【 プラットホーム 】
◆D8MoDpzBRE




33 :No.07 プラットホーム (お題:子供) 1/5 ◇D8MoDpzBRE:08/03/02 11:11:13 ID:bmidNYya
 店の制服を脱ぎ捨てた。時計の針は八時を指し示していた。それが夜の八時であることは疑いようもない。窓
一つないこのロッカールームにまで、夜の気配は忍び寄ってきていた。
 扉越しに店のBGMが聞こえてくる。一日中エンドレスに流れ続けているそれは、すでに同じフレーズを何回リピ
ートさせているか分からない。俺はさっさと着替えを済ませ、店の裏口に向かった。外は寒かった。路地裏を吹き
抜けるすきま風が恐ろしく冷たく感じられる。まだ夜は浅く、表通りから届くクソうるさい喧噪が耳に障った。
 池袋の繁華街を、JR池袋駅を目指して歩いた。駅舎が近づくにつれ人混みは次第に密度を増して、不快指数
を上昇させていく。信号待ちをする間も苛立ちが募ってどうしようもない。気がつくとコートのポケットの中で左手が
硬貨を握っていた。十円玉だ。わざわざポケットから手を出してみなくてもそのくらいは分かる。さびた臭いが手の
ひらに移って取れなくなるあの現象も、十円玉の時が一番酷い。
 改札をくぐりホームへ向かう。数分おきに来る山手線の電車待ちの時間ですら苦痛に思えた。悪夢のようだ、と
思った。熱を出して寝込むときに見る悪夢には必ずと言っていいほど電車が登場した。時に闇夜を走る満員電車
であったり、逆に誰も乗っていない地下鉄だったりしたが、暗いところを走っているという部分だけは全ての夢に共
通した。
「塚本君じゃない?」
 ホームに突っ立って電車を待っていると、背後から俺の名前を呼ぶ声がした。
「ミサキか」
 濃紺のコートに身を包んだ小柄な女が俺の隣に歩を進めてきた。前に会ったときに比べて髪は短く切りそろえら
れていた。全く別人のような雰囲気になっていたにも関わらず、意外に見分けがつくものだ。声で既に人物を特定
できていたから、視認したときの印象が容易について来られたのだろう。
「電車、来てるよ」ミサキが言った。
 目の前で電車の扉が開き、大量に人間を吐き出した。当たり前のことだが、その中には誰一人として同じ人間
はいない。全ての人間がそれぞれに異なった用件でこの池袋駅に降り立っているのだ。そして彼らに逆行するよ
うに俺らは電車に乗り込んだ。今すれ違った人間の中には、もう二度と会うことのない人間も数多くいるはずだ。
「塚本君、痩せた?」
「ろくなもん食ってないからな」
「私が手料理作ってあげようか? ――あ、やっぱ駄目」
「最初から期待してないけどな、改めて駄目って強調されるとむかつくな」
「そんな怒らないでよ」
 ミサキが悪びれもせずに白い歯を見せて笑った。ミサキに告白して振られたのは、もうずいぶん前のことだ。ま
だお互いに大学生だった頃の話だ。いまだにその瞬間のことは鮮明に思い出せるし、彼女だって忘れていないだ

34 :No.07 プラットホーム (お題:子供) 2/5 ◇D8MoDpzBRE:08/03/02 11:11:29 ID:bmidNYya
ろう。ミサキともしあの時付き合えていたらどうなっていただろう、と思うことはよくある。結局あの前後で色々気落
ちして就職活動にも身が入らなかったのだ。
「私、結婚することになったの」
「へえ」
「会社も辞める」
「もったいないな」
「一般職だからね」
 電車が高田馬場を通り過ぎた。ミサキは新宿で降りる。こんな知識は生きていく上で何の役にも立たない。ミサ
キが結婚するという相手のことは知る由もないが、どうせ同じ会社か似た筋の社員なのだろう。例え真相が俺の
想像と違ったとしても興味がない。役に立たない知識が増えるだけだ。
 しばらく二人とも無言でドア際に立ち尽くしていた。ガラス窓をはめ込まれた薄い鉄板一枚を挟んで、後ろを夜
景が流れていく。電車は小停止を挟んで新大久保駅を過ぎた。
「今度、一緒に飲みにでも行こうよ」
「いいのか? これから結婚する人がそんなこと言って」
「あはは、良くないかも。じゃあ、大丈夫そうだったら連絡するね」
「ああ、待ってるよ」
 次は新宿駅です、と車両に取り付けられた液晶モニタが示していた。
「結婚おめでとう」
「ありがと」ミサキが応えると同時くらいに、電車の扉が開いた。「塚本君もがんばってね」
 余計なお世話だ、と思う。
 歩き出したミサキの後ろ姿は一瞬で人波にかき消された。都内で小柄な女性と待ち合わせをすると苦労するこ
とがある。ミサキが去り際にこちらを振り向いたかどうかも、これでは確かめようがない。
 俺は目黒駅で降りた。どうせバイトするなら近場で選べば良かった、といつも後悔する。大学生時代は池袋経由
で通っていて、その時から結局バイト先を替えていない。
 駅から十分ほど歩くと下宿が見えてくる。一人暮らしの小汚い部屋だ。布団は片付けないし食器は洗わない、ゴ
ミは捨てない。片付けてもいずれ汚れる。汚さないためには片付け続けなければならないが、結局一回面倒くさく
なるとそこからは惰性で常に面倒くさくなるのだ。
 部屋にたどり着くなりテレビをつけパソコンを立ち上げ、後は眠くなるまで際限なく時間を浪費するのがいつもの
日課になっていた。

