【 ジュピター/イルカたちの歌を聴け 】
◆2LnoVeLzqY




71 :No.18 ジュピター/イルカたちの歌を聴け 1/5 ◇2LnoVeLzqY:07/11/25 19:22:29 ID:9ByadEt3
 二十億光年の孤独に
 僕は思はずくしやみをした
                   ――谷川俊太郎『二十億光年の孤独』

 日常に不満なんてない。今までもなかったしこれからもないだろう。僕は一介の大学生で、目下フランス語のテストに頭を悩ませるような小さな存在だから。
「テストに出る長文って図書館にある本から出るのよ。ホントに。アタシが言うんだから間違いないわ!」
 先輩からそんな眉唾情報を教えてもらった僕は、まぁ一応確認してみるか……本当にそうだったらラッキーだし……ってことで、大学の図書館の、フランス語の棚の前でひとり腕組みをしていた。
 ゆっくりと流れる図書館の時間は、僕の足の裏を現実という床の上に貼り付ける。

「っていうか、どれ」
 フランス語の本が棚一面にずらっと並んでいた。初級から上級、一般向けから専門書までそれはもうたくさん。どの本ですか先輩……って頭の中で嘆くも意味などなく。
 仕方ない、席に戻って素直に教科書と向き合おう。
 僕の頭がその結論を弾き出したときだ。すぐ背後から、
「はうぐっ」
 という声がした。たぶん女の子。でも人の気配あったっけ? まぁ、どのみち男なら振り向くよねえ。
 だから僕はドジっ子丸出しの、その声の主の方へとゆっくり振り向いて、
 彼女と、出会った。
「Il n'y a pas de probleme、です」
 大丈夫です。彼女は僕に、にっこり笑いながらそう言って……でも頭のてっぺんを片手で撫でていた。若干涙目だし。
 床には本が一冊落ちていて、棚の最上段にはちょうど一冊ぶんのスペースがある。それから、相変わらず頭を撫でている彼女の方を向いてみる。身長を僕と比べてみるために。
 三段論法が導き出した答えは、やっぱりドジっ子だ。
 その本を床から拾って手渡してやる。真っ黒な上着に、同じ色のスカートをはいた彼女は、けれど八重歯を見せながら笑ってそれを拒否した。
「それでは、ないのです」
 なるほどこれではないのか……っていやいや。それではないと言われても。僕が行き場を失った本を片手に立ちすくんでいると、彼女は僕に言う。
「それが入ってたところの右隣……取って、もらえるです?」
 棚の最上段をせいいっぱい伸ばした指で触れながら。
 やっぱり届かないらしい。僕は仕方なく、行き場を失った本を元の場所に戻してやる。それから右隣の本を取って彼女に手渡す。『木星とその衛星たち』
「Merci pour tout!」
 いろいろありがとう。彼女は今の本を小脇に抱えると(既に四、五冊抱えていたけど)、ぱたぱたと棚の間をすり抜けて走っていった。
 僕は肩をすくめながら、フランス語で木星って何ていうんだろう、って考えながら、カバンを置いてある座席へと戻っていった。

72 :No.18 ジュピター/イルカたちの歌を聴け 2/5 ◇2LnoVeLzqY:07/11/25 19:22:57 ID:9ByadEt3

 そして隣の席にはさっきの女の子が座っている。
 カラーの図が載った本とか、白黒で文字ばかりの本とかを交互に眺めながら、しきりに「うーん」とか「ふむぅ」とか唸っている。その全てが木星に関わる本だ。あるいは、その衛星に。
 ――木星の衛星について卒論でも書くのかな。
 まぁ、卒論を書く年齢には見えないけれど……(むろん修論を書く年齢にだって見えない。っていうか年下にしか見えない)。
 僕はフランス語の教科書とノートを開く。勉強しないと単位がマズい。でもやっぱり隣が気になって、だから僕はちょっとだけ、と思って隣をちらりと見たら、
 目が合った。
 しかも助けてオーラ丸出しだった。某消費者金融のCMのチワワ並みに。
「本棚までついて来てくださいです……いわゆる腐れ縁、ってやつですし……」
 ちげぇ。でも僕は断れずに、結局またあの棚に戻る。今度は二人で。

