【 僕らの/望んだ/最初の/言葉 】
◆wDZmDiBnbU




18 :No.04 僕らの/望んだ/最初の/言葉 1/4 ◇wDZmDiBnbU:08/03/01 23:11:02 ID:YBnQmty5
 ありがとう、と、書き出しの言葉は決まった。
 でも、そこから先が出てこない。当然だ、私の言いたいことはそんな一言で片付けられるよ
うなものじゃない。などと、つい大真面目にそんなことを考えて、そして私は一人悶える。寝
間着姿のまま、「ぬわあああ」と薄汚れたカーペットの上を転がる二〇〇八年三月一日の朝。
 冷蔵庫から牛乳を取り出して、いや取り出すのももどかしく冷蔵庫から直飲みするくらいの
勢いで、とにかく一気飲み。その冷たい喉越しは、しかし火照った頬を冷ますにはいささか役
不足で、そして無意味にお腹ばかりが緩くなった。駆け込んだトイレの中、開けっ放しにした
ドアの隙間から、黒猫の「ナス」が顔を覗かせる。
「こっちみんな」
 と、そう言ってやったら、なんか「にゃーん」とか言われた。乙女の排泄を覗き見しておい
て、もう少し気の利いた返事はないのだろうか。寝癖あたまをぼりぼりとかいて、ウオッシュ
レットのボタンを押す。温水機能が壊れているせいで、私の全身を衝撃が襲った。まだ冷え込
む早朝のこと、さすがに、こいつは効いた。思わず「あっふぅ」とか変な声が出て、そして「
にゃーん」と言われた。
 部屋に戻ると、テーブルの上に開きっぱなしのMacBookがある。白くて四角くてとても可愛
いのだけれど、でもその画面に表示されているものが問題だ。それは「便所の落書き」なんて
揶揄される、インターネット上の巨大な掲示板で、そしてここ最近、私はずっとそこに入り浸っ
ている。二年前、当時同棲していた彼氏から三くだり半を突きつけられ、そしていまのアパー
トに引っ越して以来、こんな生活ばかりを続けていた。いかんなあ、と近頃ひとりごとの多い
私。そしてその度に、「にゃーん」と言われる。うるさい、と叱っても、やっぱり「にゃーん」
とくる。もう放置するしかない。
 たまたま近所に捨てられていたのがこの「ナス」で、その頃は彼女もまだ赤ん坊だった。似
たような境遇からか思わず拾ってしまい、そして案の定、私は育児ノイローゼに陥った。そも
そもフラれたばかりの人間が、生後間もない子猫の面倒とか無茶な話で、まして周囲に頼れる
人間のいないこの状況。おめおめと実家に帰るのは癪だったから、一人でなんとかしようと決
意して、そしてすがったのがこの「巨大掲示板」だった。
 案の定、あまり役には立たなかった。奴らはおっぱいのことしか頭にないらしく、そしてア
ドバイス通りに子猫に自分の乳を与えてみたところ、舌がざらざらして非常に痛かった。そも
そも妊娠もしていない私の乳腺から母乳が分泌されようはずもなく、いくらフラれたばかりで
混乱しているとはいえしかし私の行動は滅茶苦茶だった。そんな中、このナスもよく生き延び

19 :No.04 僕らの/望んだ/最初の/言葉 2/4 ◇wDZmDiBnbU:08/03/01 23:11:22 ID:YBnQmty5
ることができたと思う。いまではすっかり遊びたい盛りの彼女を、しかし私は無視して掲示板
に没頭する。なんというか、最低の飼い主だった。「にゃーん」と言われるのも仕方ない。
 ナスはとても可愛いし、そして彼女の食費のために、ちゃんとアルバイトもしているのだけ
れど、しかし当然それでは収入が追いつかない。貯蓄は目減りする一方だし、じゃあ再就職か、
なんて考えても、そんな気力は湧いてこない。そもそも年齢が年齢で、まだ二十代の半ばとは
いえ、当初の計画では私は今頃、あの彼と結婚して家庭に入っているはずだったのだ。それを
見越して仕事も辞めたというのに、しかし全てのことが裏目に出て、そんな私はいま半ばニー
ト生活だ。親に合わせる顔がないので、当分実家に帰る予定はない。つまり、いまの私には、
やるべきことが何一つとしてなかった。だからやむを得ず、ネットにはまる。もう、最悪のパ
ターンだ。アルバイトのない毎週末、私はパソコンの前にずっと居座る。

