【 ハーレクインの恋人 】
◆PaLVwfLMJI
134 :時間外No.02 ハーレクインの恋人 1/5 ◇PaLVwfLMJI:08/01/14 23:18:08 ID:3/fywSfc
世の中には他人を騙すことを生業としているものがおり、彼らは詐欺師と呼ばれる。
しかし、何も詐欺師ばかりが他人を欺いているわけではない。例えば高校物理の教育課程に量子力学を持ち込み、生徒を混乱させ
るような事態は得策とは言えず、教師達は「こういうものだ」とおざなりな説明に留める。それは、ある種の欺瞞だ。同様に、医師
はインホームドコンセントの場に於いて、患者にも理解できるよう専門用語や専門的な内容を簡略化する。情報化した社会であって
も、いや情報化した社会だからこそ数多の人々が嘘を方便と用いるのだ。
そして、その権化たる人種がフィクションの創造主――小説家だ。社会を批判するため、読者に言葉を届けるため、創作意欲を発
散させるため、あるいは単純に原稿料や印税のため小説家は物語の糸を紡ぐ。
読者は物語が虚構であることを分かっている。どれほど作品世界に没入し登場人物に感情移入しようと、本を閉じれば以前と変わ
らない日常が待ち受けている。手に汗握る冒険譚も、胸を焦がすような恋愛劇も、全てはうたかたの夢。シンデレラにかけられた魔
法のようにいずれは解けてしまうのだ。
だが、その幻想が魔法であると知らなければどうだろうか。
虚構を虚構とも気づかず夢幻に溺れていく。魔術師の見せる蜃気楼の舞台で踊り幸福感に浸る。それが醒めない夢であれば何も問
題はないが、零時になると馬車はカボチャに戻ってしまう。
魔法が解け現実を目の当たりにすれば、状況を判断することも叶わずただ困惑するばかり。それこそ狸に化かされたような心境に
なる。
私は今まさにそんな混乱の最中にいた。どうやら、ある小説家に騙されていたらしい。
彼、芹野光とは大学のサークルで出会った。私は高校時代から小説を書いてはいた。とはいうものの、田舎の公立には文系の部活
といっても吹奏楽や美術しかなく、自作小説を批評してくれる友人などいなかった。感想に飢えていた私は、大学では迷わず文芸サ
ークルに入部したのだ。そこに所属していた一つ上の先輩が光だった。
文芸系のサークルは大体二種類に分類出来る。
一つは慣れ合いに終始するサークル。彼らは部室で駄弁り、その和気藹々とした雰囲気を創作の場でも崩すことない。
もう一つは切磋琢磨するサークル。いくら仲の良いメンバーであろうと、歯に衣を着せずそれぞれ作品を批評する。良いところは
良い、悪いところは悪いと指摘し合う。
私たちは後者だった。一番の鑑識眼を有した部長がずけずけと感想を口にするタイプだったことも手伝い、議論が白熱し「文芸部
うるさいぞ!」と隣室の落語研究会が怒声をあげることもしばしば。
しかし、いくら方法論を熱く語ろうと辿り着く先は「面白い小説書いてみんなを唸らせてやる」だった。創作のモチベーションを
維持するため意見をぶつけ合っている嫌いもあったのかもしれない。
私が一回生の夏休み、光とコンビを結成し共作することになった。
半年もすると、それぞれの作家性とでもいうのだろうか、書き手の傾向や癖が見えてくる。私はプロットの完成度だけを比較すれ
ばサークル内随一と部長が太鼓判を押すほどだったが、文章力が伴っていなかった。書き込みが甘い、情景が想像できないといった
135 :時間外No.02 ハーレクインの恋人 2/5 ◇PaLVwfLMJI:08/01/14 23:18:44 ID:3/fywSfc
批評が毎度あった。対して光は文章力で読ませるタイプだった。話自体はありきたりな使い古されたものだが、血の通った描写や文
章の美しさで読者を惹きつける。私たちはお互いの欠落した部分を持ち合せていた。二人が組めば欠点を補えるのではないか、と光
は言った。
私が作成したプロットを元に光が文章を。そのアイデアを受け入れたのは、私が一人の書き手である以前に読者、それも彼のファ
ンであったからだ。温かみのある文章から垣間見える優しさ、小説の向こうに窺える光の肖像ひいては彼自身に惹かれていた。
