【 1万円と私とバカ野郎 】
◆lDzk49E.e2




53 :No.13 1万円と私とバカ野郎 1/5 ◇lDzk49E.e2:08/01/28 16:58:58 ID:iApBR0zd
 夢こそこの世の全てだ。私は悟った。宇宙飛行士になろうと誓った日のことだった。小学生には不可能だと教わったとき、その心得は消えて無くなった。
 数字こそこの世の全てだ。私は悟った。算数のテストで100点を取った日のことだった。中学に上がって、算数が数学に変わったとき、その心得は消えて無くなった。
 物理学こそこの世の全てだ。私は悟った。父の書斎で見つけたディラックに憧れた日のことだった。しかし日常生活には役立たなかった。やっぱり消えて無くなった。
 そして、高校生の今、お金こそこの世の全てだと、私は悟った。一万円札が風に吹かれて飛んできた日のことだ。
 ──というのはたった今の出来事である。中庭を歩いていると、とたんに視界が遮られて真っ暗になった。鼻もむずむずしたのでかまわずくしゃみをすると、視界が明けた。目の前にはぴらぴらと宙を舞う1万円札。人間はある種の欲望に駆られると、脳伝達が加速し運動神
経が飛躍、肉体が精神を置き去りにする。気づいたとき、突き出した右手は見事に対象を指に挟んで捕らえていた。自ら唸るはやわざだった。うんうんと喉を鳴らし、諭吉様を財布におさめた。
 さっき購買部で買ったパン、支出240円。お茶、支出150円。少量の鼻水がついた諭吉様、収入1万円。「しあわせ」私は9610円分の幸せをかみしめた。
「待て小林」
 幸福に浸っているところ、声が掛かる。無視した。肩をつかまれる。振り向いて顔を見ると、同じクラスの高橋くんだった。
「なに?」
「今、お札拾ったろう? それもとびきり高価な奴だ。高価な硬貨だ」
「お札は紙幣よ」
「そんな些細な間違いはどうでもいいんだ。拾ったんだろう」
「拾ってない」
「うそだ。見てたぞ」
「知らない」私は平気で嘘をつく。「俺の網膜には焼き付いてるんだ」彼はびしっと指をたてた。見られていたようだ。
「……落とさずつかんだもの」
「屁理屈いうな! そして何の確認もせず財布にいれていただろう!」
「こわいわ、高橋くん」
「あ、すまん」
「気にしないで」謝罪を寛容に受け入れて私は校舎に向かった。高橋くんはぜはぜはいいながら追いかけてきた。
「待てコラおい」
「変態なの?」
「断じて違う。話をしたい」
「話すことなんてないわ」
「ところがどっこい。俺にはある」
「なにかしら」
「1万円だ」
「へえ、奇遇ね。私もさっき1万円を手に入れたわ」
「それだ。それについてだ」やっと伝わった、と彼は胸をなでおろした。

54 :No.13 1万円と私とバカ野郎 2/5 ◇lDzk49E.e2:08/01/28 16:59:11 ID:iApBR0zd
「じゃあ、聞きたいことがあるのだけれど」
「いいさ、答えよう」
「あなたと私の1万円札の関係性」
「うむ、それがだな」彼は神妙な面持ちで続けた。「自販機でジュース買おうと思ったんだが、1万円札が入らなかった」
 バカだった。急に頭が痛くなったが、私は先を促した。
「曲げても折っても入らなかった。そして俺は入札口と戦った。穴を広げようと悪戦苦闘していた最中、しかし俺は自分の両手が塞がっていることに気づく。1万円札は? 思ったときにはひらりと風に吹かれて飛んでいってしまった。それが君の手に入れたマイ諭吉様だ」
「……自分の頭を恨むことね」
「俺がバカだとでも」
「ごめんなさい。無いものは、恨めないわね」
「ムキーッ!!」彼は野性的に怒った。150円のお茶を与えることによって緩和した。安い男だ。
「ああ、これはなんというおいしいお茶なのだろう」
「そう、よかったわね」
「君になら1万円で売ってあげてもいい」
 姑息である。安くて姑息。つまりはダメダメな男だった。
「いい加減にして。いつまでもこんなことしてたら、昼休みが終わってしまうわ。私、まだお昼ごはん食べていないのに」
「いい加減にするのはそっちだ。話は終わっていないぞ」
「しつこい男……」
「じゃああんたは傲慢な女だな」
「なんですって」
「ところで傲慢ってどういう意味だ?」
「あなたはさっきから喧嘩を売っているのかしら?」
「俺が売りたいのはお茶だ。1万円だ」
「……いいわ。気の済むまで相手になりましょう」
 体力上長期戦は苦手だったが、彼もなかなか引き下がる姿勢を見せない。
 覚悟を決めたそのとき、くるるー、と私のお腹が鳴った。
「こ、これはちが」
 つづけて、くるるる、と私のお腹が鳴った。私のライフポイントははやばやと尽きた。
「なんだ。その、すまない」
「……謝れると余計に恥ずかしいのだけれど」
「う、すまない」

