【 指輪と聖書、あるいは遺書を 】
◆RikiXMX/aY




139 名前:時間外No.3 指輪と聖書、あるいは遺書を 1/5 ◇RikiXMX/aY 投稿日:07/12/25 19:52:27 ID:a7OLD2pb
 セットした覚えのない携帯のアラームで目が覚めた。止めるついでに時間を見る。十二月二十四日、夜七時五十四分。そうだ、大学のゼミのレポート作成で徹夜して十一時過ぎに終わってそのままばたんきゅー
で今の時間まで寝てたんだっけ。つうか誰だよ、僕の安眠を妨害してくれたやつは。
「あ、おきたー。もお、お兄ちゃん寝すぎぃ。夜と昼が逆になったらだめ人間直行だよー?」
 この不服そうなのに満足げな嬌声は、桜か。
「ったく、僕は昨日の夜からずっと忙しかったの。だからもう少し寝かせろ」そう云って僕は布団に潜り込もうとするも、直後その布団に衝撃。
「ぅおい! なにやってんだよお前!」
「へへっ、わたしお兄ちゃんのお布団入るの久しぶりー」
 きゃっきゃと騒いで布団に侵入してくる桜になすすべもなく無抵抗な僕。どう考えても高校一年生女子のやることじゃねえ。……ああもう、人ん家でやってくれないかな。っていうか太ももにさほど大きくもないふくら
みが当たったのはわざとか? どこで身に着けたんだそんな悪知恵。
「えへへー、おきないと桜のこちょこちょ攻撃だぞー」
「ああもう、起きればいいんだろ? っつーか今日、そこまでして僕を起こす用事とかあんのかよ?」
 すると俺の身体に乗った桜が布団の中から顔を出して、頬を膨らませて云う。「お兄ちゃーん。今日はクリスマスイブだよ? 聖なる夜なんだよー? 大好きな恋人同士が一緒に幸せなときを過ごす、ホワイトクリ
スマスなんだよぉ?」
「とりあえずお前は恋人じゃないから関係ないな。寝かせろ」
「ええーっ? おにいちゃあん、そんなのないよぉー」布団の中で足をばたつかせる桜。というか僕の眠気、完全に吹き飛んでるし。
「ぁあーわかったわかった! お兄ちゃんは起きる! 起きてお前と遊んでやる! だからこの身体を解放したまえ桜くん!」
 桜は満面の笑みでわぁーいなんてはしゃぐ。ったく、こんな技どこのギャルゲーで習ったんだよ。
「あのねあのね! 桜、お兄ちゃんのためにシチュー作ったの!」ああ、その為か。それだけの為に起こされたのかよ。すると桜は云いづらそうに付け足す。「えっとね、真里亜ちゃんもクリスマスケーキ作ったんだ
よ」
 え。真里亜が、料理を?
 それを先に云ってくださいよ桜さん。

