【 潜む陰の下で 】
◆ecJGKb18io




8 :No.03 潜む陰の下で 1/4 ◇ecJGKb18io:07/12/01 23:33:01 ID:2ywFcOK9
 無精髭を手でなぞり、医者は椅子の背もたれに身を預けた。午前最後の患者が診察室を出て行こうと会
釈をしたが、医者は全く気付かなかった。
「センセ、お茶でもどうぞ」
 湯気の立ち上る湯飲みが、視界に入った所で医者は我に返る。
「あ、あぁ。すまんな」
「お疲れですねぇ。もう若くないんだから、気を付けて下さいよ」
 慈愛の笑みを浮かべながら、ベテランの女性看護士は言った。
「あんたこそ、色々と気を付けなきゃならん年頃だろう。なんだったら勤務を減らしてもいいんだから」
「またそんな事言って……。私が居ないと回らないでしょう?」
「……まぁ、それはそうだが」
 小さな町医者の景気は決して良くはない。人件費に回せる予算も限られている。そうなると、勤務体制
が厳しくなるのは当然だ。人件費削減の為には仕方のない事なのだが、医者が猫の手でも借りたい、と思
うのは危険な時代を象徴しているようだった。
「それでなくてもここのところ患者さんが多くなってますし……」
 看護士がそこまで言った所で、入り口のベルが鳴った。患者が来たのだろう。医者の肩をぽん、と叩い
て看護士は小走りで受付に向かう。
 元気な人だ、と医者は思った。彼女に限らず、昔の人はどこか生気が漲っている。高齢化社会と言われ
始めて久しいこの時代、若者よりも高齢者の方が生き生きとしていた。
 いつからだろう、こうなったのは。医者はお茶に手もつけず、頭を回転させる。平和ボケしたこの国のお
偉い方はまだ気付いていないようだが、現在、日本の将来を揺るがすような事態になっている事は疑いよ
うもなかった。いや、少なくとも、医者はそう思っていた。
 午後の一時を少し回った頃、医者は昼食を取る事も考えずに、最近のカルテを見直した。


 薄暗く、ほんの少しの異物の侵入も許さない空間に男は居た。灯りもなく、窓からの光を異常に分厚い
カーテンで遮っているこの部屋が、僅かな明るさを残しているのは、常時つけられているパソコンがある
からだ。パンクロックと呼ばれる音楽が鳴り響き、フローリングの床にはあらゆる哲学書が乱雑に置かれて
いる。

9 :No.03 潜む陰の下で 2/4 ◇ecJGKb18io:07/12/01 23:33:16 ID:2ywFcOK9

インスタントラーメンの残骸と、彩り様々なアルコール類の空き瓶が占領しているテーブルを前に、男は
座っていた。片手にはパソコンのマウス、もう片方には飲みかけのリキュールが握られている。男は器用に
マウスを操作しては、リキュールを煽った。
 時刻は、午後の一時を少し回った所。
 今年で二十五を迎える男は、無職の引き篭もりだった。何故こんな生活をしているのか、いつからこんな
生活なのか。そんな思考はとうに男の頭から消え去っている。男は自分でも気付かぬ内に常人の域を抜け
ていた。
「……澄夫ちゃん、入るわよ」
 ノックが遠慮がちに鳴る。男は慌ててリモコンを探してコンポの音量を上げ、空瓶をドアに投げつけた。
けたたましい音を立てて割れた瓶の破片が、ドアの下から微かに入る光を反射して、男を苛立たせる。
「……澄夫ちゃん、お顔を見せて。ね?」
 男の保護者と思しき者の声は、それ以上届く事はなかった。代わりに迫力を増したパンクロックの過激
な歌詞が、男の耳に入り、頭を支配する。
 気に入らない者は殺せ、といかれた頭をしたボーカルが叫ぶ。現実は虚構だ、とハズラト・イナーヤト・
ハーンが諭す。自分は愚者だ、とソクラテスが断言する。男はそうして心を休ませる。虚構の中の虚構に
住み着く愚者を、何度も何度も殺した。
 男は落ち着きを取り戻し、また新しいリキュールを口に含む。ネットには何一つ面白いものがなく、仕方
なくそこらに転がっている本を手に取った。幾度も読み返した哲学書だ。パソコンの弱々しい灯りを頼りに、
目を細める。文字を一字一句追わずとも、ほとんど暗記していた。読んでいるわけではない。
 言うなれば、これは薬だ。男は貪るようにページを捲り、共感した部分に蛍光ペンでラインを引いた。
前に引いていた部分には重ねて上からラインを引いた。
 男は病気だった。


