【 耳鳴り 】
◆fSBTW8KS4E




36 :No.13 耳鳴り 1/2 ◇fSBTW8KS4E:08/02/24 17:29:47 ID:p26tZrwY
 右耳である私が、右手を好きになったきっかけとして、主である女が失恋をしたことがあげられる。
 幼い頃から主は、髪が長く、私はいつも視界が狭かった。
 そんななか、右手と知り合ったのは主が自分で頭を洗えるようになってからだ。甘い匂いのシャンプーを持って、彼は現
れた。主は私の後ろを念入り洗い、その時間私たちは軽く挨拶を交わす程度で、むしろ私は、主の下手なシャワーのあて方
にイライラしていた。
 しかしそれも最初のうちで、私はお風呂から上がったあとの、バスタオルでごしごしと身体をすられるのが楽しみになっ
ていた。
 右手のことを気にかけるようになったのは、私がこめかみと話すようになってからだ。彼女は物知りだった、脳みそと近
いからかもしれない。私が眼鏡に気をつけるようになったのも、彼女が教えてくれたからだ。眼鏡というものは、私の骨を
痛めるものらしい。なので私はこめかみを通してまだ見ぬ両目に、無理をしないでくださいと頼んだりした。
 その彼女曰く、右手はなかなかの好青年だ、と聞いた。確かに、主が耳かきをするとき、彼は申し訳なさそうに謝ってく
るし、主の癖で右手が私のたぶを触るときに、彼が暇つぶしにする話は面白かった。
 例えば、雨の冷たさと雪の冷たさについての違いについてだったり、主が授業中にするペン回しの上達具合についてだっ
たり、鍵盤の上を走る快感についてだった。
 主は小さい頃からピアニストを目指していた。主が弾くピアノは時報のような通る音ではなく、雨上がりのクラクション
のような天井のない、抜けた音のようである。主はピアノを弾くとき髪を上げて後ろで止めるので、私は視界も音も遮られ
ることなく楽しめた。
 やがて、主は、一人の男性に恋をしたらしい。こめかみが両目から聞いた情報によると、同じ音大に通う一人の学生らし
い。その学生の吹くサックスの音色は、主のピアノの音によく合い、私は鍵穴を回すときに聞こえる、溝と溝とがかみ合う
音に似ているなと思った。
 どういう経緯かはわからないが、主と学生は付き合い、そして同棲をするようになった。
 ここだけの話、私はその学生の両手には好感を持たなかった。学生が主を抱き寄せて、肩に手を回すとき、右手で私を触
ってくるのだが、皮膚の下から聞こえてくる血流は、騒音に近い。
 主、この人はよくないですよ、私がそう念じてみても、主は耳鳴りがすると言っただけで気にもとめなかった。

37 :No.13 耳鳴り 2/2 ◇fSBTW8KS4E:08/02/24 17:30:07 ID:p26tZrwY
 私の読み通り、関係はそう長く続かなかった。学生は最後に、君は音楽以外まるで駄目だな、なんて言って出て行った。
 主はドアの強く閉まる音があった後も耳を塞ぎ、うずくまっていた。いつもは陽気に話してくる右手も、その時は神妙な
顔で私にくっついているだけだ。
 私も主のために、一刻も早くあの学生の声を忘れようと努力をするが、難しい。
 それから一晩開けるまで主は動かず、私と右手はずっと見つめ合っていた。主が涙をぬぐい、右手に付いたそれは、その
まま私に伝わり、これが悲しさなのだな、と理解して、私も涙を流さないで泣いた。
 次の日、主は美容院に行き、髪を短くした。長い間、私の視界を遮っていたものは無くなり、私は久しぶりに青空という
ものを見上げた。
 主はいっそうピアノに打ち込むようになり、音は以前よりも鋭くなった。ただその鋭さは、何かを引き裂いた悲しさでは
なく、太陽に続く光線の鋭さに似ている。
 私は右手が奏でている音色に包まれながら、こめかみからいいことを聞いた。

 本当にプロになったのか、僕は昔の自分の恥ずかしさを懐かしみながら、雑誌のページをめくる。
 そこには昔僕が付き合っていた人が、新進気鋭のピアニストと言われながらピースをしている姿が載っている。昔の僕は
音楽を求めることに全てを注いでいた。そんな中で、僕の出す音とぴったりはまるような人が彼女だった。僕は彼女の音を
知ろうと、付き合い、彼女を求めた。
 しかし彼女の音は、僕が近づけば近づくほど、鈍くなってゆき、魅力を無くしていった。僕は怒り、嘆き、酷いことを言
って彼女と別れた。その後に、卒業試験の会場で聞いた彼女の音は、僕の想像を軽く超えたのだ。それを考えると、彼女に
とっても僕にとっても、結果オーライな気もする。
 ページをめくると、彼女が今度出すCDについてのインタビューが載っていた。
――アルバムのタイトルなのですが、「耳鳴り」って言うのはどういう意図があるのですか?
「意図って言うほどたいしたことじゃないんですけど、耳鳴りって私にとっての心が落ち着く音なんですね。耳鳴りがする
と、こう両手で頭を押さえるんですけど、そうするとなんか右手と右耳の間が暖かくなって、落ち着くんです。その暖かさ
は、離れていた人同士が再会するときの温度に似ていて、今回は出会いをテーマにしたアルバムなので、こうつけました。
でも、私以外わからないですよね(笑)」



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