れた。短い会話の後に聞くメトロノームは、いつにも
増して耳障りだった。

 定期演奏会を一ヶ月後に控えた五月の連休、吹奏楽部は恒例の合宿を行っていた。
 場所は、学校のある市内から遠く離れた山間の宿泊施設。玄関に「青年の家」と書かれた木造の建物は、造り
こそ古いが六十人の部員が寝食を共にするには十分な大きさを誇っている。付近を流れる渓流は冷たい雪解け水
を運び、山々はこの時期ならではの瑞々しい精気に満ち溢れていた。
 光一は三回目となるこの合宿を楽しみにしていた。山での合宿の一番のメリットは、周囲を気にせず大きな音
が出せることだ。学校ではうるさがられる金管楽器には有り難い練習場所と言えた。
 光一は今年、トランペットパートでただひとりの三年生となった。パートリーダーとなり、毎日の練習にもい
っそう熱が入った。年度末には受験を控えているため、勉強とも両立しなければならない。
 たった一度の高校生活。最後の夏が、目前に迫っていた。

51 :No.10 ひとりひとりの協奏曲 (お題:音) 2/5 ◇HkDez0eBAE:08/03/02 14:26:59 ID:5KYolZuF
 一日目の練習が終わった。
 光一は食堂で夕食を摂っている。
 薄っぺらいハンバーグを咀嚼していると、夏希が練習している姿が脳裏に浮かんできた。やや遅れて、もうひ
とりの夏希が顔を出す。少しおどけてテンポを揺らしながら、実に楽しそうにマーチを吹き鳴らしている。入部
したての頃の夏希だった。
 夏希の奏でる音は、きらきらと輝いていた。太くて芯のある直線的な音。その周りに幾重にも異なった響きが
重なり、空気を躍動的に揺らしていた。音楽を奏でる喜びに満ち溢れていた。
「隣、いいか」
背後から部長の雅人の声がした。返事も聞かずにトレイを置き、隣の椅子に座る。頭の中にいた二人の夏希が、
同時に消えた。
「雅人か。お疲れさん」
「おう、お疲れ」
ぶっきらぼうに言うと、雅人はご飯を貪りだした。テナーサックスのストラップを首にぶら下げたままだ。光一
はそれを横目に見つつ、麦茶の入ったコップに手を伸ばす。結露で濡れたガラスの冷たさが沁みた。
「定演も近いし、コンクールも控えてるから、今のうちに言うんだけどな」
不意に箸を止め、雅人が言った。また小言が始まるな――光一は警戒した。
「後輩のこと、もっとちゃんと見てやれよ。パート練習も無駄話多いぞ。時間ないんだから集中しろよ」
光一はうんざりした。雅人の練習熱心さには、感心している。部長として、全体を率いなくてはならない立場も
わかっている。だが他のパートの練習方針にまで口を出す執拗さは、どうにもやりきれなかった。
「やることはやってるつもりだけどな。ただ、余計な緊張を与えたりするのは良くないと思ってるだけなんだが」
「言うべきことは言わなくちゃ駄目だろ。パートリーダーなんだからな」
「まぁ、それはそうだな。気をつけるよ」
光一が素直に謝ると、雅人は息を吐いた。麦茶を一気に飲み干した。
「夏希にしたって、今のままじゃまずいぞ」
「あの子のことは言うな。悩んでるんだ」
 昨年のコンクールでの出来事が、生々しく思い返される。夏希は一年生ながら技術を見込まれ、短いながらも
ソロのあるパートを任された。夏希は嬉々として練習に励んだ。
 しかし本番での夏希の音は、期待とは程遠いものだった。極度の緊張から息が震え、音が乱れに乱れた。審査
の結果、光一の高校は数年ぶりに県大会止まりとなった。
 結果発表後、夏希は泣いていた。夏希にソロを任せた当時の三年生は必死に慰めた。夏希のせいではない、部