 てきぱきと本を棚へ戻した。僕が。彼女じゃなくて僕が。
「えっへん、届かないのです」
 知ってるよ。胸張って言うな。むしろ無い胸張るな。
「じゃあ、今度はそれとそれとそれを取ってほしいのです」
 戻し終わると矢継ぎ早に彼女が言う。まるで召使いとその主。バロック絵画に描かれた女性たちも、たぶんこのくらい図々しかったんだろうなぁ……。
 僕は指定された本を棚から取って、渋々彼女に渡す。……また木星とその衛星絡みだ。
 いいかげん、召使い的な僕にも少しぐらい権利があっていいんじゃないかと思った。理由について訊く、権利が。
「木星ばっかり調べてるけどさ、それに関する研究でもしてるの……してるんですか?」
 最後の本を彼女に手渡した時に、僕はそう訊いてみた。
 口調があいまいなのは彼女の年齢がわからなかったからで、彼女は開口一番「敬語は無用なのです」と言った。
「それに、研究でもないのです。わたしはただ……そう、エウロパに行きたいだけなのです」
 変な子に捕まったなぁ……。
 そう思う僕を尻目に、けれど彼女は、僕にインターネットの記事を印刷した紙を一枚、手渡してみせる。

>米航空宇宙局NASAは、木星の長年にわたる高度400kmからの調査により、木星の月であるエウロパの厚い氷の層下にいくつかの動きがあることに気がついた。
>伝えられることろによれば、氷に覆われた中から何者かの鳴き声が音センサーに検出されるのだという。
>「データをコンピュータ解析した結果に驚きました。エウロパの海洋から発する音の頻度は、イルカが発する音とほぼ等しく、誤差はたったの0.001%です。」とクラークは語る。

「……木星の衛星に、イルカ?」

73 :No.18 ジュピター/イルカたちの歌を聴け 3/5 ◇2LnoVeLzqY:07/11/25 19:23:34 ID:9ByadEt3
「Oui! だからわたしは、いろいろ調べているのです。エウロパについて。イルカたちが、いったいどんなところに住んでるのかを」
「でもさ……エウロパにイルカなんて、やっぱりちょっと、ありえないと思うよ」
 僕は率直に思ったことを返す。けれど彼女はそんな言葉に、きょとんとした顔をしてみせる。
「どうしてなのですか?」
「ええ? どうしてって言われても……」
 と困りながら言う僕に、彼女はにっこり笑いかける。そのとき八重歯がちらっと見えた。その黒い上着の胸元では、イルカのかたちをした銀色のペンダントが光っている。
 彼女はまた四、五冊の本を小脇に抱えた。それから棚の間を少しだけ進んで、言い忘れた、とばかりに突然立ち止まると、振り向きざまに、笑いながら、こう僕に言った。
「いないと証明されるまで、誰がいないなんて言い切れるのですか?」
 ゆったりとした時間の流れる図書館の中で、そのとき僕はかすかに、波の音を聞いた気がしたのだ。