55 :No.13 1万円と私とバカ野郎 3/5 ◇lDzk49E.e2:08/01/28 16:59:22 ID:iApBR0zd
「……放課後。うん、放課後また相手になりましょう。私はごはんを食べます」
 身を翻して、校舎に入る。「一緒に食べればいいんじゃないか」そんな彼の声に少し驚いて、けれども、私は拒否しなかった。

 いつものように、昼食は屋上。誰も来ない、私の領域。空も見えて、風も吹いて、鳥になったような所感を抱く。いつもとは違って、ひとりではなくふたりだけれど。彼なら許容してもいいと、何故か思った。
 しかし、屋上に来てからというもの、高橋くんはさきほどあげたお茶を飲んでいるだけで、あまり口を開けていない。1万円のことは忘れたのだろうか。あり得た。バカだから。そうなれば私はラッキーだ。
「小林よ」
「ん」
「俺たちは昼飯を食い、1万円の貴さについて語り合うためにここに来たといっても、過言ではない」
「そうね」
「俺は昼飯を忘れた」
「……」
 殴りたかった。グーで殴りたい衝動に駆られたのは初めてだった。彼に私の初めてを奪われてしまった気がしていやになる。
 しかし運がよいのか悪いのか、私はメロンパンをふたつ買っている。しぶしぶひとつあげることにした。
「悪いな」
「ん、じゃあ、さっきあげたお茶、ちょうだい」
「いいのか?」
「うん」間接的接吻における羞恥のことを言っているのだろう。けれど私はそこらへんあまり気にしないタチである。「また買うのは、もったいないわ」
「ケチくさいな」
「お金はこの世の全てだもの」
「そうか、1万円返せ」
「風が気持ちいいわね」
「つーか、この前は、なんたら学が全てだとか言って、散々意味不明な単語を浴びせてこなかったか」
 むぐむぐとメロンパンを咀嚼しながら、彼は言った。
 そういえば、と思い出す。ずっと前にも高橋くんと一緒に、ここでお昼ごはんを食べたことがあった。屋上の戸を開けるなり、『牛乳をぶちまけてしまった。乾かしたい』確かそんな風なことを言って私の隣に座った。正直きつい匂いだった。あげくには『焼きそばパンは旨
いな。しかし喉がかわく』そう言って牛乳のしみ込んだ制服をちゅるちゅると吸っていた。下劣な挙動に私は怒って、散々に罵詈雑言を浴びせたような、そんな記憶もある。
人体的に欠陥があるのだと疑いもした。それは今日この日をもって確信。
 はたして滑稽ではあるけれど普遍的な出会いだった。言われてやっと思い起こすような些事。しかし彼は、美しいとは言いがたいそんな日を、覚えていたらしい。それは私を感傷的な気分にひたらせた。
「ね」と尋ねる。「高橋くんは、私が怖くないの?」
「なんだ、急に」
「知ってるでしょう。私、友達ひとりもいないのよ」