52 :No.10 ひとりひとりの協奏曲 (お題:音) 3/5 ◇HkDez0eBAE:08/03/02 14:27:24 ID:5KYolZuF
員全体のレベルが足りなかったのだ――光一も本心からそう思った。だが夏希は泣き止まなかった。以来、夏希
の音は輝きを失った。
「確かに、去年のことは夏希ひとりのせいじゃない。けどミスはミスだ。それを繰り返さないようにしないと」
「ミスをしないことより、もっと大事なことがあるだろ」
光一は強い口調で言った。周りで何人かの部員が振り向いた。
「俺は、夏希に……自分の音色を取り戻して欲しいんだ」
「音色、か」
雅人は視線を落とした。同意する気持ちと反論したい思いが、麦茶に映った瞳に見え隠れする。
「お前はいい音を持っているからな。でも、誰もがそうだと決めつけないほうがいいぞ」
光一の歌うような独特の音色には、雅人も一目置いている。
「別に特別な音は求めてないさ。ただ、自分の音を削って欲しくないだけなんだ」
「そうか」
雅人は短く答えた。ひたすら自分の音色に磨きをかける光一と、より高度なテクニックと精度を求める雅人。楽
器に対する姿勢は対照的ながらも、二人は互いを認め合い、高め合いながら二年以上を過ごしてきた。
「定演ラストの曲に夏希を選んだのはお前だからな。信じるさ」
空の食器を載せたトレイを持ち、雅人は立ち上がった。いつの間に食べ終わったのかと、光一は呆れた。

 次の朝。
 午前九時。光一はTシャツにジャージのズボンという格好で、近くを流れる小川のほとりに座っていた。
 夏希との練習の時間には、まだ少し早い。光一は川面を見つめた。透き通ったせせらぎは浅く、川底の石の形
状や川魚の泳ぐ姿までもがはっきりと見て取れる。朝の眩しい陽射しに照らされ、川面が揺れながらきらきらと
黄金色に光っていた。ほんの少し前まで結晶だった水の流れは、いかにも冷たそうで、清涼感に溢れた音を立て
ながらあくまで急ぎ足で通り過ぎていく。
 光一は立ち上がった。大きく息を吸い込んだ。山の息吹で体内が満たされていくようだった。
 楽譜を置いてトランペットを両手で持ち、唇を引き締め、マウスピースに軽くあてがう。腹筋を持ち上げて肺
にめいっぱいの空気を吸い込み、ゆっくりと息を吹き込んだ。唇が細かく振動し、呼気とともに楽器を共鳴させ
ていく。やがてそれは柔らかいB♭(シ♭)の音となって、清々しい山の空気の中に溶け込んでいった。
 一直線だった音に、自然な揺らぎが加わる。風の足音に手を振る梢。山の恵みを運ぶせせらぎの声。幾つもの
ヴィブラートが、重なり、こだまする。冷たい金属の管は、しばし人と自然を結ぶ媒体と化していた。
 光一の指が、滑らかに動いた。バルブにより管の長さが調節され、周波数が変化する。単音は旋律となり、森

53 :No.10 ひとりひとりの協奏曲 (お題:音) 4/5 ◇HkDez0eBAE:08/03/02 14:27:43 ID:5KYolZuF
のリズムとハーモニーの中でひそやかな協奏曲へと展開していく。
 やや遅れてきた夏希は、それを間近に聴いていた。
「朝から、よくそんなに吹けますね」
ジャージ姿の夏希がやや呆れて言った。光一の音が止んだ。
「来てたのか。早かったな」
「先輩こそ、早すぎですよ」
「今なら誰もいないからな。思う存分、好き勝手に吹ける」
「人に無理するなとか言っておいて……先輩も飛ばしすぎです」
苦笑する夏希。一般に朝は心肺機能が目覚めていないため、管楽器を吹くには適さない時間と言われている。
「いったい、どうやったら……そんな風にヴィブラートをかけられるんですか?」
夏希は素直に疑問を口にした。
 光一の音色の揺らぎは、あまりに自然で誰にも真似が出来ないと言われていた。むせぶように甘く、切なく、
それでいていやらしさというものを微塵も感じさせない。夏希にとって、入部以来の謎だった。
「自分でもよく分からないな、よく聞かれるんだけど。吹いてると、勝手に音が揺れてくるんだ」
「嘘。そんなのだったら、誰も苦労して練習しませんよ」
夏希は唇を尖らせた。
「何のために、苦労して練習するんだ?」
唐突に切り返す光一。表情は柔らかいが、声音には真剣さが滲み出ている。夏希は一瞬口ごもった。
「それは……もっと上手くなるためです」
「どうして、もっと上手くなりたいと思う?」
「それは……」
視線を反らし、言葉を探す夏希。
「いいんだ。上手くなりたいっていうのは誰しも思うことだから。ただ」
光一はいったん言葉を切った。楽器に息を吹き込み、溜まった水分を抜く。油混じりの雫が一滴、二滴と草の上
に落ちた。
「ただ、理由があると思うんだ。言葉に出来ない理由が――だから、楽器に手を伸ばす。言葉の代わりに、音を求める」
光一は上を見上げた。頭上の薄い葉の裏から太陽が覗き、葉脈が透き通って映っていた。
「なんだか、不思議なお話ですね」
夏希は曖昧な笑みを浮かべた。
「わからないよな、そんなこと言っても。もっと具体的なことを聞きたいだろうに……先輩としては失格だな」