35 :No.07 プラットホーム (お題:子供) 3/5 ◇D8MoDpzBRE:08/03/02 11:11:44 ID:bmidNYya
 予測を大きく裏切る形でミサキからの連絡が入ったのは、あれから二ヶ月ほど経ったある日のことだった。
 出かける前から体調を崩していた俺は、その日バイトを終える頃には猛烈な頭痛と悪寒に襲われていた。ミサ
キからの「今夜、飲もう♪」というメールを懐かしさと恨めしさ相半ばする気持ちで眺め、結局足取りは薬局へと向
かった。まだ街頭は冬の冷気をまとっていた。
 風邪薬は飲んでもすぐには効かない。分かりきったことだが、この当たり前すぎる事実に気づいたのは風邪薬
を飲んだ直後だった。生きている限り人間はこういう間の悪さから解放されないのだろう。寒空の下での待ち合わ
せを余儀なくされた俺にとって一番薬が効いていなければならない時間帯に、結局その効用の恩恵にはあずか
れなかった。
 池袋駅東口からすぐにあるみずほ銀行前を待ち合わせ場所に指定した。俺がそこに辿り着いたとき、ミサキの
姿は見えなかった。もっとも、このような体調では人混みの中で小柄な女性を見つけるのにも格段の難易度を感
じる。視線がフラフラして定まらないのだ。
 案の定、先に相手を見つけたのはミサキの方だった。
「あれ、塚本君調子が悪いの?」開口一番、ミサキは俺を気遣うような素振りで言った。「ごめんね、そんな日にい
きなり呼び出しちゃって」
 ミサキはあの日と同じ濃紺のコートを着ていた。髪の毛は少し伸びたようだ。少し痩せたように見えた。もう少し
言えば、やつれたように見えた。
「ミサキは少し痩せたか?」
「そうね、少しやつれたかもね……なんて」
 俺たちはゆっくりと歩き出した。早く落ち着きたかったのだが、ミサキが指定した店は駅からも待ち合わせ場所
からも離れていた。
 普通に考えたら、こんなおかしいシチュエーションはない。ミサキは過去に俺を振った女で、近々俺の知らない
人物と結婚する予定なのだ。結婚相手と上手くいっていないのか、と考えたくなるのが人情だろう。いささかやつ
れたように見える相貌に関してもそれらしい理由ができる。そうやって考えを突き詰めていくと、ミサキは振った相
手である俺ならいいように利用できると企んでいるのではないか、という疑念に辿り着く。そうだとしたら失礼な話だ。
 ミサキが案内してくれた先は、暗く煙草の煙が充満したダイニングバーだった。俺らはカウンター席に案内された。
目の前にはシェーカーを振っているバーテンダーがいたが、俺はカクテルの味などに何の興味もない。ビールをあ
んな入れ物で振ったら吹きこぼれてしまうだけだ。
「ここ、料理が案外美味しいの」
 そう言いながらミサキがメニューを開いて示した。ようやく風邪薬が効いてきて辛い頭痛や悪寒は和らいでいた
が、それでも正直なところ食欲は全くなかった。枝豆とビールとお茶漬けを頼んでミサキに怪訝そうな顔をされた