 週に一度のお楽しみ、その掲示板で行われているのは――まあ簡単にいうなら、小説の見せ
合いっこだった。
 いい歳こいて小説とか、そんな批難はまあ、甘んじて受けよう。本当はちょっとした暇つぶ
しと、あと変な自尊心の暴走みたいなもので、つまり、
「こんなおっぱいバカどもにまともな日本語の文章が書けるか」
 という、つまりは怒りと憎悪と嫉妬のような感情があって、そしてこいつらのその行動を滅
茶苦茶に叩き潰してやろう、という破壊衝動が生まれたのがきっかけだった。しかし調子こい
て投稿した小説が思いのほか好評で、そして久々に人から褒められた私は、ものすごく簡単に
舞い上がった。それ以来、毎週末の予定が埋まることになる。
 でも、それも今日で最後かもしれない――そんな私の独り言は、やはり「にゃーん」の一言
で片付けられた。
 ありがとう、という書き出しは決まった。でもその先がとっちらかるのは、やっぱりその言
葉が嘘八百だから、なのだと思う。
 素直に言うなら「死ね、死んでしまえ」という言葉が一番近い。この掲示板は、私から大切
なものを盗んでいきました――あなたの、心です。と、そう言うかわりに「にゃーん」という
ナス。言いたいことは、よくわかる。私はこの掲示板に、その向こうに蠢く無数の存在に、そ
して共に筆力を競った人間たちに、なんとも言いようのない感情を抱いている。名も知らぬ、
顔も知らぬ、それどころか年齢性別国籍その他一切を知り得ない、わかることは「おっぱいに
異常な執着を見せる」ということだけの、そんな彼ら彼女らについて思うとき。私の胸に去来

20 :No.04 僕らの/望んだ/最初の/言葉 3/4 ◇wDZmDiBnbU:08/03/01 23:11:45 ID:YBnQmty5
するのは、複雑としか言いようのない思い。遠くて近いような、いつかどこかで巡り逢いたい
ような――そんな自分に気が付いて、そして私は「ぬわあああ」とのたうち回る。いい歳こい
て、私は何を考えているのだろうか。
 憧れや理想を、見も知らぬ幻に投影するのは昔からの悪い癖で、つまり私は夢見がちだ。で
もそんな私もさすがにいい歳で、まだ見ぬネットの向こうに王子様が、なんて妄想はさすがに
ない。ないのだけれど、でもこの妙なこそばゆさはいったいなんなのだろう。決して知り得な
い人間に対して、どうしてこれほどの親近感を覚えるのか。彼らのくれる感想に、そして見せ
つけられるその才能の輝きに、胸が高鳴るのはどうしてだろうか。
 ありがとう、なんて、そんな表現しかできない自分が、恨めしい。
 伝えたければ、書くしかない。そんなことはよくわかっているつもりだ。でもどうしても書
けない、私にはそのための文才がない、だなんて――そんなことは言い訳なんだってことくら
い、とっくの昔に自覚している。それは文才どうこうの話じゃなくて、単なる覚悟の問題に過
ぎない。
 それでも、やっぱり指が止まる。
 この歳になって、しかも見も知らぬ相手に。
 おまいら大好きだ――とか。それって気持ち悪いんじゃないか、と思う。

 断じて、恋ではない。でも、それによく似ている、と私は思い出す。すっかり忘れていたそ
わそわ感が、私の中に蘇る。明確な対象がいない、という点を除けば、いまの私は恋する少女
そのものだ。どうしても書けなかった、書きかけの便箋が記憶をよぎる。「好きです。付き合っ
てください」。定番の一言さえ書けなかった、そんな私にはあの頃から文才がない。
 そんな私の駄文を、必要としてくれる人がいた。
 私の文字に"商業的価値"を認めてくれる、そんな社会が、現実にあった。
 それを教えてくれた『彼ら』に、また猫の舌がヤスリ同然と気付かせてくれた名無しの群れ
に、私の抱いた幾許かの憧れ。それを言葉にすることは、とてもじゃないけど叶わない。この
私には、残念ながら文才がない。「にゃーん」と同意の声がして、やっぱり私はのたうち回る。
願わくば、同様にのたうち回る人がいてくれれば――と、そう願う私は牛乳を一気飲みし、そ
して再びトイレにこもる。
 これで、本当にお別れ――と。
 そう決意した次の週末には、やっぱりまた、私はここを覗いているのだろうから始末が悪い。

21 :No.04 僕らの/望んだ/最初の/言葉 4/4 ◇wDZmDiBnbU:08/03/01 23:12:22 ID:YBnQmty5
 私の人生に、ドラマはない。書いて伝えるだけの内容もない。そもそも、そのための才能が
ないのだ。それでも書くのは、言わずにはいられない何かがあるせいだと思う。「にゃーん」
だなんて言われても、でもそこだけは曲げられない。たった一言、伝えたい言葉。私の望んだ
その言葉が、彼らの望む一言でありますように。
 文才ないけど小説書く。
 ――それはきっと、誰にも許されたことだから。
 だから私は、さよならの代わりに。そして、ありがとうの代わりに。どうしても伝えたい気
持ちを、言葉に乗せて。
 ネットの海の中心で、私は叫ぶ。










『   ――釣りでした。   』







 ―― 第百回BNSK週末品評会 『 僕らの/望んだ/最初の/言葉 』
                   使用お題:第四十二回『VIP』 了 ――



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