【 えごころ 】
◆19coR4EEkw




2 :No.01 えごころ 1/3 ◇19coR4EEkw:08/02/09 02:43:33 ID:W3zH5fuk
 黒く塗りたくられたカンバスに『こころ』という題をつけて展覧会に出したら「余りに衝撃的」という寸評と
共に金賞をもらった。授賞式でインタビューを受けたので「実は三歳の弟が描いたんです」と言ってやる
と客席からわははと笑いが起きた。ややっ、さすがユーモアがある。その事実は殊更に衝撃的だ。と聴
衆たちが身勝手なことを次々にのたまう。審査委員長で達磨(だるま)似の中年男などは「君の弟三歳
にして天賦の才ここに極まり」とわざわざマイクで会場じゅうに響き聞かせた。どうやら面白おかしいこと
を言ったようで、瞬間どっと笑いが起きたが、俺だけ何が面白いか分からずに何だかくやしい思いをしな
がら立っていた。
 ただ彼奴らは弟の本当の年齢を見抜けなかった点において無能を晒した。俺の弟は今年から小学校
へ通い始めたから確か六歳のはずである。三歳というのは適当に吐(つ)いた嘘だ。それをマイクでもっ
て得意げに指摘してやると、今度はなんだか極(き)まりの悪いざわめきが起こった。俺はその反応を不
満に思ったので、お偉いさん方のほうを睨んでみると、彼奴らも彼奴らで訝しげに眉を顰めて囁き合って
いた。しばらくして委員長の達磨が「君、本当に弟に描かせたのかね」と訊ねてきた。要領の悪い奴だと
思いながら俺は「何か問題でも?」と答えた。すると喧騒はますます大きくなったので、俺はこの時はじ
めて何か問題があったのだと理解することができた。
 達磨は表彰式を早々に切り上げさせ、俺を裏の廊下へ呼んだ。来賓のお偉いさん方がその脇を通り
過ぎるたびに、俺の顔をしかめっ面でちらっと見るのが気に障った。式の前には恭しく挨拶をしてきたくせに。
「あの絵を描いたのは君ではなくて弟というのは間違いないのだね」
 廊下に足音が無くなってから、達磨は再び訊ねた。間違いないので、俺はその通りであると頷いた。
 事は一ヶ月前、新聞で展覧会の広告を見て、元美術部の腕を鳴らしてやろうと、久々に筆を持ってみた
のだが、いかんせん昔みたいに発想が湧いてこない。そんな折に小学校から帰った弟が部屋へやって
来て「あんちゃん、何しとるん」と聞くから、絵を描いているのだと言った。すると「絵やったら僕得意やで」
と抜かすので、「どれ描いてみろ」とカンバスを弟の部屋に運んでやり、三日経ってからまた訪れてみたら、
あのやたら黒いだけの絵が窓際に置かれていたのだった。
「だったら、君……、絵の作者は、君の弟ということになる。つまり規定に違反しているわけだ」
 なるほど、弟の描いたものは弟の名で出品されなければならない。表彰されるのも今頃教室で"さんす
う"を習っているであろう弟であるのが正しい。俺は心の中で合点を打った。俺は弟の描いた絵を、弟とい
う手段を使って俺が描いたのだと思い込んでいたのだ。
「前代未聞のことだが、とりあえず不正行為とみなして金賞は撤回させていただく。よろしいかね」

3 :No.01 えごころ 2/3 ◇19coR4EEkw:08/02/09 02:44:20 ID:W3zH5fuk
「仕方が無いでしょう」俺は続けて確認作業のつもりで訊ねた。「もちろん金賞は弟にやってもらえるんですよね」
 そうすると、達磨はたちまち閉口した。俺はどうやら何かまずいことを言ったらしい。何がまずいのか聞きたく
思ったが、彼の険相はそれを許さなかった。そして、彼は顔を真っ赤にして、本当に達磨のように怒鳴り立てて
きた。
「なぜ三歳児が描いた絵に賞をやらねばならんのだ。君はただでさえ芸術を冒涜し、私たちを馬鹿にしているの
だぞ。幼い弟の落書きを自分のものだと偽って出展し、金賞をもらって、これほど非常識な奴がいるか。減らず
口を叩くのもいい加減にしたまえ。君には心底失望させられる」
 その勢いたるや岩に打ち付ける滝の如く峻烈なものであった。俺は辟易しながらも、「三歳児ではなくて六歳
児である」と、すぐさま達磨の言葉を訂正した。
「三歳であれ六歳であれ、どちらでもよろしい」
 達磨は尚も赤い顔をして高圧的に喋った。
 俺は心の中に何か言葉にならない違和感を覚えていた。そうして、不意に一つの疑問が湧き上がった。何故こ
いつは絵そのものまで否定しているのだろうか。あの『こころ』という題の真っ黒な絵を金賞に選んだのはどこの
誰であったろうか。俺の心の奥底でいつしか達磨の美術に対する不純さを追及する火炎が燃え上がっていた。
「とにかく、今日のところはもう帰っていただいて結構。また追って処分を言い渡します」
 達磨がそう言って踵を返そうとしたので、俺はそれを待てと食い止めて、先ほどの達磨に負けず劣らずの勢い
でまくし立てた。
「六歳であれ、六十歳であれ、絵は作者の手を離れた時点で、ただの絵ではないか。誰が描いたのかを考慮に
入れなければ、評価ができないのが真の芸術といえるであろうか。俺の覚えによれば、お前はさっきまであの絵
を賞賛していたはずだ。しかし、作者の判明した今では童子の落書きとまで評価を貶めている。それが真に芸術
と向き合う者の姿勢であろうか。俺は断じてそうは思わぬ」
 一気に言い終えると内側の火炎が急に弱まるのを感じた。達磨はぽかんとしていたが、何か言い返そうと考え
ているようでもあった。俺はこれ以上何も言うことが無かったし、何を言われても返す気力は残っていなかったの
で、すたすたと廊下を歩いて勝手に帰ってしまった。後ろから声を掛けられたような気がしたが、行く道は遮られ
なかったので、そのまま歩き続けた。

4 :No.01 えごころ 3/3 ◇19coR4EEkw:08/02/09 02:44:50 ID:W3zH5fuk
 あの絵を見た時、窓際に佇んでいたカンバスを見た時、俺は感動したのだ。感動したからこそ、これを世間の
目に多く触れさせてやりたいと思った。そうして実際に認められたのに、それは芸術を軽々しく見る偏見によっ
て潰されてしまった。非常に惜しいことだ。俺は家路を辿りながら、自分の失態が悔やまれて仕方が無かった。
 家に着くと台所から弟がアイスを嘗めながら出てきた。一足早く学校から帰ってきたところらしい。俺はふと気
になって、どうしてあんな絵が描けたのかと訊ねてみた。アイスの棒を銜えた弟は、予想だにもしない言葉を返
してきた。
「どうもこうもないわ。描きかけやったのを勝手に持ち出しおって。後々あっこに星を散りばめて、銀河鉄道描く
つもりやったのに」
 瞬間、俺は何もかもが馬鹿らしく思われ、腹を抱えてけらけらと大声で笑った。弟が憮然とした表情でそれを
眺めていた。
 他人の理解なんて幻想。芸術を解する心なんて、ありやしない。
 ――芸術こそ世界で最も無駄な宝物だ。



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