【 微睡みのなかに 】
◆daFVkGT71A




77 :No.20 微睡みのなかに1/3 ◇daFVkGT71A:07/11/25 19:25:56 ID:9ByadEt3
 警察から帰ってきた榎本は自分の家の前で立ち尽くしていた。息子が生まれたときにローンで購入した家だ。もうすぐ築十年になる。
当時はずいぶん無理をしてこの家を買ったことを覚えている。妻は最後まで反対していたが、榎本は強引に話を進めた。
どうしても息子の誕生に合わせて家を買いたかったのだ。そこで家族三人、小さな家庭を築くことが夢だった。そして、この家に三人の思い出を刻みたかった。
しかし、今彼はその思い出のためにこの家に入れず、かれこれ三十分ほど立ち竦んでいる。木枯らしが吹き、彼の体温を奪っていく。
人通りはあまり無い住宅街だが、それでも幾人かの好奇の視線を受けた。だが、彼はただじっと玄関を見つめていた。
この扉を開けて、誰もいないことを思い知るのが怖かった。過去のものとなってしまった夢を見るのが怖かった。

 その日、榎本は残業を言い渡されていた。本来ならそこで家に電話をしていただろうが、そのときは偶然それを忘れてしまった。おそらく疲れていたのだと思う。
全ての仕事を終えて帰途に着くころには夜の九時を回っており、電車に乗ってシートに身を預けてから妻に連絡を入れていない事を思い出した。
慌ててその場で家に電話をしてみたが繋がらず、彼女の携帯電話にも繋がらなかった。おかしいとは思ったが、そのときはそれほど深刻には考え無かった。
しかし、何度時間をおいて電話してみても一向に繋がらないことにようやく不安を感じた。
とにかく早く帰ろう。時間とともに不安はいても立ってもいられなくなるほど増大していき、電車が駅のホームに到着するころにはほとんどそのことしか考えていなかった。
いつの間にか疲れは吹き飛んでおり、駅前の大通りに出ると同時に走り出した。いつもよりも暗く、寒く、人通りの少ないことがそのときの彼には言い知れぬほど不気味だった。
彼はその気味悪さから逃れるように家を目指した。
大丈夫。きっと風呂に入ってるんだ。家に帰れば何食わぬ顔でテレビでも見てて、「遅いじゃない。連絡ぐらいしてよね」とかなんとか文句を言うのだ。
息子は最近遅くまで起きていることが多くなったから、もしかしたらまだ寝ていないかもしれない。そしたらただいまの挨拶とおやすみの挨拶を互いに交し合えばいい。
大丈夫、玄関をくぐればいつもの暖かい日常に戻れるさ。
そう自分に言い聞かせて、それでも必死に走った。大通りを抜け、住宅街に入って、最近めっきり冬っぽくなった風に追い立てられながら玄関に飛び込んだ。
 まずは家の電気が点いていることに安心する。しかし、いつもは迎えてくれる二人が全く顔を見せないのをおかしく思う。
二人の靴は玄関にあるし、テレビの音も聞こえるし、微かに味噌汁の匂いもする。二人が家にいるのは確実だった。
「おーい、ただいまー」不安を隠して奥に呼びかける。
「誰もいないのかー」そんなはずは無いと思いつつもとにかく呼びかけた。
「何かあったのかー」自分の声がやけに間抜けに聞こえる。繕ったようなのん気さがある。
榎本には何の返答もない家が寒々しく感じられた。靴を脱いで上がり、激しくなった動悸を懸命に抑えながらリビングへの扉に手をかける。
荒い息を吐きながらドアノブを殊更にゆっくりと回し、その何倍もの時間をかけてドアを押し開いた。
そして、そこに彼が見たのは最悪の想像であり、認めることができない事実だった。

