【 月光綺譚 】
◆7BJkZFw08A




23 :No.05 月光綺譚 (お題:月) 1/5 ◇7BJkZFw08A:08/03/01 23:55:13 ID:YBnQmty5
 雲のない夜。
淡い月明かりが照らすのは、夜の街のごく一部。大きな建物や高い塔の影には、依然として闇がうずくまっていた。
その暗がりの石畳の上を、コツコツと一人の若い男が歩いている。酒場で寝込んでしまったこの青年が、店の主人に叩き出されたのは今より少し前のこと。
狭い路地を駆け抜けていく夜の風は肌に冷たい。ぶるり、と身震いをして、男は足を速める。
 ある曲がり角を曲がった時のこと、ぽつりとできた暗がりに、白い影が見えた。
酔いの残る頭に沸いた好奇心が、男をふらりとそちらへ近づける。白い影が、動いた。男が近づき、影が逃げようとする。
その影を、男が、捕まえた。ふわりと流れる金色の髪。纏っているのは一枚の布のような純白の衣。影は、女だった。
 男は驚いた。女が夜に一人でこんな場所にいるということ、この寒空に似合わないその格好、そして何より、ぼやけた闇の中でもわかる女の美しさに。
「どうしました」男は尋ねた。女は怯えた顔で若い男の顔を見つめるばかり。
「こんな所にいては危ない。僕の家へ来ませんか。汚いですが、ここよりはずっと良い」そう言って、「なあに、取って食うわけじゃありません」と、にこりと笑って見せた。
 男の笑顔を見て、女もほほ笑んだ。そして、こくりと頷くと、男に手を引かれながら狭い暗がりを後にした。
男は女を家へ招き入れた。家と言っても立ち並ぶ建物の中の一つ、半分崩れかけているような下宿のその一室。
しかし冷たい風は小さな隙間からしか入ってくることはなく、それだけでも身体に温かみが戻ってくるのだった。
 男は蝋燭に灯をともすと、どうしてあんな所にいたのか、女にその理由を尋ねた。
女は逡巡していたが、その内ぽつりと口の端から言葉を漏らした。
「行くところが、ありません。知っている人も、いません。どうかここに、置いてくださいませんか」
 すがるように、若い男の顔を見つめている。男は思わずどきりとした。その眼差しに負け、男は言う。
「……わかりました。わけは聞きません。ここに置いてもあげましょう。ただ、少しは働いてくださいよ。僕だって貴族様ではないのですから」
 本心を言えば、男は女と一緒にいたかった。だからこの申し出を断るはずはなかったし、しつこく理由を聞き出そうとして
この申し出をやはり無かったことにしてくれと言われたくはなかったのだ。
 若い男は裕福ではなかった。しかし生活を少しばかり切り詰めれば、女と二人でもなんとか暮らしていくことはできた。
女は働き者だった。彼の家を掃除し、修復して住み心地のいいものに変えてくれたし、暇があれば内職もした。
 二人は幸せに時を過ごし、三月が過ぎた。それは過ぎ去る風のように速く、月明かりのように儚かった。
 男はその晩、女を呼んだ。
今日、男は女に結婚を申し込むつもりだった。女は、初めて男と出会ったときに纏っていたあの白い衣を着て、男の前に現れた。
男は、女に自分の思いの丈を打ち明けた。女は、それに答えなかった。哀しげな顔をして、俯いたままだった。
 おもむろに女は男に近づき、ふぅ、と男の傍にあった蝋燭を吹き消した。辺りが闇に包まれる。そして女は、窓を開けた。
柔らかな月光がさらさらと入り込んでくる。
 女はおもむろに男に抱きついて、唇を重ねた。「もっと、一緒にいたかった……」そう呟いて、女は男から離れ、窓際に立った。
降り注ぐ月の光が、女の身体を徐々に薄れさせて行く。男は我に帰って、待ってくれと叫んだ。

