【 夢に見る日々 】
◆cWOLZ9M7TI





266 :夢に見る日々 ◆cWOLZ9M7TI :2006/05/21(日) 12:16:48.54 ID:pqXzja8k0
――あぁ、これは夢だ。

私は垂直の岸壁を登っている。
岩に手をかけ、割れ目に足をかけ、ただひたすら、上へ、上へと。
私に自分の体重を支える力などない。
だから夢だ。すぐに気づく。
しかし、崖を登っている私は、私の意志とは関係なく登り続ける。
夢の中の私は、崖を登っている私を客観的に見ている。
まるで意識と脳が分離しているような、奇妙な感覚だ。
下は霞がかかっていて何も見えない。上も同様だ。
背後には無限に霞が広がっている。
まるで世界がこの岸壁だけを残して消えうせてしまったかのような、そんな世界。

なんて世界だ。
周囲には何も無い。何も見えない。
ただ凸凹とした岩が垂直に積まれているだけ。
そんな世界を、私は注意深く手を岩に掛け登っている。
いまや私の存在は、このちいさな取っ掛かりに委ねられている。
なんてちっぽけな存在だろう。
儚い。
風が吹いただけで消えてしまう、ちっぽけな存在。


267 :夢に見る日々 ◆cWOLZ9M7TI :2006/05/21(日) 12:17:12.80 ID:pqXzja8k0
頂上には何があるのか。
ここからじゃ何もみえなやしない。
だが夢の中の私は、頂上がどうなっているのか何となく解っていた。
頂上なんてないのだ。
おそらくこの崖は、どこまで登っても、崖だ。
いずれ足を踏み外すか、力尽きるかのどちらかしかないのだ。
なんだか酷く怖くなった。
そんなことも知らずに―知っているのかもしれないが―崖の私は、ひたすら崖を登る。
一度登りだせばもう止められないのだ。
頂上がないのであれば、おそらく下も無い。
ただ漠然とそういう気がするだけだ。何の確証も無い。

ならば何故登る。
ふとそんなことを考える。
だがいくら考えてもわからなかった。
落ちたくは無い。そう思っただけだ。
かといってこの場所に留まろうとは思わない。
この場所はとても、不安定だ。
そんな場所には一秒もいたくない。だから登る。
安定している場所を求めてひたすら登るのだ。
そんなもの、この世界にないことは解っているのだが。

夢の中の私に、虚しさが去来した。
崖の私は、多分そんな事は考えていない。
ただ何も考えず登っているだけだ。
崖の私が可哀そうに見えた。


268 :夢に見る日々 ◆cWOLZ9M7TI :2006/05/21(日) 12:18:58.37 ID:pqXzja8k0
何か落ちてきた。
岩ではない。それは人と同じくらいの大きさで――いや、人だ。
先に登っていた者だろうか。
足を踏み外したのか、力尽きたのか。
それは崖の私の1mくらい隣を通り過ぎた。
一瞬だったので顔は見えなかった。男か女かもわからない。
それは岩壁からすこし出っ張った岩にぶつかり、四散して落ちて、見えなくなった。
あんな岩があっただろうか。

落ちるとどうなるのだろう。
下は無い。ただ落ち続けるだけだ。
彼は―いや彼女かもしれないが―永遠とも呼べる時間を落ち続け、そして散り散りになり、この霞となるのだろうか。
するとこの霞は、落ちていったものたちの成れの果てなのだろうか。
少し気分が悪くなった。
私に解ることは一つだけ。
落ちればもう登らなくてもいい、という事だけだ。
なんだか彼が酷く羨ましくなった。
だからといって落ちようとは思わなかった。
落ちてしまえば、登ることをやめてしまえば私は無くなる。
それは嫌だ。霞になどなりたくはない。


269 :夢に見る日々 ◆cWOLZ9M7TI :2006/05/21(日) 12:19:53.47 ID:pqXzja8k0
動きが止まった。
迷っているのか。目の前には掴めそうな岩が二つある。
どちらか一つの岩は、掴んだ瞬間岩壁から離れてしまうだろう。
何故そう思ったのかは解らない。ただなんとなくそんな気がした。
崖の私は、右の方の岩を掴んだ。
ダメだ。その岩はダメだ。
岩に体重を乗せた瞬間、岩は岩壁から離れ、私の体も岩壁から離れる。
左手が宙を舞う。
次第に離れていく岩壁を、私は凝視する。
当然体とともに足も離れ、私の体は重力に逆らう事無く下へと落ちていった。
これでもう登らなくてもいいという安心感と、霞となって消える恐怖感を抱きながら、私は下へ下へと引っ張られていく。
岩壁に人が見えた。
あの人もまた、岩壁をただひたすら登ってきたのか。
1mほど隣を通り過ぎた。

あぁ、あれは私だ。

どんどん離れていく私を、私はただじっと見つめていた。
背中に大きな衝撃が走る。岩にあたったのだ。
私の体はいとも簡単にバラバラになる。手が、足が、体が霞に飲み込まる。
私も霞に飲み込まれ、岩壁すら見えなくなる。
ただ落ちている感覚だけがある。
目を閉じた。
意識が薄れてくる。
あぁ、私は今霞となって―――


270 :夢に見る日々 ◆cWOLZ9M7TI :2006/05/21(日) 12:20:38.83 ID:pqXzja8k0
目が覚める。
またあの夢を見たのだな。
目に映る光景は霞などではなく、見慣れた狭い部屋だ。
昇りかけの太陽の光が、かすかに部屋に明るさを齎している。
静寂の中、時計の針の音だけが耳に届く。
シーツが体に纏わりついて気持ちが悪い。
あの夢を見たのは何度目だろう。
あの夢しか見ないわけではないが、他の夢は起きてしばらくすると忘れてしまう。
何かの暗示なのだろうか。
私が思うに、多分、あれは、私の人生観そのものではないのだろうか。
あいにく学の無い私には、フロイトだのなんだのは全く解らない。
そんな事には興味もないし、考えても無駄なので、なるべく考えないようにしている。

しかしとても嫌な夢だ。気分が悪い。
眠りにつく時、またその夢を見るのではないかと考え、暗闇の中で気が狂いそうになる。
おかげで最近は寝つきが酷く悪い。それだけが悩みだ。
忘れよう。どうせ答えはでないのだ。
いや、答えなんてきっとないのだ。
一人の男が見るおかしな夢。そういう事にして私はその夢をさっさと記憶の箱にしまいこんだ。
時計を見る。いつもより早く起きたようだ。
今日は早めに出社しよう。
私は再び崖を登っていく。





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