56 :No.13 1万円と私とバカ野郎 4/5 ◇lDzk49E.e2:08/01/28 16:59:34 ID:iApBR0zd
「みたいだな」
「何の臆面もなく、私に関わってくるのはあなただけだわ」
「そうなのか」と彼には自覚がないようだった。私は無言で肯定する。
「友達がひとりもいない奴に、話しかけてはいけない決まりでもあるのか?」
「体面の問題よ」
「俺にはよくわからない」
「バカだからね」
「そうかもな」
「怖いんだって」
「え?」
「私が避けられる理由。何を考えているのかわからない。日をまたぐごとに別人になるみたいだって」
「ほう、それはまたなんとも……」面白い性格だな、と彼は言った。
「面白い?」驚いて、私は尋ねる。
「ああ、いいじゃん、それ。なんか、すげーかっこいいよ」
「なにそれ、うれしくない」
「俺は、うらやましい」
「どうしてよ」
「なんつーのかな、本能に忠実に生きてるみたいで」
 哲学的な彼の答えは不恰好だったが、そういわれれば、と思った。いつだって、私は刹那的に生きてきた。熱しやすく冷めやすいと幼少の頃はよく言われた。だって仕方ない。世界は私の興味をそそるものでいっぱいなのだから。でも、と気づく。手についたパンの粕を恥ず
かしげもなくなめまわしている高橋くんはどうなのだろうか。むしろ彼こそ本能のまま動いているんじゃないか。体面を気にせず、集団心理を概念に持たず。そうして私はある結論にたどり着いてしまう。
「……あなたと私、似たもの同士なのかもしれないわね」
「ふむ」彼は相槌をうった。「実は俺も今、そうおもったところだ」
 なぜだろう、すごく嫌な気分になった。
「ははは、似たもの同士、いいなあ」
「やめて。やっぱり嫌。さっきの嘘」
「なぜッ!?」
 おおげさにリアクションを取る彼の様子に、私は思わず破顔した。
「わ」
「え?」
「小林の笑う顔、はじめて見た」

57 :No.13 1万円と私とバカ野郎 5/5 ◇lDzk49E.e2:08/01/28 16:59:47 ID:iApBR0zd
「うそ」
「まじ」と彼はうれしそうに声を上げる。妙に恥ずかしくなった。
 そのとき、ひときわ強い風が吹く。また、私のはじめてを彼に奪われてしまったようだ。よくわからないけれど、なぜか今はここちよかった。思考する。高橋くんとの会話を、私は楽しいと思っているのだろうか。そして、彼はどう思っているのだろうか。他者との接点
が薄い私には形容しがたい感情が、そこにあった。
「あ、そうだ」財布から1万円札を取りだして、彼に見せる。「これ、返すね」
「いいのか?」
「あなたのものよ。それに、これ目当てでここにきたんじゃない」
「まあ、そうなんだが」
「なんか、どうでもよくなっちゃったの」
「本能すげー」そう言ってなぜか倒れ伏した彼の手に、お札を握らせる。
「くしゃくしゃじゃないか」
「それはもともと」
「諭吉が鼻水垂らしてるんだがこれは?」
「それは……ごめんなさい。それと、嘘ついてごめんなさい」
「気にしてない。ぶっちゃけると、俺もどうでもよくなってしまった。それよりも、お前と話す時間が有意義だった」
「また、恥ずかしげも無く……」
「俺の取り得はこれくらいなんだ」
「そ」
 それきり言葉は途絶える。有意義な会話だったと高橋くんは言った。つまりそこに1万円分の価値を見出したということなのだろうか。いや、わからない。なんとなく間違っている気がした。
「さて、教室戻るわ。パン、ありがとな」と彼は立ち上がる。数分の沈黙のあとだった。私は頷いた。
「それと、小林よ」彼は背を向けながら。「決めたぞ。俺が、お前の友達第1号になる」
 それだけ言い残し、逃げるようにさっさとその場を立ち去った。……急になんなのだ。さっきから不意をついてばかり、卑怯だ。「うれしくない」と彼の姿が視界から消える直前、領域を荒らされた仕返しに、私はただそれだけ言ってやる。風に叩かれて振り向く。手すりに
たたずむカラスが、ニヤニヤとこちらを見ていた気がした。

 私は悟った。この世の全ては他者とのふれあいなのだと。友達がひとりできた日のことだ。
 素敵だと思った。他人との何気ない会話には見返りを求める要素がないからだ。宇宙飛行士になるにしても、学校に通って授業を受けるにしても、分厚い学術書を買うにしても、相応の金銭が必要になる。いわばそれらは取引だ。しかしどうだ。取引をなしにして、こんなに
もここちよい感情を手に入れることができるのだから、他者とのふれあいはすばらしいことなのだ。
 しかし、それでもお金は大事なんだと思う。だって、あの1万円札がなければ、私と高橋くんはこうして会話の場をもたなかっただろうから。
 ──いつだって、私は刹那的に生きてきた。これからもそうやって生きるのだろう。けれど、今日見つけたものは長持ちしそうだった。
 そう、まずは、自販機に1万円札は使えないんだと、彼に教えてあげるところからはじめよう──。



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