24 :No.05 月光綺譚 (お題:月) 2/5 ◇7BJkZFw08A:08/03/01 23:55:56 ID:YBnQmty5
女はそれに答えず、はらりと一粒の涙を零した。その涙が床に落ちて弾けるのと同時に、女の体は薄闇に溶けるように掻き消えた。
後に残ったのは弾けた涙の輝き、白銀色の悲しみの一片だけ……
                           ◆
 彼が目覚めたのは、大きな樫の木の上だった。燦々ときらめく麗しい朝の光が、緑の木の葉を軽やかに照らしている。
「ここは……?」彼は自分がどこにいるのかは知らなかったが、どうしてここにいるのかは知っていた。
 彼は本来ここにいるはずがなかった。彼は空と大地の狭間、月光と陽光の裏側にある、天の世界の住人であった。
天の使い、いわゆる天使というのが、彼の就いている職業の名前である。
人々が畏れ敬う神々の、恐れ怯える魔物達の、その他もろもろ人間の世界のものと異なるものたちの世界から、彼はやって来たのだった。
 天界とこちらの世界を繋ぐ門の近くを歩いていた時のこと、一筋のいたずらな突風によって彼は弾き飛ばされた。
運の悪いことに、門がその口をわずかに開けており、彼はそこからこちらの世界へと飛ばされてしまったのだ。
 ぼやけた頭を、緑の匂いと爽やかな風が心地よく目覚めさせる。
頭が目覚めてくるにつれ、彼は自分の置かれている状況の極めてまずいことに気がついた。
通常、彼ら天使たちがこちらの世界へ降りる時は特別な衣服に身を包み、それでもって天界に戻ることを可能とする。
天界とは天にあるとされているが、ただ空へ飛べばたどり着ける場所では無いのだ。
彼の場合、その肝心の衣服を身に纏わずに平服のまま放り出されてしまったため、つまり天界へ戻ることが叶わないのだ。
 彼はひどく気落ちして、樫の木を後にした。
人間の子供のような姿に、一対の翼。空を飛んでいる時は彼の姿は人間には見ることができず、歩いている時は翼だけが見えない。
 彼は近くの町を訪れた。それは汚い町だった。
どこか死んだ魚のような臭いの混じるひどい空気、風は澄んだ空気を運んでくれるわけでもなく、ただひどい臭いをかき回して過ぎて行くだけである。
通りに満ちるのは汚れた浮浪者達と空っぽの酒瓶ばかり。目の前を歩いて行く人々は、誰も彼も虚ろな眼をしている。
 夕焼け空を滑る風に混じって町の夕餉の匂いがすると、彼は腹が減っていたことを思い出した。天界のものとて腹は減るのだ。
しかしここには彼の喉を潤してくれる涼やかな風も無ければ、彼の腹を満たしてくれる甘い霧や木の実の香りは期待できそうもない。
 彼は屋根の上に腰をおろした。いつの間にかあたりは暗くなっている。
町のはずれで大きな篝火でも焚かれているのだろうか、空が赤い。月の哀しげな光が、彼の頬をなでる。
 世界を異にしても、見上げる月は同じ。さらさらと流れるせせらぎの様な雲が、欠けた月の前をゆるやかに通り過ぎていく。
星々は息をひそめ、夜の薄雲と篝火の煙がその瞬きを覆い隠す。
 彼は肩を落として、篝火の燃えるその町を後にした。
                           ◆
 その男の両手足は冷たい鉄の輪に捕らえられ、無慈悲な鎖がその身体を繋ぎ止めている。
弓なりに張り出した岩壁の先から下ろされた鎖の先で、男の身体は宙に浮いている。

25 :No.05 月光綺譚 (お題:月) 3/5 ◇7BJkZFw08A:08/03/01 23:56:19 ID:YBnQmty5
冷たい夜の風が男の身体を揺らすたびに、ジャラジャラと鎖がぶつかり合う音がする。
(ああ、一体いつまでこうしていればいいのだろう!)
 男は早くここから解放されたいと願ったが、男の願いを叶えようとするものは誰もいなかった。
 絶えることのない飢えと渇き、焼けつくような昼の暑さと凍えるような夜の寒さ、果てることのない孤独……
幾度の朝と夜を過ごしただろう。その度毎に夜明けを憎み、日没に歯ぎしりした。
すすり泣くような響きを含む乾いた風が、男の苦しみを分かち合ってくれる唯一の友である。
 虚ろな眼窩に映る景色は忌まわしく歪み、吹きすさぶ風音が唇の無い口から冷笑の響きを漏らす。
男を繋ぐ鎖はひどく古びていながら、一向に切れてしまう気配はない。
男をこの岩壁に繋ぎ止めたまま、ただジャラジャラと鳴りつづけるだけである……

 男はかつて名の知れわたった大悪党であった。
その持って生まれた類まれな悪事の才能を生かし、一人で盗み、殺し、騙し、裏切り、なんでもやった。
それもついに捕まって、刑罰を受けることとなった。その刑の名は『魂縛りの刑』……