それからというもの、私は光のためにプロットを作り続けた。推敲を終えた後、光はラブレターを渡すかのように照れた笑みを浮
かべ、私に原稿を預けた。私は、彼の小説を世界で一番に読めた。この頃には完全に彼に心酔していた。
コンビを組み三作目の長編をエンタメ系の新人賞に応募した。受賞やデビューを視野に入れていたわけではない。光の小説は私に
とって最高のものだったが、それを皆が絶賛するほど世の中甘くない。彼が「どれくらい通用するか試してみたい」と語ったから。
「小説で食べていけたらどれだけいいだろう」と少年のように瞳を輝かせたから。だから、原稿を郵送したのだ。
月日は流れ、私は新人賞のことなど忘れ去って日常に戻っていった。光は就職活動に奔走していたので、私は彩のない日常の中に
いた。彼の書く小説に思いを馳せプロットを練っていた。
そんな中、久方ぶりに光から電話があった。内容は、新人賞は逃したけれども選考委員を務めた女流作家の後押しでデビューが決
まったというもの。デビューの契機としてはよくあるものだ。プロからのお墨付きを貰ったとも言える。
処女作が出版されるまで、就職の忙しさも手伝い光は忙殺されそうなくらい働いた。私に出来ることは、プロット作成と、彼の代
わりに家事を済ませることくらい。休日のワンルームで押し掛け女房のようなことをしていた。
デビューに当たり私たちの間でなされた一つの取り決めがある。人付き合いの苦手な私は完全に裏方に徹するというものだ。私は
タイトルとプロットを考えることに専念すれば良かった。光の取り計らいで、人間関係に気を揉むことはなくなった。著者近影は彼
の写真になり、インタビューや座談会にも私は参加する必要もない。筆名も彼の本名だったので、プロットを作っている私の存在は
編集者と友人くらいにしか知られていなかった。それは私自身が望んだことだ。
芹野光という作家の滑り出しはまずまず順調だった。製薬会社に就職した光が、仕事の合間を縫って書き上げた長編二作目『好漢
殺人には向かない夜』はユーモアミステリの傑作などと一部の批評家が評した。それは即売上に直結するものではなかったが、固定
ファンを掴む効力はあった。
三作目の『キジの証言』を執筆中のことだ。光が製薬会社を退職し専業作家になったのは。彼は利便性を考慮し、上京して一人暮
らしを始めた。大学を卒業しOLとなった私とは離ればなれになったが、何も問題はなかった。想いを込めた五作分のプロットは既
に渡してあったからだ。また、新たに完成した場合はメールに添付でもすれば事足りる。校正は編集者が行い、私の元には出版社か
らは製本された新書が送られてくる。会えないことを除き何一つ不満はなかった。
物理的に距離が開こうと、私たちの関係は変わらない。大学時代から続く二人三脚の足並みが乱れることない。そう信じていた。
最良のパートナーであるという自負もあった。
だが、突如として彼との連絡が途絶えた。メールを送信しても返ってくるのはエラー通知。電話をすれば「現在この番号は使われ
136 :時間外No.02 ハーレクインの恋人 3/5 ◇PaLVwfLMJI:08/01/14 23:19:05 ID:3/fywSfc
ておりません」という無慈悲なメッセージが響く。
その時点では騙されたのだとは思い至らなかった。いや、そう考えたくなかったのか。どちらにしろ、暫くすれば新たな連絡先と
共に新刊が届くだろうと楽観していた。私のプロットがあったからこそ芹野光があるのだと自惚れていた。代替可能な存在に過ぎな
い。編集者や批評家に揉まれるうち小説家としての腕を上げた彼にとって、私はもはや不要なお荷物でしかない。そういった負の推
測が脳裏を過ることすらなかった。
彼の新刊を駅前の大型書店で見つける段に至り、漸く事態が私の想像よりも深刻であると気付いた。平積みされたハードカバーを
手に取り呆然と立ち尽くしている私の姿は、さぞ滑稽に映っていたことだろう。
新刊コーナーで佇んでいれば邪魔になるのは自明の理。どのくらい自失していただろうか。恰幅の良い青年が肩から提げていたト
ートバッグが背中に当たり我に返った。そのまま幽鬼の如き足取りでレジカウンターへ向い、彼の最新刊を購入し店を後にした。