 もちろんフランス語のテストは散々な結果だった。
 だいいち辞書持ち込み不可なんて無茶だ。半年そこらの単語力なんてたかが知れている。
 空欄を3割も作って提出した僕は、とりあえず単位だけは貰えますように、と窓から見える真昼の月に儚くも祈った。
「諦めろ諦めろ、死亡確定だって。また後期一緒にがんばろうぜ」
 そう声を掛けてきたのはこのフランス語クラスで隣の席になった石田って奴で、そう言うからには彼はもちろん死亡確定。
「でも僕はまだ死んだと決まったわけじゃ……」
「はっ、テスト中に窓から空ばっかり見上げる奴なんて余裕で合格か不合格だと相場は決まってるんだよ。諦めて後期ぶんの教材を今から買っておけって」
「うう逃げたい……」
「おう逃げろ逃げろ。大好きなお空の星にでも逃げとけ」
 と言って彼は窓越しに空を指さす。僕はなんとなくその指の先を追う。太陽のせいで薄まった、白っぽい青が視界を染める。
「……っていうかお前、ほんと空が好きなんだな」
「いや、そんなことないけど」
 と答える僕は、それでもやっぱり空を見ている。より詳しく言えば、木星を、その中に探している。
 試験監督の先生はとうに退室していて、生徒たちも徐々に帰りつつある。がやがやという声が遠ざかっていく。
 カバンをたすき掛けにした僕は、それがやけに重いな、と感じる。
「あのさ」
「何だ」
「イルカのいる海って、やっぱりキレイなんだろうなぁ」
 人の減った教室に、僕の声がやけに大きく響く。

74 :No.18 ジュピター/イルカたちの歌を聴け 4/5 ◇2LnoVeLzqY:07/11/25 19:23:57 ID:9ByadEt3
「ずいぶん調べたのに、わからないことがたくさんあるです」
 彼女は本のページをぺらぺらと捲りながら隣の僕に話しかける。僕は肩をすくめて、そりゃそうだろうね、と返す。
「例えば何がわかんないの? イルカの餌があるかないか、とか?」
 けれど彼女は、そんなんじゃないのです、と言う。
「わからないのは、まず空の色なのです」
「……空の色?」
「はい。空が青い理由は、地球の大気と太陽光の波長に関係しているのですが……エウロパの大気の状態がわからない以上、空の色はどうしてもわからないのです」
 彼女は眉をひそめて、ちょっとだけ難しい顔をする。
「まぁでも、やっぱりわかんないものはわかんないよ。行ってみればわかると思うけどさ」
「そうなのです」
 と言って、そこで彼女は僕の方を向いた。それから本をぱたんと閉じると、とびっきりの笑顔をみせてこう言ったのだ。
「けれどわたしは、やっぱり空には青い色がいちばん似合うと思うです」

 大学からの帰り道、気がつけば僕は、ケータイのボタンを押していた。先輩(ちなみに女子専用アパートに一人暮らし)の電話番号を指が勝手に打ち出していく。
「ハーイ、もしもしアタシだけど、ユウくんどしたの?」
 気持ちの整理がつかないまま、口が勝手に動いてしまう。
「あの、先輩、一緒に海、行きません?」
 一瞬の間。のち、先輩の罵声。
「……はぁ? だってもうすぐ夜の6時だよ!? おまけに冬だし絶対100%間違いなく死ぬってば。どっかの推理小説みたいに情死と勘違いされるの嫌だからねッ」
「………」
「ってユウくん? おーい? もしもーし? 生きてるー? 生き……あー、もうわかったわかった! 10分後にウチの前。晩ごはんとガソリンはそっち持ち! いいわねッ!?」
 と言って電話が切れる。人を簡単にこき使う人間がいるのと同じように、世の中には断れない人間というのが、確かに存在している。

「でもさユウくん、何でまた急に海なの? 冬だし夜だからナンパしようにも美女なんて一人もいないんだよ? アタシを除けばだけどさ」
 先輩の車の窓の外を、高速道路の街灯がびゅんびゅんと飛んでいく。先輩のその性格が、単調なオレンジの光のリズムが生んだ僕の心細さを少し和らげてくれる。
「何となく、海が見たいな、って思っただけなんです。深い理由はありません」
「うーん、よくわかんないけど、まぁ、いいわ。晩ごはんオゴってもらえるなら、アタシはそれでいいもんね」
 車は高速を降りて、一般道を海水浴場へ向かう。空の端に微かに残っていた藍色もすっかり消えて、夜が暗闇を連れてきた。
 閉鎖された駐車場の前に路上駐車しても、咎める人間はさすがにいない。風はなく、寒さはあまり気にならなかった。
 ロープを乗り越えた僕と先輩を、暗黒の中にたゆたう海が、出迎えた。