54 :No.10 ひとりひとりの協奏曲 (お題:音) 5/5 ◇HkDez0eBAE:08/03/02 14:27:58 ID:5KYolZuF
自嘲気味に笑う光一。その耳に、でも、という声が届く。
「でも。先輩の音を聴いてると、なんだかわかるような気がします。巧く言えないけど……」
夏希は光一の目を見つめた。強い、輝きをもった視線だった。
「けど、それも音で表現すればいいこと――そうですよね?」
光一は笑顔のまま、強く頷く。涼やかな風が、二人の頭をそっと撫でて通り過ぎた。
「それじゃ、適当に始めるか。まずアタマから五小節目のとこ。最初は吹き易い音量でいいよ。じゃ、いち、に、で」
光一が左手を二拍分振ると、二人の呼吸が重なった。二つの音が、不器用に絡み合いながら森のシンフォニーに
加わっていく。
 遠くで、ホトトギスが鳴いた。
 瑞々しいせせらぎの音が、メトロノームの代わりをするようにいつまでも響き続けていた。

 合宿は無事に終了した。
 瞬く間に一ヶ月が過ぎ、雨雲の去らない日々が続く。定期演奏会本番は、そんな中で行われた。
 幕間の暗いステージ上。鮮やかな照明や派手な衣装を駆使したポップなステージが終わり、いよいよ最後の演
奏が始まろうとしている。
 暗闇の中、光一は右側に座る夏希の様子を窺った。夏希はトランペットを膝に乗せ、じっと息を潜めている。
だが光一の視線に気づくと、とびきりの笑顔でVサインをして見せた。光一は苦笑して暗闇に目を戻した。
 やがて、ブザーが鳴った。緞帳がうなりをあげて上昇する。幾つものライトがステージ上を照らした。光一は
目を細めた。落ち着いている。自分たちの音が解放される瞬間を、呼吸を整えながらじっと待った。
 指揮台に顧問の教師が上り、一礼する。拍手が波のように押し寄せ、引いた。束の間の静寂を挟み、白く細い
棒が振り上げられる。数十もの呼吸が、ひとつになる。
 音が、鳴った。
 音は、振動に過ぎない。しかしそれは、楽器を通して変換された部員たちの心の震えだった。震えは会館の空
気を伝わり、客席にいる人々の鼓膜を同じ数だけ震わせた。音を通して、人々と空間は確かに共鳴していた。
 光一の耳に、幾つもの「歌」が聴こえた。
 夏希の歌が聴こえる。初めて会った頃の、純真な、輝きに満ちた歌声が。
 雅人の歌が聴こえる。上体を揺らしながら、雅人はちらりと光一を見た。その瞳は、明らかに笑顔の一部だった。
 光一も夢中で歌った。その心と身体に、いつまでも流れ続けるであろう旋律を。
 六十もの金属楽器が、ライトに照らされてきらきら輝く。旋律の流れに沿って、ゆらゆらと揺れながら――
束の間ながら、光一の脳裏にはあの山の中のせせらぎが鮮やかによみがえっていた。 <了>



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