【 御茶ノ水リトルパンドラ 】
◆QIrxf/4SJM




120 :選考外No.02 御茶ノ水リトルパンドラ 1/5 ◇QIrxf/4SJM:08/01/28 20:02:25 ID:+qrCveeM
 小さな恋のメロディを見た後、冷めてしまったコーヒーを捨てて、紅茶をいれた。
 部屋は暗かった。酷く散らかった床を注意深く歩き、紅茶をこぼさないように運ぶ。布団の無いコタツから赤い光が漏れ、からから音がしている。その上に紅茶を置いて腰掛けた。
 手を伸ばしてDVDを入れかえると、テレビの光で部屋が明るくなった。ふと、時計を見る。午前三時。
 イージー・ライダーの本編が流れている。二人のクズが、ずっとバイクに乗っている。何度見たか分からないが、そんな不毛な映画だった。
 紅茶のバッグを取り出して放り投げると、息を吹きかけて啜った。トワイニングのプリンス・オブ・ウェールズだ。
 ザ・バンドの演奏、美しいアメリカの風景、理不尽な暴力、名前ばかりの自由。
 ぷつん、とテレビが消えた。電源のランプも、コタツの熱源も消えている。
「ついに来た」と僕は言った。残酷なことに、電気が止められたのだ。
 空は明るみ始めている。
 テレビの横に立てかけてあるギター、五八年製のリッケンバッカー325を見た。
 僕は洗面所でガスと水道が生きていることを確認すると、熱いシャワーを浴びた。一番気に入っているウェスタン・シャツの上に赤いパーカを羽織って、ジーンズを履く。靴下は親指の先が破れていた。
 DVDプレイヤーから、ディスクを取り出すことはできない。小さな恋のメロディだけ、持ち運ぶことにする。B5大のショルダー・バッグの中にディスクと紅茶のバッグ半ダースを突っ込み、ギターをケースに入れて背負った。 赤茶けたブーツを履いて、玄関を出る。
「バイバイ」僕は鍵を閉めると、キーケースごと外に放り投げた。もう二度と、この場所に戻ってくるつもりは無い。
 ポケットの中には、くしゃくしゃになった千円札が入っている。
 0325。自転車の鍵を外して、ショルダー・バッグを前カゴに入れる。ギターを背負ったまま、僕は進みだした。
 道路には誰一人居なかった。行く宛ては無いが、寄りたい場所は一つだけある。遠い空の赤みと、頭上の青、後方の黒を時々見比べながら、そこを目指してこぎ進めていく。
 当たる風の冷たさに、ポケットへ突っ込んだ手を何度も替えた。住んでいた街が少しずつ離れていく。朝が少しずつやってくる。
 川を渡って商店街を抜けると、すぐに閑静な住宅街が見えてきた。そこを抜けて線路の脇にある道を進む。駅の前から伸びている通りに方向転換して、僕は言った。「もうすぐだ」
 この道は今までに何度も歩いた。家から出て五分のところにある駅から、電車に乗ってここまで来る。そして、七分歩くのだ。
 錆付いた看板が見えてきた。世話になった楽器店、ミズシマ楽器。僕は自転車を降りて、開店前のドアを叩いた。出てくるまで、しつこく続ける。
「開店前だ」気だるそうな店長の声が聞こえて、ドアが開かれた。彼は僕を見て、溜息をついた。「何だ、お前か。入れよ」
 店に入って、カウンターの前にある椅子に腰掛けた。ギターを下ろす。
「街を出ることにしたよ」
「そいつと心中かい?」店長はギターを指して笑った。
「逆さ、こいつと生きる」僕はギターケースの上に手をのせた。こいつはかつて、この店のど真ん中に華々しく飾られて、一日三度の手入れを施され、神格化されていたのだ。
「そうかい。もう行くんだろう?」
「ああ」
「ちょっと待ってな」店長はバックエリアを向いて叫んだ。「おーい、あれを持ってきてくれ」
 遠くで、奥さんの返事が聞こえた。
「何?」