ある日、続々となだれ込んでくる患者に忙殺されていると、馴染みの人物から町医者へ連絡が入った。ち
ょっと来てくれないか、と電話口に頼まれた医者は、午後の診察を終えて少し離れた大学病院へと出向い
た。

10 :No.03 潜む陰の下で 3/4 ◇ecJGKb18io:07/12/01 23:33:33 ID:2ywFcOK9

「やあ、元気にしてたかい」
 受付時間を過ぎ、人もまばらになっている大きなロビーで、医者を呼び出した人物―――――大学医は
言った。
「久しぶりだな……ちょっと太ってないか、おまえ」
「やっぱりそうかな? 自分じゃそうでもないと思うんだがなあ」
 大学医はでっぷりとしたお腹をさすりながら苦笑いをする。
「それで、用件はなんなんだ。悪いが、町医者だって暇じゃないんだ」
「町医者がいなけりゃ俺達は二十四時間勤務でも追いつかないな。ま、とりあえずついてきてくれ」


 二人は明るいロビーから、薄暗い廊下を歩いて、裏口を出た。綺麗に手入れされた中庭を抜け、病棟と
は別の、古臭い棟へ移動する。人の気配を感じない廊下をしばらく突き進むと、第一遺体安置室の札が掛
けられた部屋に着いた。
「おいおい……部外者を入れちゃまずいんじゃないのか」
 白衣も着ていない、普段着の町医者は思わず尻込みした。
「大丈夫、大丈夫。許可は取ってあるからさ」
 大学医は全く疑わしいような物言いで、ドアを開け、医者を招きいれる。
「……まぁいいか。俺は無理矢理連れられたってことで」
 有名な大学病院なだけあって、かなり大きめの部屋だった。ここだけは慣れないな、と医者は思う。研
修医の時から、この遺体安置室という部屋の無機質さが嫌いだった。遺体安置室が好きな医者など居な
いだろうが。

11 :No.03 潜む陰の下で 4/4 ◇ecJGKb18io:07/12/01 23:33:48 ID:2ywFcOK9

「この仏さんなんだけど」
 大学医は慣れた様子で歩き出すと、遺体が保存されている一つのボックスを引き出した。気乗りしない
様子で医者も後に続く。
「で、この仏さんがどうしたんだ。というか、用件はなんだ」
 言ってから、医者は気付いて、目を閉じ手を合わせた。
「それがね。死因がよく分からないんだと。最近、急にこういう患者が増えたんだ」
「解剖は?」
「遺族が、ね」
 アメリカンジョークを言う様に、大学医は大袈裟に両手を仰いだ。なるほど、と町医者は頷く。遺体は
二十代半ばの男性で、髪も髭もぼさぼさで浮浪人のような印象を受けた。
「ほら、この間言ってたじゃないか」
 大学医がこめかみに手を当て、思い出すように言う。
「僕が電話した時だったかな。妙な患者が増えてるって言ってたのは」
 そんなことがあったな、と医者は思い出した。そのようなニュアンスの愚痴を思わず洩らしてしまった
記憶がある。
「……あぁ。なんていうかな。ここ最近で異常に増えたんだよ。親に連れられて来る子供が。子供って言
っても、中学生から成人したやつまで幅は広いがな」
 今度は大学医が納得したように頷いた。
「大学病院でも興味を持ったのか」
 遅すぎたかもしれないけどな、と町医者は続ける。
「そんなことないさ。ここ数日で大体の原因も分かってきた。僕も研究チームに入ったしね」
 大学医は誇らしげに胸を張って、にんまりとした。
「ほう。おまえが……って、お前の専門は」
 驚いた様子で聞き返す町医者に対して、相変わらずの笑顔で大学医は返した。
「そう。僕の専門は小児科。原因に最も近いからね」

                                 <了>



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