【 現代金狂い小話 】
◆VZpO0svMyk




81 :No.20 現代金狂い小話 1/3 ◇VZpO0svMyk:08/01/28 17:16:20 ID:iApBR0zd
「あれ、臼井さんじゃないですか」
 臼井は街中で自分の名が呼ばれるのを聞いてぎょっとした。彼はここのところ株売買で巨額の金を稼いでいる
男としてメディアに露出することが多く、見ず知らずの人に話しかけられることが度々あった。振り向くと若い女が
立っており、どこか見覚えがある顔をしていたが、どうにも誰なのか思い出せないで黙っていると、女はあ、と声を
立てた。
「ごめんなさい、私、松竹堂の岡部です。いつもお世話になっています。この間臼井さんをテレビで拝見しましたよ、
すごいですね、一億だとか十億だとか……私、株のことは全然分からないんですけど」
 早口で喋る女を見るうちに臼井は彼女が松竹堂の受付嬢の一人であることを思い出していた。普段は皆と
お揃いの制服を着て同じ髪型をしているので、こうして髪を垂らして明るい色味のコートを着ていると一瞬誰だか
分からなかったが、それでも臼井が思い出したのはそのような個性のない格好をした受付嬢たちのなかでも一際
目を惹く存在だったからだ。華やかな笑顔にやわらかな響きの声、澄んだ瞳は静かで、彼女が受付嬢のときは
少し心が上向くような心持ちがしていたので、彼女が自分のことを覚えていたことを嬉しく思う反面、自分の心を
見透かされていたようで気恥ずかしく、街中で声を掛けられたことに個人的な空間に踏み込まれた思いがしていた。
「ああ、岡部さん……どうも」
 臼井は当たり障りのない答えをしたが、彼女は特に気にした様子もなく「駅までご一緒していいですか?」と
聞くので、断ることもできず臼井も「ああ、いいですよ」と答えていた。
 道すがらやたら「すごいですね」を繰り返して臼井の話を聞きたがる女の軽薄さに心が沈むのを感じつつ、
臼井は質問には丁寧に答えた。存外女は話を聞くのがうまかったからで、結局駅に着いても近くのカフェで
話し込み、それがきっかけになって臼井は女と時々食事をするようになった。
 臼井が人と深く交流するのは久し振りのことだった。それは大学半ばに投資するようになってから大学にも
顔を出さなくなり自然人付き合いもほとんどなくなっていたからだ。だがメディアに取り上げられてからは大学
時代の友人どころか高校時代の友人だとか友人の友人だとか、どこから見つけてくるのか臼井に連絡してくる人が
多くなった。金のところに人も集まるというのが臼井の私見で、女は前から臼井に憧れていたのだと言ったが、
臼井には女の真意が分からなかった。臼井は地味な風貌の男で話がうまいとも言いがたく、実益を兼ねた
投資のほかに趣味もなく、昔から人一倍自尊心の強いところに投資家としての成功もあって、尚のこと付き合い
にくい男になっていたからだ。

82 :No.20 現代金狂い小話 2/3 ◇VZpO0svMyk:08/01/28 17:16:30 ID:iApBR0zd
 街中で知り合って数ヶ月経った頃ふっつり女からの連絡が途切れた。それまで繁くメールや電話が掛かって
きていたので寂しくもあったが、また何かあれば連絡も取れるかもしれないと、臼井は去る者追わずとして彼女に
理由を訊ねもしなかった。
 それからしばらくして夜遅くに突然彼女から連絡があった。彼女にしては珍しく動揺したような声で「住むところが
なくなった」と言う。会って話を聞くと一人親の父が多額の借金を作って自殺したと言う。兼ねて疎遠の親類は
頼るべくもなく、何とかお葬式は済んだけどこれからどうしたら良いか分からないと血の気の引いた唇で彼女は
言った。化粧っ気もなく髪ツヤもなく、心労と寝不足に目の下に隈を作っていたが、なぜかそれも華やかな笑顔
とは違ってあわれに美しく思われた。
「臼井さんくらいしか相談できる相手がなかった」
 と彼女は言ったが、臼井は『相談できる相手』とは皮肉なものだと心の片隅で考えていた。彼が大学生で
アルバイトで百五十万円を貯めた時分であっても、松竹堂に勤める彼女は果たして彼に相談しただろうかと
そのような意地の悪い考えが胸の奥で頭をもたげたからだった。今の彼には彼女をいかようにも援けることが
できる。とは言ってもそのまま突き放すこともできず、彼は自分のマンションに彼女を招いた。
「この部屋なら空いているから」
 臼井がそう言うと彼女は突然「臼井さん、臼井さん」と彼の名を呼んで抱き付いた。臼井はしばらくそのまま
じっとしていたが、乱れた彼女の髪を撫でると羽毛のような髪が手のひらにやわらかく吸い付くので手を
止めることが難しくなり、あたたかな彼女の体熱が伝わってくると臼井の裡にも熱が燃え上がってくるのを
感じた。いたたまれなくなって臼井が体を引き離そうとすると、彼女はひどく寂しそうな目をして彼を見上げる
ので、かえって抱き締める手を強くするしかなかった。彼女は臼井に強くしがみ付き、彼女の心臓が早鐘の
ように打っているのが分かり、臼井はのぼせたように息苦しくなってくのを感じた。
「臼井さん、したい」
 と彼女が小さな声で呟き、流されるまま臼井は彼女を抱いてしまった。

83 :No.20 現代金狂い小話 3/3 ◇VZpO0svMyk:08/01/28 17:16:41 ID:iApBR0zd
 翌朝の彼女は昨夜と打って変わったように晴れやかに笑っていたが、臼井の気持ちは対照的に鬱々と
していった。臼井が楽しみにしていたのは華やかな彼女の笑顔であって泣き顔ではないのに、欲に流されて
彼女を抱いてしまった。彼女の弱みにつけこんだ自分が外道に思えた。
 臼井が「別のマンションに移り住んだ方がいい」と告げると彼女は驚いた。
「こういうのは良くない。弱みにつけこんでいるみたいで嫌だ」
 と臼井が説明すると、彼女は泣きそうな顔を見せて「そんなことはない」と否定した。
「今は弱気になってるからそう思うんだよ。一度離れて休めば分かると思う」
「私のこと、嫌いなの?」
「嫌いとかそういう問題じゃなくて、とにかく一度ゆっくりするんだ」
 言葉の通じなさに苛々したことを感じ取ったのか、彼女は口をつぐみ大人しく荷物をまとめ始めた。
「私、臼井さんのことが好き。お金とかじゃなくて本当に。最初に見たときから憧れてた」
 しかしもう今更彼女の言葉は臼井には空々しく聞こえ、そういう問題ではないとまた言いかけて止め、
代わりに「ありがとう、体に気をつけて」と言った。一瞬彼女は顔を歪め、泣き出しそうにも怒り出しそうにも
見えたが「臼井さん、援けてくれてありがとう」とだけ言って出ていった。その後「本当に好きなのに」と言って
彼女が部屋の外で泣いたのを臼井が知ることはない。


 了



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