78 :No.20 微睡みのなかに2/3 ◇daFVkGT71A:07/11/25 19:26:27 ID:9ByadEt3
 そこから先はあまりよく覚えていない。思い出したくもない。ただ夢中で救急車を呼び、ずっと妻と息子の名前と叫んでいたような気がする。
救急隊員はすでに二人とも死んでいると言った。警察でもそう言われた。警察はさらに、強盗殺人の可能性が高いとも言っていた。
でも、そんなのは榎本にとってはどうでもいいことだった。犯人への怒りもわかなかったし、悲しみも感じなかった。ただその言葉を信じていなかった。
 そして彼は今、家の前で立ち尽くしている。真実を確認することを恐れて。
冷静に考えれば、二人がもうこの世にいないということは分かるはずだった。
リビングでの惨状を直接その目で見たのも、二人の名を必死に叫んでゆすり起こしても反応がなかったことを知っているのも榎本自身だ。
もし仮に生きていたとしても、家の中にいるはずがない。それでも彼はこの家に二人がいると信じていた。いや、願っていた。
きっと生きている。一昨日まで元気だったんだから。大丈夫。こんな風に終わるはずがない。
ただその悲痛な願いを胸にどれぐらいの間躊躇しただろうか、彼は地面に張り付いてしまったようになっている足をゆっくりと動かし始めた。
一歩一歩、その鉛のような足を引きずり玄関を目指す。そこにあの時の焦りはなく、ただ苦痛を堪えるような表情を浮かべていた。
玄関にたどり着いて彼はインターホンを鳴らすかどうかしばし逡巡した。が、やはり鳴らさないことにする。
変わりにズボンのポケットから鍵を取り出す。手が震えてうまく鍵穴に入らない。
「今日は寒いな……」
言い訳がましく言ったその声は自分でも驚くほどか細く、微かに震えていた。
まるで何かつまっているかのように、頑なに拒否する鍵穴に無理矢理鍵を突っ込んだ。そのまま回すと、自分を嘲るような安っぽい音を立てて鍵は開いた。
鍵を抜き取り、家のドアノブを回す。あの時と同じぐらいゆっくりとドアを開けた。
 今度は電気も点いていなかった。テレビの音も、味噌汁の匂いもしない。ただ、あの時より何倍も薄ら寒い静寂と何かが欠落したような不完全さがあった。
それを認めた瞬間、彼はなりふり構わずに走り出した。
リビングに入る――誰もいない。冷蔵庫に妻の筆跡でいくつかのメモ書きが貼り付けられている。
寝室に入る――誰もいない。三人が一緒に寝ていたベッドがただ一つあった。布団は綺麗にたたまれている。そこに人の温もりは残っていない。
書斎に入る――誰もいない。妻がコーヒーを入れて持ってきてくれたと思われるコップが残っていた。おそらくずっと戻すのを忘れていたんだろう。
浴室に入る――誰もいない。息子が持ち込んでいた人形があった。無表情にこちらを見つめている。
「嘘だ……」
どの部屋にも二人はいなかった。すでに理解し、それでも拒否し続けていた事実を突きつけられ、彼はその場に崩れ落ちた。
もう諦めてしまっていた。初めから諦めていた。分かっていた。でも認めたくはなかった。
全てがどうでもよくなり、放心して柱にもたれかかる。そしてふと気づく。その柱に身長を測った傷が残っている。息子の成長を一年ごとに刻み付けていったものだ。
この家に家族の思い出として刻みこんだものだ。本当なら、もっともっと上まで続くはずだった。でも、今はその思い出を重ねる人たちがいない。
それは、ひどく悲しいことだった。とても耐えられないことだと思った。たったこれだけで思い出は打ち止めなのだ。もう二度と作れない。
あまりに少ないと思う。まだまだ刻むべき思い出はたくさんあったはずなのに……。

79 :No.20 微睡みのなかに3/3 ◇daFVkGT71A:07/11/25 19:26:56 ID:9ByadEt3
 榎本はしばらくそうして、ただぼうっと虚空を眺めていた。その目には光がなく、生気が失われている。彼は考えることを放棄していた。
何もしたくなかった。ただ、妻と息子に会いたかった。いつの間にか外は暗くなっており、電気の点いていない家の中は暗闇で何も見えなかった。
冬の風が窓を叩き、寂しい音を立てる。何も写していない彼の眼は窓からの光を反射して鈍く光っていた。
今更ながらに二人の死を実感する。かといって何も出来ない。何かをしようとも思わない。ただ、悲しさや悔しさは感じなかった。感覚が麻痺していた。
少し眠ろう。何もかもを忘れたい。
彼はそのまま目を閉じた。そうして少しの眠りに入っていった。

 彼は微睡みのなか、妻が自分を呼ぶ声を聞いた。息子が自分の体を揺すって懸命に起こそうとしているような気がする。
朝食の匂いが僅かに鼻をくすぐり、自分がずっと食事を取っていないことを思い出す。
そうだ、早く起きよう。三人で朝ごはんを食べないと。
彼は目を覚ます。そこには息子の顔があり、彼が起きたのを見て微笑した。
「おはよう。お父さん」
妻は味噌汁をかき混ぜている。彼が起きたのを見て、息子同様に言った。
「おはよう。あなた」
彼は違和感を覚えた。自分は何かを忘れていると思った。しかしそれを思い出そうとは思わなかった。自分にとってとても良くないことのような気がしたからだ。
彼は返した。
「おはよう。二人とも」
そこは何故か居心地がよかった。まるで何も悪いことなどないような気がした。きっとこの世は自分のためにあるのだと思った。
どうしてそう感じたのかは分からない。ただ、これ以上に暖かい場所はないということは分かっていた。

 そして彼が戻ってくることはなかった。



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