121 :選考外No.02 御茶ノ水リトルパンドラ 2/5 ◇QIrxf/4SJM:08/01/28 20:02:55 ID:+qrCveeM
「まあ、待ってなって」
 しばらくして、奥さんが現れた。「まあ、あんた出て行っちゃうのかい」
 僕が頷くと、彼女は三枚のピックをくれた。
「これはな、」店長が言う。「ジョン・レノンが日本武道館で投げたピックだ」
「嘘だろう?」
「嘘だ」店長が即答する。
 思わず僕は吹き出した。
「でもねえ、これは開店以来ずっと売れ残ってたピックなんだよ。今となってはヴィンテージ物さ。たぶんね」
「ありがたく受け取っとくよ」僕はピックをポケットにしまって、ギターを背負った。「じゃあね」
「手紙くらいよこせよ」
 僕はにやりとしてそれに答えると、店を出て自転車にまたがった。これで、この街に用は無い。

 昼飯は食わなかった。日が沈み始め、辺りは赤く染まっている。僕は小さな恋のメロディを思い出しながら、無心に自転車をこぎつづけた。
 夜が訪れるにつれて、両の足にも限界が来ようとしていた。
 すっかり暗くなり、外灯を辿りながら進んでいると、公園を見つけたので自転車を置いた。ベンチに腰掛けて空を仰いだ。雲で月が隠れている。おもちゃのスコップが、砂場に突き刺さっている。まるで、何年もそこにあったかのように、辺りの風景に溶け込んでいた。
 僕はケースからリッケンバッカー325を取り出して、簡単な曲を弾いた。
「ねえ、お兄さん」ベンチの後ろから声がした。掠れた男の声だ。
 僕が振り向くと、そこには薄汚れた格好をして、浅黒い肌をした男が立っていた。
「ギター上手いね。なんて曲?」
 僕が無視してビージーズのメロディ・フェアを弾き語っていると、男は隣に腰掛けた。
「小さな恋のメロディだろう?」
 僕は手を止めた。
「いい時代だった。俺も家があって、家族もいた」彼はあんパンと冷めたコーヒーを僕に差し出した。「これ、あげるよ」
「ありがとう」僕はポケットからくしゃくしゃになった千円札を取り出した。「すまない、これしか持っていないんだ」
 男は黙って首を振った。
 僕は頷き、千円札をしまって、パンとコーヒーをおとなしく受け取った。
「かわりに、もう一度聞かせてくれないかい?」
「オーケー」僕は目を瞑り、再びギターを掻き鳴らした。
 
 僕はひどく喉が渇いていた。貰ったコーヒーは既に飲み干してしまったし、あんパンは喉を潤してはくれないだろう。

122 :選考外No.02 御茶ノ水リトルパンドラ 3/5 ◇QIrxf/4SJM:08/01/28 20:03:18 ID:+qrCveeM
 喫茶店を探して進んでいくうちに、郊外に出てしまったようだった。辺りは田畑ばかりで、住宅一つ見つからなくなってしまったのだ。
「やれやれ」僕はつぶやきながら自転車を進めた。
 空は皮肉なほどに晴れ渡り、冬にしては過ごしやすい気温である。
 追い風に体を任せていると、一軒の家が見えてきた。近くに自転車をとめて中を覗くと、そこがどうやら喫茶店であることに気付く。喫茶ペパーズ、という看板が立てられていたからだ。
 僕は嬉しくなって、ドアの前に立った。ドアノブに手を伸ばすと、クローズドの表札が掲げられていることに気付く。
 気が遠くなり、目を瞑った。ドアの向こうから、小気味良い音楽が聞こえてくる。
 突然、それを遮るかのように、後ろで犬が吼えた。
 振り向くと、シェパードを連れた男が立っている。犬は尻尾を振り、僕に飛びつかんとしていた。
「すみません、今日は休業日でして」と彼は言った。
 彼は短めの髪の毛をムースで後ろに流して固めていて、糊の効いたワイシャツを着ている。とても、清潔そうに見えた。
「あの自転車、あなたのでしょう?」
 僕は頷いた。
「わざわざ、自転車で遥々と――」彼は顔を俯けた。「何の準備もしていないのですが、それでもよろしければあがっていかれますか?」
 もう一度、僕は頷いた。