 乾いた身体が風に揺すられ、その度に鎖が鳴る。
もはやその身体にあの逞しかった筋肉の面影はなく、文字通り骨と皮だけがその身体の形をかろうじて留めている。
 男の変わり果てた姿を、月が照らしだしていた。露出したあばら骨の隙間に入り込んだ風が、楽しげに踊っている。
男は月が好きだった。昔は仕事がしにくくなると満月を嫌ったものだったが、今はぎらぎらと身を灼く昼の太陽より、
柔らかく涼しげな月の光の方がいくぶんか心地よかった。
 そう、男の身体はとっくの昔に生命の輝きを失っていた。
あるのはただ虚ろな男の亡骸と、今なおその中に閉じ込められている男の魂、そしてそれを繋ぎ止める鎖……
男は最初、この刑罰は飢えと渇きによる残酷な処刑であると考えたが、それは違った。男は自らの命が潰えた時にこの刑の本当の意味を知ったのだ。
この魔性の鎖が捕らえるのは、肉体ではない、身体ではない、その魂なのだ、ということに。
 男は肉体の生命を失ったが、未だに苦しみを感じ、昼夜それに苛まれ続けている。
いや、あるいは肉体が死ぬ前よりももっとひどくなったかもしれない。
飢えと渇きはもはや単純なものではなく、死と安らぎをもとめるそれであり、吹きつける風は裂かれた傷口に指を差し込まれるよりなおひどい痛みを男に与える。
 男の目は腐り落ちたが、未だに見え続ける荒涼とした目の前の景色が男に絶望を与え続ける。
今まで、男と彼を縛り付けた処刑人達以外の人間が、この不毛の地を訪れたことはない。
十年、百年、あるいはそれ以上。今も男は鎖に囚われたままだ。風が哭きながら通り過ぎて行く。
 ああ、一体この魂に安らぎのもたらされる時はいつになるのだろう……

26 :No.05 月光綺譚 (お題:月) 4/5 ◇7BJkZFw08A:08/03/01 23:56:44 ID:YBnQmty5
                           ◆
 一人の若い男が旅をしていた。その男は、かつてある女を愛していた。今はかつて以上に愛しているかもしれない。
しかし男の愛する女は月夜の晩に男の前から姿を消した。それから男はずっと、女の幻影を探し求めてこの大地を彷徨っているのである。
 旅の途中、男はある町に立ち寄った。それは汚い町だった。罵声があちこちで聞こえ、酒と煙の臭いばかりがたちこめている。
男は顔をしかめた。入ってすぐにこの町を出たくなったが、既に地面は橙に染まっており、建物の陰には夜の姿が見え隠れしている。
仕方なしに男はその町で一泊することにした。
 その夜のことである。男の泊まっている宿屋の隣で、火事が起きた。
原因は知れぬが、今にもこちらへ燃え移りそうな火の勢いを見て男はすぐに宿から飛び出した。
そこで男は不思議なものを見る。月明かりにふわふわと漂う白い塊。目を凝らせば人のよう。
男は駈け出した。その白い人影に、想い焦がれる女の、その幻影の残滓を求めて。
 白い人影――天使は町から飛び立ったあと、一人の若い男が自分の後ろを付いてくるのを知っていた。
彼は自分の姿が人間に見えないはずだと思ったが、例外も多いことに思い当る。
生まれつき彼らが見える人間というのもそれなりに存在するし、一度彼らのような天界のものと関わると、それから先彼らの姿を見ることができるようになるものもいる。
 天使は男のことを放っておいた。見たところ彼を捕まえようというのでもなく、ただただ後を付いてくるだけである。
だから彼は放っておいた。どうせ行くあてもない。男がどこまで付いてくるのか、そのことにも興味があった。
 こうして奇妙な二人旅が始まった。
風の中を白い翼と衣をはためかせながら飛ぶ天使と、それを見上げながら、憑かれたように歩き続ける男。
月と太陽は互いに何度もその位置を入れ替わり、風が運ぶ匂いも移ろい通り過ぎていく。
きらめく湖と深緑の木立、遠い山々の峰から吹き下ろされる荒々しい風の唸り声、広い草原の彼方に佇む巨岩の塔……
 天使と男はどれくらい飛び、どれくらい歩いただろう。
彼らは今、ある荒涼とした、不毛極まりない土地を歩いていた。夜の冷たく、乾いた風が砂と虚無を渦の中に巻きながら滑って行く。
 若い男はふと歩みを止めた。視線の先にあるのは宙吊りにされた骸。
男の肩のあたりから宙に浮いているその骸の虚ろな目と視線が合った時、男は何かをこの骸に感じた。
 何の気なしに男は骸へ触れた。干からびた身体に、やはり生命の輝きは感じられない。
ジャラ、と鎖が男の腕に触れた。途端、男の頭に、いや、魂に、心が伝わってきた。
(鎖を……)(鎖を……外してくれ)(……頼む……)
 切れ切れに聞こえる魂の悲痛な呻き。その叫びには哀切を呼び起こすありとあらゆるものが詰まっていた。
「私からも頼みます。どうかその鎖を外して頂けませんか」
 突然声がしたので、男は驚いた。見れば、自分の前をいつも漂っていたあの天使が男のそばに立ち、こちらに話しかけているのだ。
「どうして……?」男の口から思わず疑問の声が零れ落ちる。