140 名前:時間外No.3 指輪と聖書、あるいは遺書を 2/8 ◇RikiXMX/aY 投稿日:07/12/25 19:53:05 ID:a7OLD2pb
 桜と一階のリビングに行くと、空気を完全無視する弟と相変わらず可愛い妹、豪華な料理、それから桜以上に壊れた女が一人。
「じんぐるべ! じんぐるべ! すっずーがぁなるー!」
 遥香姉さんだ。赤く輝く三角帽子を被っている。二十三歳にもなって、四六時中NHKの「うたのおねえさん」的テンションの女だ。
「ああーもうシンくんも桜ちゃんも暗い! おねーちゃんに合わせてうたいましょー! はいっ」
「辰巳、対処法を僕にくれ」
 すると姉を無視してシチューを食べていた中二の弟、辰巳は姉と対照的に無表情で答える。
「俺だって分かりませんよ。むしろ人生経験は慎司兄さんの方が長いんですから、俺が何とかしてもらいたいぐらいです」
 この無関心ボーイに聞いた僕が馬鹿だった。全くこの五十嵐家の人間は総じておかしい。仕方ないので僕も席に着き、手を合わせる。いただきます。僕ははじめに、チョコレートケーキを一皿取って、食べた。そ
して実感する。「……うまい」すると僕の右隣に座っていた辰巳の双子の姉、真里亜の顔がぱあっと明るくなる。気を良くした僕は聞いた。「なあ、これ本当は店で買ったんだろ?」
 真里亜は顔を季節外れの向日葵のように輝かせ、ふるふると首を振った。
「――まさか、これだけのものをお前が作ったとか?」
 待ってましたとばかりに大きく頷く真里亜。僕は出来るだけ自然に呟く「……お前、本気でパティシエ目指した方がいいかもしれんな」
 真里亜は雲の隙間に隠れる太陽のように口元を手で覆った。そこで僕は真里亜にしか聞こえない声で一言、「ありがとう。お前の気持ちが一番のクリスマスプレゼントだよ」と。
 ……沈む夕陽のように真っ赤に染まった頬をうつむかせる真里亜なのだった。全く、無口なくせに雄弁なんだから。
「ねえお兄ちゃん、わたしもシチュー作ったんだけど」抗議の声を上げるのは桜。「ああ、はいはい、わかった」と受け流し、シャンパンを一口飲んでからシチューをいただいた。
「お、これもうまい。お前料理人になれるかもな」
「……お兄ちゃん、それ、誰にでも云ってない?」
「じゃあごめん今のは冗談」
「お兄ちゃん最っ低!」と、青色の膨れっ面。「……ごめん、今のこそ冗談」
「目の前でいちゃつかれると俺的に気分害するんですけど」と、辰巳。悪い、やりすぎた。
「はいはぁいじゃあおねーちゃんからクリスマスプレゼントのコーナー!」出た、うたのおねえさん。対応に困る僕たち。
 ……と、そうだった。忘れないうちにっと。「なあ真里亜」まだのぼせ気味の妹に小さな包みを入れた封筒を渡す。「はいこれ、僕からのプレゼント。恥ずかしいから一人の部屋で開けろよ」
 また向日葵が開花した。これだけ嬉しげな表情をしてくれると、プレゼントの甲斐があるというものだ。真里亜は顔をぽっぽさせて二階の自分の部屋へと向かった。
「あ! お兄ちゃんお兄ちゃん、わたしには?」元気よく尋ねる桜に僕は返す。「こないだマンガ代貸しただろ。あれプレゼント」
 えぇー、と明らかに不服そうな桜。まあしょうがない、そのうち何か買ってやるか。毎年真里亜のに気を使いすぎて、毎回桜に謝る僕だった。
「はい、おねえちゃんからシンくんに」
 ふと見るとにっこりと封筒を渡す遥香姉さん。珍しい。連日連夜ぱっぱらぴーな姉さんが、こんな事前の準備だなんて。薄気味悪い。
「大掃除ついでに浪磨くんの遺品整理してたら見つけたのよ、シンくん宛だって」
 一番上の浪磨兄さんからか。……でも浪磨兄さんが死んだのは四年前だろ? 何で今更。隠し持ってたんだろうか。薄気味悪い。
 ともかく、僕は手紙を開けた。封筒の糊付けはされてなかった。

141 名前:時間外No.3 指輪と聖書、あるいは遺書を 3/8 ◇RikiXMX/aY 投稿日:07/12/25 19:53:39 ID:a7OLD2pb

  親愛なる弟、慎司へ

 やあ。遥香にならともかく、お前に手紙を出すなんて珍しいよな。他の俺を現人神扱いする家族たちと違ってお前は俺の存在に対して懐疑的だったけど、逆にそれはお前が一番俺をありのまま認める努力をして
きてくれた証明だと思ってる。だけど今回ばかりは辰巳なんかがそうしたように、俺の手紙を旧約聖書みたいに扱って欲しい。
 お前が俺と遥香のことをどれほど気づいているかなんて正確には分からないから、何も知らない前提で話を進めよう。俺は実の妹の遥香を犯した。遥香も兄である俺の体を受け入れた。
 遥香の例の能力についてから話そう。俺の知る限りではあれは遥香が小五で初潮を迎えた頃に初めて発現した。遥香は意気揚々と俺にそれを見せてくれたよ。未成熟の段階であのレヴェルだ。小学六年にし
て既に世界への期待を失っていた俺ですら、あれには驚愕させられたよ。もし遥香が俺側の人間でなかったら、と仮定するだけでぞっとするね。遥香は俺にはない、世界を闊歩するのに必要な攻撃力を持ってた
のさ。でも俺が世界から消失したとて、自制を失ったあの能力がどう作用するかなんて考えたくもないな。まあそれはそれである意味望んだ結果が待ち受けるのだろうが。世界は吐き気がするほど精密にできてい
るからね。閑話休題。
 あの頃、つまり俺が国立中学の入試に臨んでいた頃はまだ親父は生きていた。八歳だったお前でも知る通り、あの親父はクズだった。人間のクズじゃない、ただのクズだ。母さんが壊れたのもそれが原因さ。そ
して恐らく、遥香や真里亜が妙な能力を持って生まれちまったのも。とにかく親父は腐っていた。当時小五の遥香を性のはけ口として欲望を浴びせかけようとした親父は――と、書きながら俺も親父と同罪だと気
づき、思わず苦笑しちまったよ。笑うしかねえだろ? 俺が殺したいほど憎み、結局遥香を使って殺した親父と自身が同罪だったなんてさ。
 ああそうだ。俺は親父を遥香の能力で殺した。もともと親父は若い頃新薬の治験のバイトで妙な薬をたくさん飲まされ、その上当時にはアル中と化していたから、いつ死んでもおかしくなかったんだな。これが見
事に幸いして俺たち兄妹は微塵も疑われなかった。でも問題は遥香の心境だった。遥香には正当防衛だと言いくるめたが、それでもなかなか心の傷は癒えなかったよ。受験も無事済ませていた俺は、遥香の救
済に全精力を注ぎ込んだ。思えばあれが遥香との関係の発芽だったな。そりゃ、互いに愛し合いもするだろうさ。ただでさえ同じ業を背負った共犯二人だったし、すべてを断ち切って母さんの期待に応えんとしてき
た俺にとって、遥香はマジで天使と見まごうたからね。はは。