 僕はカウンター席に座って、彼の出すコーヒーを待っていた。天井からは、ずっとオールディーズが流れている。店内のしっとりとした雰囲気を引き立てていた。
「長旅なのでしょう?」
「たぶん、一週間くらいになる」
 彼はカップを僕の前に置き、デカンタからコーヒーを注いだ。「サンドイッチ、いかがです?」
 僕は彼の出したサンドイッチを受け取って、コーヒーの味とともにを楽しみながら、オールディーズを聴いた。
「そのギター、見せてもらえませんか?」
 僕はケースからギターを取り出した。彼はカウンターから出てきて、ギターを受け取った。
「リッケンバッカー、325? 本物ですか?」
 僕は頷いた。「五八年製」
 彼は言葉を詰まらせた。そして、我に返ったかと思うと、ギターを隅々まで見分し、頬を上気させて言った。「ちょ、ちょっと、弾かせてもらっても構いませんか?」
 僕が頷くと、彼は隣に腰掛けて、ギターを構えた。六弦からゆっくりと弾いていく。
「すごい」彼は興奮気味に言った。「まさか、私がこのギターを弾くことになるなんて」
 ギターの音に呼び寄せられたかのように、どこからともなくシェパードがやってきて、僕たちの前に座った。
「この子はね、リボルバーって言うんです。もちろん、アルバムから取ったんですよ」
 彼は熱狂的なビートルズファンであるようだった。シェパードには、獰猛なイメージがあったものだが、リボルバーは愛想がよくて人懐っこかった。何度も僕の足元に頭を撫でつけては、しっぽをぶんぶん振った。

123 :選考外No.02 御茶ノ水リトルパンドラ 4/5 ◇QIrxf/4SJM:08/01/28 20:03:52 ID:+qrCveeM
「一曲いいですかね?」
 僕が頷く前に、彼はビートルズのプリーズ・プリーズ・ミーを唄い始めた。
 冷めていくコーヒーも気にならない。
 そうして楽しい時間は瞬く間に過ぎた。僕は彼と交代でビートルズを演奏した。
「そろそろ、行きます」
「そうですか。またいらしてください。できればそのギターを持ってね」と言って彼は笑った。
「千円しか持っていないんだ」
「結構ですよ。五百円、お釣り出しますね」
 千円札を取り出そうとして、ポケットから手を少し出したとき、ぽろりとピックが落ちた。
 それを見た彼はくすりと笑い、両手を出した。「それで結構です」
「これ、で?」ピックを拾い上げ、彼の手の平に乗せた。
「記念です。325をこの手で弾いたっていうね」彼は懐から名刺を取り出して、僕にくれた。「あなたにも記念です。ちゃんと、住所書いてありますから」と言って、彼は笑った。
 