27 :No.05 月光綺譚 (お題:月) 5/5 ◇7BJkZFw08A:08/03/01 23:57:19 ID:YBnQmty5
「どうしてとは、私があなたに話しかけたことですか。それとも私があなたに頼む理由ですか。それとも……
いえ、そうですね。そもそも私が今まであなたと言葉をかわさなかったことが間違っていたのかもしれません」
 そう言って、天使は自分の事情――こちらの世界へ落ち、帰る術を持たないこと――を全て語った。
「つまり、その骸の男の魂は今その鎖によって捕らえられています。その魂が解放されれば、天へ昇り、天界へとたどり着きます。
私はそれに掴まっていれば、一緒に天界へと帰れるのですよ」
 なるほど、と男は頷いた。そして、絞り出すようにこう言った。
「天界、もしかしたら、彼女は……」若い男は骸に繋がった鎖を握りしめ、堰を切ったように話し始めた。
 自分の旅の、始まりと、そのあるかなしかの目的とを。
 天使は男の疑問に全て答えてくれた。男の出会った女は天女であり、彼女らの習慣である修行として一時の間この世界へ来ていたこと、
そして、一度天界に戻った後は恐らく再び会うことは叶わないだろうこと……
 男はそれを聞いて落胆したが、天使は目の前の骸を縛る鎖を見て、ある方法を告げた。
「この骸を繋ぐ鎖は、魂を縛る鎖ですが、同時に魂を繋ぐ鎖でもあります。姿を見ることはできずとも、あなたとその女性が、真に愛し合っているならば……」
 月夜の晩、水面に映った月に自らの腕に巻いた鎖を垂らす。それを天界の女が同じようにすれば、二人の魂、心を一時の間繋げられるという。
「天の上でも地の上でも、見上げる月は同じです。月の光は魂の架け橋という言葉もありますから」
 男はすぐさま鎖を外しにかかった。鎖を止めていた楔は少し引っ張っただけで岩壁から抜け落ちた。
どうしてこれが今まで外れずにいたのかと思うほどのあっけなさであった。それから天使に言われるままに鎖の一本を半分に断ち切り、一方を天使に渡した。
 男が天使に、女のことを知っているのかと尋ねると、天使は「想いの形を見ればわかります」と答えた。
 骸の四肢から鎖を外してやると、淡い白色の塊がふわりと骸から抜け出た。
(まさか死んでから初めて誰かに感謝することになろうとはな……ありがとうよ)
 骸の声が男の魂に響く。天使が急いで浮き上がった骸の魂にしがみつく。
「では、さようなら」「ああ、よろしく頼みます」短い別れの後、骸の魂がさやけき月光の彼方へと昇っていく。
 一条の真っすぐな光は天へと昇り、空の一番高いところで夢幻の輝きを残して、夜の静寂の中に消えた――――

 ある村のはずれに、不思議な男が住んでいる。
男は月の綺麗に出ている晩に庭の小さな池の前に立ち、腕に巻きつけた鎖を池に垂らして微笑んでいるという。
その姿は、奇妙でありながら至上の喜びに包まれているかのように幸福そうである。
働き者ではあるが、まだそう年取ってもいないのに決して嫁を取ろうとしない寡黙な男。
 月夜の晩に、今日も男は池のそばに立つ。
そんな男の姿を、月は柔らかに、美しく、照らし出していた。



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