142 名前:時間外No.3 指輪と聖書、あるいは遺書を 4/8 ◇RikiXMX/aY 投稿日:07/12/25 19:54:27 ID:a7OLD2pb
 そっからしばらくはお前の知ってる通りにことは進んだよ。父親殺害のショックで成績がガタ落ちして(というよりオーバーワークが過ぎたんだな)私立中学にも落ちた遥香は、当然母さんに無能な子供扱いされた。
無能有能なんて所詮比較の問題で、俺という完膚なきまでの成功例があったから遥香ほど努力した子供でさえ失敗に思えたんだろう。俺は遥香に申し訳なく思った。まあそれからは普通の学校で普通に天才扱い
されて(あの量の勉強を小学生の時分からこなせば、当たり前だよな)逆に家では母さんに失格扱いされて、自分を支える基準がカオスだったから結果として俺に依存した。「天才」としての俺ではなく、一人の少年
としてだ。だから俺は遥香が好きだった。俺が憎悪や欺瞞を吐き出せたのも、遥香と居るときだけだったしね。
 それから俺は国立の高校に流れ込み、遥香も高校進学し、すべてが完了したと思っていた。あのまま何も始まらず、何も終わらずに世界が停止すればいいと思った。けれども世界は憎たらしいほど精密に回る
んだな、これが。
 その頃から遥香は何度か俺の意思を試すような行為をしてきた。「誰が大事か」とか、「一番失いたくないものは何か」などと云った、自明の設問だ。疑念を抱きつつも俺はその都度答えた。遥香が大事だ、遥香
を失いたくないなどと。だが云ってみたところで遥香の心の影が晴れ渡るわけでもなく、かえって腑に落ちない顔をするだけだった。嫌な予感がしたね。そして的中した。
 俺が京都の国立大学に通って半年経った頃だ。京都に逃げ込んだのは母さんの呪縛から逃れる意味と、これ以上同じ屋根の下に居たら過ちを犯すだろうという自制の念との意味があったが、実質それも崩壊
することとなる。大学が夏休みに入った頃、いきなり「京都駅に着いたから迎えに来てくれ」なんて遥香の電話さ。俺は遥香の身を案じながら、けれどもまだ家に返すことを考えていた。母さんに聞いても知らないと
のことなら、突発的な家出だろうと思ったんだ。だから俺のアパートに一泊させて返すつもりだった。だが俺の直感は最大級の警鐘を鳴らしていた。
 その日遥香が台所に立った時、俺は思い切って遥香の鞄を開けた。
 出てきたのは精神安定剤や睡眠薬の山さ。血の気が引いたね、あれには。