帰宅するなり自室のベッドに倒れこんだ。それがつい先ほどのこと。新しいコートを探しに出たというのに、書店に寄っただけで
帰ってきてしまった。本来の目的を果たす余裕など微塵もなかったから。
捨てられたのだ、私は。
彼の言葉を反芻する。小説で食べていけたらどれだけいいだろう。
サラリーマンを辞め専業作家になった今、私は用済みなのだろうか。あるいは、私はデビューするための足掛かりでしかなかった
のだろうか。利用されただけなのか……。
ネガティブな感情を断ち切るように立ち上がり、バッグから書店で購入した本を取り出した。『スイートピーの咲かない春』。皮
肉にも、それは彼が上京する際に渡しておいたプロットの五番目、つまりは最後のものだった。
袋から取り出した単行本を、本棚に並べる。四作目『デルタの悲劇』の隣に置くと、デビュー作から順に五作が並ぶことになる。
その光景を眺め、私の胸に去来するのは満足感や達成感とは程遠い灰色の感情だった。ただただ虚しさだけが募る。この五作に思い
を込めていたというのに、空虚な言葉の羅列へと変貌してしまった。彼は何を思いこれらの作品を書き上げたのだろうか。小説を通
じて繋がり合っていたはずが、気が付けば、手は愚かたった五文字の言葉さえ届かなくなっていた。
相も変わらず鬱々と沈み込んでいくばかり。全てを忘れるように眠りについたが、目を覚ましても現状に変化はなく、暗澹たる感
情に押しつぶされそうだった。
トーストで朝食を済ませた後、私は友人の家へ出かけた。この膿を吐き出したかった。言葉にしてすっきりしたかった。
大学時代からの友人で、同じ文芸サークルに所属していた薫はひどく心配し私の愚痴にうんうんと頷き耳を傾けてくれた。感情の
昂ぶりから内容が支離滅裂になっても「つらかったんだね」と優しい言葉をかけてくれる。
ふと、彼女の部屋に置かれた本棚に目をやった。矢継ぎ早に捲し立てていた愚痴が底をつき、沈黙が横たわり、何気なしに視線を
やっただけだった。
そこには、光の著作が揃っていた。当たり前だ。薫もまた光と同じサークルで、当時から彼の作品を愛読していたのだから。だが
、私は激しい嫉妬に駆られた。五冊の本が、薫と光の繋がりを示している様に感じられたのだ。私からは連絡を断ったのに何故……
137 :時間外No.02 ハーレクインの恋人 4/5 ◇PaLVwfLMJI:08/01/14 23:19:31 ID:3/fywSfc
激昂にも近いボルテージで、薫の人格を否定した。理不尽極まりない理由だとは思ったが、箍が外れたように薫を痛罵し続けた。
気がつくと、私は涙を流ししゃくりあげていた。「大丈夫だよ」そう繰り返し、薫が私を抱きしめた。女性のほっそりとした腕。
小さな背中。私よりも低い身長。だというのに、温かく、強く、それでいて優しかった。
落ち着きを取り戻し私たちは、薫が淹れたコーヒーを飲んだ。僅かに酸味を含む香ばしい匂いが精神を鎮める。
「あのね、朝子」薫が患者に語りかける看護婦のような声で言った。「こういうのは、ちゃんと専門科の人に相談した方がいいと思
うんだよね」
「専門家?」と問うと、薫は肯定した後「ちょっと待ってて」と言い置き携帯電話を取り出し何処かへ電話した。相手方に事情を告
げているようなやり取りがあり、それから薫は数度「うんわかった」と相槌をうち電話を切った。
「心当たりがあったから連絡取ってみたんだけど、話し聴いてくれるって」
そんな言葉と共に、メモに何かを書き付け私に手渡した。文庫本ほどのメモ用紙には、どこかの住所と電話番号が書いてあった。
完全に把握したわけではなかったが、どうやらそれは専門家とやらの連絡先らしい。
「大丈夫。なんならわたしも一緒についていこうか?」
専門家と言うくらいだ。弁護士が法知識でもって彼の地位を剥奪してくれるのだろうか。はたまた、私立探偵が彼との邂逅を演出
するのだろうか。どちらも私が望むことではない。彼のことなど忘れ、平穏な日常を送れさえすれば良かった。薫に打ち明けたのも
、心底に積もった澱を吐き出してしまいたかったからにすぎない。
けれど、薫の心配を無下にするつもりはない。一度メモ用紙に書かれた場所を訪れるくらいはしてみよう。酷い罵倒の言葉を浴び