36 :No.07 プラットホーム (お題:子供) 4/5 ◇D8MoDpzBRE:08/03/02 11:12:00 ID:bmidNYya
が、次の瞬間にはミサキもこちらの事情を察知したようで、申し訳なさそうに声をかけてきた。
「やっぱ体調悪いんだね、ごめんね」
「まあ、気にしなくていいよ」
「無理してお酒飲まなくてもいいよ」
「酒なら飲めるんだ」
「もう」
 ミサキはよく分からない名前のカクテルと軽食を注文した。程なくして飲み物だけがバーテンダーの手から直接
俺らに渡された。カウンター席に座っていいことがあるとすれば、最短距離で注文した品を受け取れるという点くら
いだろう。さほど重要なことではない。
 俺たちは無言で乾杯を交わした。ビールとカクテルとではどうにも絵にならなかった。入れ物がそれぞれジョッキ
とグラスだから、そもそも規格が違う。
「私ね」そう言って、ミサキがもったいぶるかのように一回言葉を切った。
「なんだよ」
「結婚の話、駄目になっちゃった」
 ミサキが口にした言葉は、何となく予感していた内容と遠くは離れていなかった。
「……それは残念だ」
 ミサキがカクテルをあおった。単に酒と愚痴を言う相手が欲しかったのかも知れない。
「私の彼がね、会社で不正な会計に関わったの。いや、不正な会計なんてものじゃない。要は会社のお金を横領
して捕まったのよ」
 正直よく分からなかったが、レジをちょろまかしたとかとは全然レベルが違うのだろう。むろんレジをちょろまかし
ただけでも立派な犯罪者になれる。
「こう言っちゃ不謹慎かも知れないけど、結婚する前で良かったんじゃないか?」
「そうね、そう思いたいわ」
 ちぐはぐな会話が続いた。案外美味しいとミサキが褒めた料理の味も、最高に不味く感じられた。枝豆やお茶漬
けなど、誰が調理してもそうそう味が変わるものではないのだが。
「でもね、遅かったみたい」ミサキが声を震わせて言った。「私の中には、彼の赤ちゃんがいるのよ」
「どうしてそんなこと、俺に言うんだ」
 俺の言葉にミサキが押し黙った。沈黙はひたすら長く続いた。俺は枝豆とお茶漬けをあらかた平らげてしまい、
胃の辺りにムカムカするものを感じながらビールを喉に流し込んだ。ビールまでもが不味く感じられ、いよいよ重
症だなと悟った。ミサキはほとんど何も食べ物に手をつけていなかったが、全く同情する気にはならなかった。む

37 :No.07 プラットホーム (お題:子供) 5/5 ◇D8MoDpzBRE:08/03/02 11:12:15 ID:bmidNYya
ろん、彼女の身に起こったことは不幸という他ない。しかし相談相手に俺を選んだという点からして奇妙だ。お腹
の中に子供を宿しながら、煙草臭いバーで酒を飲むという神経も理解できない。
「どうにかできないかな、って思ったの」
「何を?」
「赤ちゃんを……お腹の赤ちゃんだけは助けられないかなって。両親には諦めなさいと言われたの。でも、そんな
簡単に諦められない」
「俺には何もできないよ。悪いけれども」
「そうだよね」ミサキが俯いて言った。「ごめんなさい」
 その後、俺は熱いオニオンスープを頼んだ。スライスされたオニオンとコンソメの薄味なら、何とか不味いと感じ
ることなく飲み下すことができた。身体が温まるだけでもかなり違う。
「何ともならないって最初から分かってた。塚本君に洗いざらい話して吹っ切れたわ。ごめんね、こんなことに付き
合わせちゃって。明日赤ちゃんを堕ろしに行くから、何もかもそれでおしまいにするのよ」

 結局、会計はすべてミサキが済ませた。別れ際に「また飲もうね」とミサキが声をかけてくれたけれども、それが
実現するようには到底思えなかった。帰りの電車に乗り込む頃には頭痛と悪寒が再発していて、慌てて先ほど購
入した風邪薬を飲み込んだ。今までの人生で同じことを何度、実体験を以て教えられてきたか分からないが、風
邪薬はすぐには効果が現れない。頭痛が拍動するリズムと山手線の電車が揺れるリズムが決定的にずれていて、
それがまた頭痛に拍車をかけた。
 ミサキは、本当は子供を産みたかったのかも知れない。俺が「いいよ、俺が一緒に面倒を見るから」などと言い
出すのを待っていたのかも知れない。よく分からない、単なる憶測だ。次の朝には全て忘れているだろう。罪のな
い子供は罪がないまま消され、生きている者だけが罪を重ねるのだ。
 家に着いたときには頭痛も悪寒も治まっていた。下着が気持ちの悪い脂汗を吸い込んでぐっしょりと重かった。
解熱剤を使うと人間は汗をかくようにできているらしい。俺は身につけていた服をおもむろに脱ぎ捨てて、着替え
て床に就いた。
 部屋を暗くして目を閉じた。遠くで踏切の警笛が鳴っているのが聞こえた。悪夢の予感に駆られながらも、まど
ろみに落ちる意識を止める術はない。



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