143 名前:時間外No.3 指輪と聖書、あるいは遺書を 5/8 ◇RikiXMX/aY 投稿日:07/12/25 19:54:55 ID:a7OLD2pb
 俺が問い詰めると遥香は爆発した。泣いて、叫んで、すがりついた。でも本質的にはそれだけじゃなかったな。案の定遥香は自身をこの世界から消去する目的で、最期の瞬間に俺の姿を焼き付ける意味で京都
に来たのだった。俺は必死で遥香を止めた。精神を保っていた最後の糸が切れた遥香を、死に物狂いでこの世界に引き戻そうとした。その過程でやっと知ることができた。遥香は母さんに「失格」とされたんだ。
「神童」の名の通り俺は全てを成功させてきたが、それは妹や弟たちに「追いつけない」という絶対的な絶望を与えていたんだ。それでも遥香以外の家族は俺をロールモデル、いや現人神と扱いながらもある意味
距離を置けていた。だが遥香は俺に近すぎた。近すぎたから、その圧倒的な差異に気付いてしまった。そこへ来て、第二の「神童」になれなかった遥香を母さんは叱責、断罪した。産んだ意味も生まれてきた資格
もないと云い放たれたんだ。死を決意した遥香を救う手段は、限られていた。俺に遥香を不可欠だと分からせるしかない。幼少の頃からの想いに加え、一世一代の過剰な演技を装飾した。騙したわけでなく本心
からだったが、他人を騙すために自分を騙していったってことさ。
 愛の言葉を注ぎ込んだ遥香は、未だ若干懐疑的であったにせよ俺の言葉に耳を傾け始めた。だが遥香は最後に、立ち直るために「絶対的な繋がり」を要求した。潤んだ瞳。桃色の唇。震える手足が、俺に絡み
つく。遥香の要求した証明とは、つまりそういうことだ。
 ブラウスとスカートを脱がして下着を剥ぎ取った。親父から守り通した十七歳の熟れた身体は仄かに上気して、部屋の空気すらピンクに染めていた。想像してくれよ、俺が妹の乳房を愛撫するその光景を! そ
して反射的に、しかし必然的に行為を求めて尖る俺の「罪」を! 行為の最中、俺は変に冷静だった。忙しなくあの滑稽なピストン運動を繰り返す悪魔に取り憑かれた俺と、部屋の隅からそれを断罪するもう一人
の俺。奴は平然と「旧約聖書の原罪の意味」に思いをめぐらしていたよ。俺が遥香を、何より俺自身を滅茶苦茶に壊して切り刻んでいる最中にだ! ……駄目だ、これ以上は書けない。例え死ぬつもりの自傷行
為だったとしても。

144 名前:時間外No.3 指輪と聖書、あるいは遺書を 6/8 ◇RikiXMX/aY 投稿日:07/12/25 19:55:32 ID:a7OLD2pb
 もうわかったろう。もうわかってくれ。妹と結ばれるってのは、こういうことだ。アダムとイブの罪状ぐらい知ってるだろう。いや、知ってるだけなら駄目なんだ。現に俺はそれを知識として所有しながら、同じ罪を犯し
た。
 ああそうさ。俺は遥香を幾度となく犯したよ。自分の心を破壊して何も感じられなくするためにだ。遥香は俺から離れられなくなり、俺も遥香に依存していった。大学? 「神童」の称号? 今更何を云うんだ。俺は
もう罪人なのだから、そんな過去の勲章で呼ばないでくれよ。気が狂ってしまうから。
 こんな人間に成人する資格はないんだ。俺は二人の人間を壊した。遥香と、自分だ。俺にはもう人間の資格はない。このまま続けば遥香は狂気を孕み、憎悪を産み落とすだろう。だから俺が人間でいられるうち
に、大人になる前に、十二月二十五日の誕生日で成人する前に、自分の命を消去すると決めた。この哀れなる男を嗤ってくれ。ただもし祈りが通じるなら、少しは安らかに地獄へ向かえる。
 知っての通り、お前は俺と同じ道を歩みはじめている。真里亜のことだ。お前はやさしいから、真里亜の能力を引き受けるつもりでいるのだろう。じきに真里亜は世界の欺瞞や敵意に潰されるか、でなければ世
界を遮断する他なくなるだろう。その時は是非とも救い上げて欲しい。それは心から思うことだ。
 ただ、自分を切り売りして人を救おうなんて考えないでくれ。自分が成り立ってるのは自分の為だ。共依存なんかで、互いにすがり付くことなんかで人は救われない。それどころか、両者共に地獄へ転がり落ちて
いくだけだ。身をもって体感した俺からの、最期の忠告だ。
 今はただ、俺が遥香に契約の証としてプレゼントしたあのちゃちな指輪を一刻も早く捨てて、俺のことを忘れてくれることを祈る限りだよ。できれば遥香に俺を忘れるよう努めさせてくれるとありがたいな。嘘だ。近
親相姦の傷が、兄による処女喪失の傷が、物理的にも精神的にも粉々にしたあの傷が癒えることなんて、ないね。そして俺の所為で遥香も地獄に堕ちるんだ。ただそれが、申し訳ない。
 だからどうか、真里亜を傷つけないでやってくれ。それだけが俺の望みです。