せたというのに気遣ってくれる心優しい友人のためにも。
「ありがとう。けど、そこまでしてもらったら悪いから」
こそばゆさを覚えそのまま部屋を後にしようと立ち上がり、もう一度「ありがとう」と頭を下げる。
「いいんだよ。お互い様だよ。それより、ホント一人で大丈夫?」
「大丈夫だから。今日はなんかごめん」
そう言って別れた一週間後。私はメモ用紙片手に駅前の雑居ビルにいた。横を向かなければ大人二人がすれ違えないほど狭い階段
を上がった三階に、薫が教えてくれた場所はあった。
中が窺えるガラス製ドアに書かれた文字が絶望を誘う。専門家。その単語が意味するところをはっきりと理解した。全ての情報が
一点に収束していく。信じていたものが瓦解していく。眩暈がして咄嗟に壁に手をつき、喘ぐように息を吸い込んだ。冷汗がじっと
りと背中を濡らす。
数分程してやっと荒い息が落ち着いた。今更引き返しても事態は変わらない。現実を受け入れるしかなかった。
室内に入り、受付にいた女性に名前を告げると番号札を渡され「暫くお待ちください」と平淡な口調で告げられた。
ソファーで文庫本を読んでいると私の番号がアナウンスされた。個室へと進むとそこには、スツールに座った中年男性がいた。誰
かに似ているような気がしたが、いったいそれが誰であるのか分からない。もどかしさを覚えながらも、私が丸椅子に座わると中年
138 :時間外No.02 ハーレクインの恋人 5/5 ◇PaLVwfLMJI:08/01/14 23:19:56 ID:3/fywSfc
男性が訊いてきた。
「今日はどうされましたか」と。
臨床心理士の金子和美は、カルテを書き込んでいた石黒医師に話しかけた。
「作家の恋人で仕事のパートナーでもあるなんて妙な妄想ですね。統合失調症の妄想ってナポレオンの生まれ変わりだの、毒電波が
命令するみたいな内容ばっかりだと思ってました」
顔も上げずに石黒は答えた。「案外そういうステレオタイプな妄想を抱く患者の方が珍しいくらいだ。妖精なんてのは比較的多い
んだけどね」
しかし、妄想の元となり得る小説とはどんなものだろうか。そんな好奇心に駆られた金子和美は、その日の帰りに書店に寄った。
芹野光の著作で文庫になっているものを一冊選び彼女はそれをレジへと持って行った。デビュー作『光芒山荘の殺人』を。
◇◇◇
五冊目の長編です。これでデビュー当時抱えていたプロットをすべて消化したことになります。
さて、普段書かないあとがきなどこうして認めているのには訳があります。巻末に収録された掌編は僕が大学生だった頃に書いた
もので、当時のまま手直しもせずに載せるという事態(愚挙と言っても良いかもしれません)に至った顛末を説明させてもらう場を
提供してもらったという次第。
そもそもこの掌編は、登場人物の名前が所属していた文芸部のメンバーに肖っているという内輪ノリも甚だしいものでした。その
上オチが告白になっているという何とも痛々しいもので、若気の至りとしか言えません。
そんな小説を載せる決心をした要因の一つに、妻の書いたエッセイがあります。大学時代を振り返った文章の中で、この掌編につ
いて触れられているのです。嬉しいのやらなんやら。
もう一つは、僕が発表してきた長編のタイトルに関係があります。本作を読み終えた方は(まさかあとがきから読み始めるという
不届き者はいませんよね)気が付いたと思いますが、作中に登場するタイトルが現実とリンクしています。冒頭で書いたように、デ
ビュー当時の僕は五本のプロットを持っていました。それらのタイトル案をそのまま掌編に利用したのか、あるいは逆だったのかは
忘れてしまいましたが、デビュー後にタイトルを変更しなかったため再び告白が完成するという妙なことになってしまいました。彼
女と結婚したからよかったものの、別れていたらどうするつもりだったのでしょうか、当時の僕は。
そういう訳で二度目の告白が本作で完成するのでこの掌編で占めるのが相応しいのではないかと考えたというわけです。「ハーレ
クイン(道化師)に騙されちゃった」と冗談めかして笑う妻の顔が目に浮かぶようです。
(略)
<了>