 二日後だ。僕は同じように自転車をこいで、見知らぬ街を抜けていった。
 この辺りはすっかり田舎だった。途中で立ち寄った家の殆どの人は親切にしてくれて、水を飲ませてくれたり、シャワーを浴びさせてくれたりした。
 いい気分で、自転車を進めていた。ここのところずっと晴れが続き、季節は確実に春に近づいている。道端に花が咲き始めれば、楽しみはさらに増えるというものだ。
 そこへ、倒れている女の人を発見した。脇に自転車をとめて駆け寄る。彼女は足を押さえて、苦しそうにしていた。
「大丈夫?」
 僕が言うと、彼女は無言でカーディガンのポケットからペンを取り出して、空中に何やら文字を書いた。
「紙?」
 彼女は何度も首を縦に降った。
 僕は後ろポケットから先日貰った名刺を取り出した。
 裏返して、彼女はこう書いた。『さっき、足を挫いて、歩けないのです』
「見ればわかるよ」僕は彼女を抱きかかえて自転車の荷台に横乗りにさせた。「これ、持ってて」
 彼女は僕のギターケースを抱えて、必死に頷いた。
 彼女を乗せて、自転車をこぐ。曲がり角に差し掛かるたびに自転車を降りて方向を確認した。
 しばらくして彼女が指差したのは、残酷なことに、見上げるほどに高い急な上り坂だった。
「ここをのぼれって言うのかい?」
 彼女はこくりと頷いた。
「やれやれ」僕は助走をつけて、一気に駆け上がった。立ちこぎに、自転車も心臓も悲鳴を上げているような気がする。そういえば、ここのところあまり物を食べていない。

124 :選考外No.02 御茶ノ水リトルパンドラ 5/5 ◇QIrxf/4SJM:08/01/28 20:04:16 ID:+qrCveeM
 結局、僕は彼女を荷台に乗せたまま、自転車を押して坂を上った。頂上に、彼女の家があった。
 僕は彼女を椅子に座らせて足首に湿布を貼り、動かないように包帯で固定してやった。
 彼女をよく見ると、とても小柄であることが分かる。僕よりも幾つか年下であるかもしれない。真っ直ぐ伸びる黒髪から、小さな耳が覗いている。彼女はどうやら喋れないらしいが、その分表情が豊かだった。
 僕は以前貰ったあんパンを袋から出して半分に割り、彼女に差し出した。「食う?」
 彼女が頷いたので、僕は湯を沸かして、紅茶を入れた。久しぶりの、プリンス・オブ・ウェールズである。
 キッチンから戻ると、彼女はケースからギターを取り出して、見様見真似で構えていた。親指で不器用に六弦を鳴らしている。
 僕はしばらくその様子を眺めながらあんパンを食べて、紅茶を啜った。
 彼女も首をかしげながら、あんパンを食べる。
 思わず、僕は吹き出した。彼女の後ろに立ち、持ち方を指導する。そして、ピックを一枚手渡した。
「ピックはこうやって持つ」彼女の右手に僕の右手を被せて、ゆっくり弾いてみる。
 それからいくつかの簡単なコードを教えた。が、彼女はどれ一つとちゃんと音を出すことができなかった。
「初めはそんなものだよ」僕は言った。「そのピックあげるから、どこかでギターを手に入れて練習するといい」
 彼女はこくりと頷いた。
「それじゃあ、そろそろ行くよ」
 彼女が僕の袖を引っ張った。
「まだ、何かして欲しいことがあるのかい?」
 彼女は首を振った。
 僕が歩き出そうとすると、再び袖を掴む。そして、彼女は立ち上がった。
「一緒に、いきたいのか?」
 彼女は大きく頷いた。
「家族は?」
 彼女は悲しそうな顔をして首を横に振り、小さなスケッチ・ブックとサインペンを僕のショルダー・バッグに詰めた。
「やれやれ」骨が折れる、と思った。なんせ彼女は今、歩くこともできない。けれども僕は彼女を荷台に座らせて、ギターを託した。
「しっかり持つこと」
 彼女は真剣に頷き、ギターケースを抱きしめた。
 来た道の反対側を見下ろす。素敵な傾斜だ。「飛ばすよ」
 自転車が下り坂を滑り始める。スピードはみるみる上がっていった。向かい風が顔にぶつかって、髪の毛が逆立つ。
 僕はハンドルから右手を離してポケットに突っ込んだ。
 くしゃくしゃになった千円札の端を掴んで、空高く掲げる。
「バイバイ」と言って、僕は右手を広げた。



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