    二〇〇三年 十二月二十四日  五十嵐浪磨

追信 桜は演技が達者だが、お前を愛する心は本物だ。欲深い俺のもう一つの祈りは、五十嵐家が壊れないことです。

145 名前:時間外No.3 指輪と聖書、あるいは遺書を 7/8 ◇RikiXMX/aY 投稿日:07/12/25 19:56:06 ID:a7OLD2pb
 僕は手紙をしまい、食器を片付け、二階の自室に戻った。無音。何も聞こえない。喧騒も哄笑も遠く向こう。むしろ遠ざけたかった。だから遠ざかった。自室に閉じこもって、そして――
「ああっ……嘘だ、わかっていたなら、逃げんなよ、この家唯一の大人になって、止めてくれよ……」
 窓の外にはしつらえたような満月が浮かんでいた。十二月二十四日の夜。この月を最期に見て、手紙を綴って、そして近くのマンションから飛び降りたのか――僕は、ただうなだれた。たったそれだけで、今まで
起きた全てとこれから起こる全てを回避できるとは、到底思えないけど。
 四年前の二〇〇三年、僕が十五歳で真里亜が十歳だった時、兄の浪磨は近くの高層マンションから身を投げて果てた。死んだのが十一時四十七分だから、享年十九歳だった。手紙に「真里亜にも変な能力が
ある」と書かれていた通り、真里亜には人を「見る」能力があった。それで恐らく浪磨の自死の意思を「見て」しまい、思わず後を追った結果、兄が地面で潰れ拡がる光景を見てしまったのだろう。
 浪磨兄さんの予測通り、五十嵐家は壊れた。まず現場を見た真里亜は文字通り言葉を失った。咽喉から音が出せても、それを声とすることができなくなったのだ。喋れなくなった真里亜は自分の部屋からも出ら
れなくなり、四年経った今でも自宅の玄関を越えられずにいる。
 兄を一番崇拝していた弟の辰巳はあれ以来表情を失った。生きていくベクトルを失うと、人間ああなるのだろう。遥香姉さんの言動から察するに小学生の時分から中年女性や男性相手に売春行為をしていたら
しいが、定かではない。
 桜は普通に壊れた。演技を重ねた。「お兄ちゃん」ぶりっこも、ネット上での仮想の「お兄ちゃん」をシミュレートするのも、そして一時の姉さんのごとく手首に切り込みを刻むのも含めて、普通の壊れ方だと思う。そ
れが桜のアイデンティティなのだろう。

146 名前:時間外No.3 指輪と聖書、あるいは遺書を 8/8 ◇RikiXMX/aY 投稿日:07/12/25 19:56:37 ID:a7OLD2pb
 それから兄さんの最愛の人、遥香姉さんの壊れ方はもっとも顕著だった。とてもじゃないが思い出したくない内容だ。結論としては精神病院に数ヶ月入院し、退院した。そして「能力」で母さんを殺した。父さんの時
に兄さんが協力したように、今回は僕が手を貸した。僕は殺人者となった。そして姉さんは兄の罪を贖う為に、自分を汚す事に熱心だ。ニンフォマニア、セックス依存症、何とでも呼べばいい。
 そして最後に、この僕は――云わなくてもじきに分かるだろう。
 考えるに、姉さんはこの手紙を読んでいたのだろう。便箋に封がされてなかったのが証明だ。そして恐らく、姉さんなりにこの手紙を渡す時期を見計らっていたのだ。けれども一つ、分からないことがある。姉さん
は僕に、真里亜とのことを止めたいのか? それとも、促したいのか? 僕には分からない。分かりたくもなかったが。
 部屋のノックの音が聞こえた。桜なら何も云わず飛び込んでくるし、遥香姉さんなら尚更だ。辰巳は僕の部屋に来たことなど一度もない。相手は分かっている。
 先程の贈り物の話をしよう。以前兄さんは姉さんに指輪をあげたそうだが、つい昨日までそれは僕が持っていた。姉さんが兄さんの死を知ったとき、左手薬指ごと切断したからだ。僕はその指輪に兄さんの本心
が詰まっている気がして、捨てるに捨てられなかった。そしてそれは月日を経て、二〇〇七年。僕も兄さんの死んだ年、十九歳になった。僕は大人になる。そして、決断しなければならない。だから決断した。「真里
亜に指輪をあげる」という決断を。
 ――ああそうだ兄さん、今僕は同じ過ちを犯そうとしている。でも、それ以外に真里亜を救う手立てなんて思いつかなかったんだ。仕方ないだろう。天国の、あるいは地獄の兄さん、僕だってこの旧約聖書がより
早く手元に届いていれば、違っていたのかもしれないのに――ああそうか、つまりは姉さんは。そういうことですか。ははは。
 ノックの音は強まる。少女のすすり泣きも聞こえる。その少女は恐らく、僕の抱合を求めている。

 さようなら、兄さん。また会う日まで。
 僕は手紙をゴミ箱に破り捨て、ドアを開けた。
                          (了)



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