紫色に染まった水平線の向こうで、紅く燃える太陽が姿を隠し始めていた。
海面を伝い吹く冬の冷たい気流が、静かな波を生み出しながら僕の前髪と白い息を揺らめかす。
風の中に僅かな磯潮の匂い。呼吸をするたび塩辛さが口内に広がった。
涙のようなその味は、昔泣きながら食べたラムネ菓子の味を思い出させてくれる。
今はもう昔のように泣くことが少なくなった。
子供の頃は素直に感情を吐き出せたが、大人になればそれすら叶わなくなる。
幼い頃とは違った社会という世界では、我慢や嘘、偽善や疑心も必要になってしまう。
素直というのはときに、残酷なものにさえ成ってしまうのだから。
目の前に広がる水平線の夕焼けを眺めながら溜め息一つ。
一歩足を踏み出せば岩の突き出た浅瀬に呑み込まれる場所で、僕は今日も訪れないだろうと諦めた。
昨日という過去が繰り返せないように、無意味なのはとっくに判っていた。
僕には友達が居た。同い年の女の子だ。
彼女は幼い頃に視力を絶たれ、長い間暗闇の中で過ごしていた。
五年前に僕が膝の皿を割って入院したときに出会ったのが最初。
当時の僕はとにかく好奇心旺盛で、入院生活に慣れていないこともあり、暇を潰すことに躍起していた。
手術も終わって膝の完治が進むと、リハビリのためにも病院内を徘徊するようになる。
階段を昇り降りしているときに、彼女が頼りない足取りで階段を降りている最中と出くわす。
丁度対面になったそのとき、彼女は階段を踏み外して倒れそうになった。
僕は反射的に降って来るその体を抱き止めてしまい、僅かな時間そのまま固まってしまう。
「あ、ありがとうございます」とお礼を言われてからふと我に返り、慌てて手を離し「ごめん」と彼女に謝った。
そのときに初めて彼女の目には光が宿って無いことを知り、同時に始めて触れた異性の感触にドキドキしていた。
219 : ◆WGnaka/o0o :2006/05/21(日) 01:25:25.92 ID:ZLOHlZgQ0
「その、実は私、目が見えないので……すみませんでした」
その言葉を聞いて、ああやっぱりそうなのかと思った。大変だろうと少し同情もした。
僕が無言でいることに不安を感じたのか、彼女は柔らかく笑って「ありがとうございました」と付け加えた。
まるでこんなハンデなんかに負けないという笑顔に、僕の心は一瞬にして魅了されてしまう。
それから僕はちょくちょく彼女の病室へ訪れるようになった。
彼女は最初戸惑ってはいたが、次第に僕の話し相手をしてくれるほどの仲にまでなってくれる。
僕が退院するまでの短い期間ではあったが、互いのことを色々と話し合った。
その中でも特に印象に残ったのが山茶花という花のことだ。
山茶花は主に純白と薄い桃色のグラデーションを彩る綺麗な花びらと、中央から凛とそびえる黄色の花弁を持つ。
遠目からでも目立つ色彩は何かを誘き寄せるようにも見えるそうだ。
子孫繁栄の方法は鳥媒で、甘蜜を餌にしてヒヨドリやメジロに花粉を運んでもらう。
花といえば虫媒花が主なのだが、この花の咲く時期は冬季ということもあり、虫がいないから鳥に頼るしかない。
だからこの綺麗な花びらは、上空を飛び廻る鳥たちから見つけ易いように工夫したということだ。
春椿と瓜二つな容姿を見ただけでは、きっと誰もが正式名称を間違うことだろう。
そもそも椿科の仲間なので、ほとんど似ているのは当たり前なのだが。
教えてくれた山茶花に対する彼女の知識は膨大で、本当にこの花が好きなんだろうと感じた。
僕が退院したあとも週に一度はお見舞いに行くようにしていた。
冬場になれば彼女の好きな山茶花の花束をいっぱいに抱え持って。
喜ぶ彼女の笑顔は掛け替えの無い僕の宝物だった。目の手術することを決心してくれたのが嬉しかった。
しかし、そんな日々も去年の冬に唐突の終わりを迎えることになってしまう。
もうここに彼女は居ないと知ったのは、いつものようにお見舞いに向かった病院の看護師から聞かされたから。
絶望だけが心に残り、渡せない山茶花の花束を取り落とし夕焼けの空を眺め泣いた。人目を気にせずいつまでも。
僕はこの一年間、この場所に来ることを拒み続けていたが、今日やっと決心がついた。
盲目の彼女はきっと助けを待っているはずだ。自惚れでもいいからそう思っていたかった。
220 : ◆WGnaka/o0o :2006/05/21(日) 01:25:44.00 ID:ZLOHlZgQ0
薄紅色の山茶花を足元の海に投げ入れた。彼女が好きだった冬の花。彼女の誕生花。
波に流され往く花束を見送り、僕は絶望を感じたあの日と同じ夕焼けの空を見上げた。
結局彼女を救えなかった自分に、このまま生き永らえている価値はあるのだろうか。
『困難に打ち勝つ、ひたむきさ』
彼女が教えてくれたその花言葉の意味が、今になって判った気がした。
断崖の切先で黙祷の祈りを捧げ、一年分の涙を止め処無く零す。
独りで歩く僕の未来は、この断崖の彼方のように道は続いていないのかもしれない。
ふわりと体が浮いたのは、きっと彼女が手を引っ張ってくれたからだろう。
連れて行ってくれるのならば、彼女と一緒に居られるのならば、僕は待ち受ける痛みさえ怖くない。
冬の澄んだ空気が創る紫の夕焼けがとても綺麗だった。
水面で踊る山茶花の薄紅の花びらがとても綺麗だった。
出会ったときと反対に彼女の華奢な体に抱き締められながら、僕は深い深い眠りに堕ちて往く。
凍て付いた神経では痛みすら忘れ去られて、優しい安堵感だけが包み込んだ。
遥か彼方まで続く闇だけが視界を埋め、彼女と一緒の風景を眺めることができて嬉しかった。
――ねぇ、僕の顔、ちゃんと見えてる?
――うん、見えているよ。ありがとう……ごめんね。
泣き笑いで微笑む彼女に対し、僕は最後まで笑顔で居られただろうか。それだけが心残りだ。
了