75 :No.18 ジュピター/イルカたちの歌を聴け 5/5 ◇2LnoVeLzqY:07/11/25 19:24:19 ID:9ByadEt3
 月がぽっかりと、静かな波の上に浮かんでいる。空には雲ひとつなく、星がいくつもまたたいて見える。
「……キレイね。冬の海も、案外悪くないかも。そう思わない?」
「確かに、キレイだと思います……けれど」
 僕は一冊のクロッキー帳を取り出し、その一枚目を開く。
「やっぱり何かが違う」
 星の光に照らし出されたそこには、ひとつの絵が描かれている。
 色とりどりの色鉛筆で、紙いっぱいに青緑色の海と、水色の空と、七つの大きな月が描かれた絵。
 その海では翡翠色の波飛沫を上げて、三頭のイルカが泳いでいる。
「うわぁ、すごい上手! なんかファンタジーって感じ。これユウくんが描いたの? どこの風景?」
 絵を覗き込んだ先輩がびっくりしたように言う。僕はそれに首を振った。
「僕が描いたわけじゃありません。これを描いたのは……空想大好きなドジで小さい女の子、って言っておきます。あとこの風景は地球じゃなくて、エウロパっていう星の景色です」
 エウロパ。先輩は口に出しながら空を見上げた。木星の衛星だということは知っているらしく、先輩は木星を探しているふうだ。
 けれど、星はいくつもあって見つからない。明るいというのはわかりきっているのに、天文の知識がない僕たちには、どれが木星なのかちっともわからない。
 先輩は首を揉みながら、再び絵を覗き込む。紙を横断する水平線を指でなぞりながら、時おり、眼前の夜の海と見比べていた。
「やっぱりキレイだなぁ、この絵。それにイルカがかわいいもん。でもさ、さすがにエウロパにイルカなんていないはずだよね。やっぱり、ファンタジーだ」
 そう言って先輩は、一面に星のまたたく冬の空を見上げた。空の前ではあまりに小さいその背中に、僕は蚊の鳴くような声で返事をする。
「……いえ。いるんですよ、たぶん。いないと証明されない限りは、誰も否定なんてできないんです」
 そう返す僕は、それでもやっぱり4割くらいは、イルカの存在を信じてない。でも残りの6割は、祈って、願っている。その存在を。そんな感情をまとめて押し流すように、真っ黒な海から波の音が聞こえてきた。
 クロッキー帳を一枚捲ると、そこにはこんなメッセージが書かれている。
「エウロパに着いたら、合図してみせるです」
 そのとき、あっ、と先輩が叫ぶ。僕が慌てて顔を上げると先輩は、届くはずのない空に向かって腕をいっぱいに伸ばして中空を指さしている。
「いますごい光った。あそこ!」
 僕はその先を追うけれど、もちろんそんな光なんて見ることはできない。空にはあまりにたくさんの星があって、僕は急に心細くなる。
「あの、先輩。ひとつお願いがあるんですけど」
「ん、なに?」
「空が青くなるまで……夜明けまで、ここにいてくれませんか?」
 僕のむちゃくちゃなお願いに、それでも先輩は少し悩んだあとで、親指をぐっ、と立てて答えてくれる。
「でもさでもさ、まず先にどこかにご飯食べに行こうよ。アタシお腹すいちゃったからさ」
 そう言って車のドアに手をかける先輩を尻目に、僕はもう一度だけ、真っ黒な海を見る。けれど、イルカなんて泳いでいない。ここは地球の、日本の海で、浮かんでいる月は一個だけだから。
 小さくため息をつくと、僕は、晩ごはんを食べに向かう先輩の車に乗り込む。



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