【 かえして! ンーンッンン 】
◆wDZmDiBnbU




2 名前:【品】かえして! ンーンッンン(1/5) ◇wDZmDiBnbU[] 投稿日:07/11/17(土) 02:56:50 ID:WCAkRprE
 ちんちんがなくなった。

 泣いた。涙は出ない、声も出なかったが確かに泣いた。全身の皮膚が裏返るような冷や汗を
かいて、便座の上から動けなくなって三時間が経った。三時間も経ったんだから少しくらい生
えてくるかと思った。いやそんなことはない、と認めるまで、さらに三時間かかった。
 なくなったんだ、と。
 そう呟いて、それが声にならなくて、泣いた。

 思い当たることなど何もなかった。昨日はいつも通り会社から帰宅して、風呂と夕食のあと
に寝て、そして起きただけだった。朝の冷気に身を震わせながらトイレに入って、下着ごとズ
ボンを下ろして「そういえば」とやっと気が付いた。「ある」という感覚がしなかった、それ
に違和感を覚えなかったのは、まだ寝ぼけていたせいかもしれない。
 見ようとして、さわれることを願って、そして我を失った。
 気付けば午後の一時だった。時間は経つのに、やはりちんちんはなかった。泣いた。まさか
ちんちんがないとは思わなかったからだ。「おれのちんちんがない」とか、そういう発想には
縁のない人生を送ってきた。平凡な学校を出て平凡な会社に勤めて、そしてちんちんがなくなっ
た。この世に生を受けて、きっかり三十年目の朝のことだった。
 ――使わないと、なくなるらしい。
 そんな仮説には、やはりなんの意味もなくてただひたすら泣いた。どうしていいのか、とか
もうそういう次元でなくて、ただ圧倒的にちんちんがなかった。そしていらない部分だけが残っ
た、と、今までただの一度も必要とされたことのなかったそれを、まるでおれ自身であったか
のように感じた。つまりおれは「おれ」ではなくて、ちんちんだったのだ、と知った。
 そのちんちんの残りカスが、ようやくフラフラとトイレを出る。見慣れたワンルームまで辿
り着いて、薄汚い衣服とゴミの山に、真っ直ぐうつぶせに突っ込んだ。下腹部に、押し当たる
べきものの圧迫感がない。風、という言葉が浮かんで、そのせいで涙が止まらない。
 死のう、などと、そんな能動的なアイデアは浮かばなかった。
 消えればいい。
 次の瞬間には、おれだけが、ふっ、と。あるいは、世界ごとまるまる消えてもいいだろう。
どっちにしろ同じだった。それに、ちんちんが消えてなくなるのだから、同じ原理でおれくら
いは消えたっていいはずだ。閉じた瞼の裏に、そんなイメージばかり何度も描いた。描くこと

3 名前:No.01 かえして! ンーンッンン(2/5) ◇wDZmDiBnbU[] 投稿日:07/11/17(土) 02:57:51 ID:WCAkRprE
で、ただ時間が経過しているのがわかった。おれは消えなかった。少なくとも、そう自覚でき
る自分だけは残った。それに、あともう一つ、鼓膜もだ。
 鳴り響く電子音は、ルパン三世のテーマ'78。携帯電話のうすっぺらい着信音でも、何年度
版かまでわかってしまう――そんなおれが生きている、そのこと自体が苦痛だった。思い切り
壁に叩きつけても、まるで止む気配を見せないルパン。八つ当たりなどという概念は、もう消
えてしまった人間には関係なかった。拾い上げて台所に走り、シンクに放り込んで蛇口を捻る。
ジボボヌッ、とノイズのような断末魔のあと、ようやくルパンはどこかへ去った。
 力なくへたり込む。その下腹部に、存在の耐えられない軽さ。
 大変なものは、やはり盗まれたままだった。

 あとから「やってしまった」と思う、そういう性格は、そのままだった。
 ベランダに干して、それでどうなるわけでもない。仮に乾いたところで、直るとは思えなかっ
た。でも自責の念からそれを済ませると、何故か気持ちが少し落ち着くのがわかった。直視す
る勇気はやはりないが、それでも多少は冷静に、この状況を考えることができる。
 なくなった。本当に、それだけなのだ。
 それ以外はいつも通りのおれで、他に異常は感じない。なくなったその箇所にも、なにかの
事故や病気だとかいった様子は見られなかった。ただ毛と皮膚だけが続いていて、まるで最初
から何もなかったかのように――と、そこまで具体的に思い返すと、やはり胸が痛み出す。
 おれは少し考え方を変えて、もう一度、その場所に手を伸ばした。
 ――やはり、ない。
 多少は期待したのだが、何か代わりのものが付いているということはなかった。残念だ。だ
が残念である以上に、やはり不安だ。どうしてこうなったかはもう諦めるとして、しかし今の
おれは、いったい何という生き物なのか。
 少なくとも男ではない。外見上はそう見えても、しかしそう呼ばれるべき資格はもう、ない。
ではまさか、女なのか。いやしかし、もし女なら――あるはずだ。直接には見たことも触った
こともないのだが、でもあると聞いている。それがいったいどういうものか、おれには想像も
つかないが、あるのだ。ないと、困る。いや、今となってはもう困らないのか。だが。
 それがどういうものかを想像する、その際限のない思考はまさしくおれそのものだった。た
だいつもと違うのは、なにか悶々とするというか、あのムラムラしたよこしまな気持ちが沸き
上がってこないことだ。無論、寂しいものはあるのだが、しかしこれはこれで結構具合が良い


4 名前:No.01 かえして! ンーンッンン(3/5) ◇wDZmDiBnbU[] 投稿日:07/11/17(土) 02:58:25 ID:WCAkRprE
かもしれない、とも感じる。いつものように、つい連想してしまう彼女の顔に、罪悪感を覚え
ることもない。
 そういえば無断欠勤してしまっていた、その会社でいつも会うのが、彼女――長瀬唯さんだ。
 総務課で四つ下の二十六歳で、蟹座のO型で趣味は読書だ。ざくざくのボブカットが制服に
似合ってなくて月に一度はコンタクトを切らしてめがねをかけている。この間、おれがボール
ペンを拾おうとして腰を痛めたときに、湿布を持ってきてくれたのが、彼女だ。最初は「まぬ
けがいるー」なんて笑っていたのに、でもおれが本気で痛がった途端、なんか泣きそうな顔で
慌て出したりして、そしておれは次の日から彼女には元気に挨拶するようにしている。彼女は
おれの腰を気にかけてくれるし、たまに廊下で世間話もする。とても、可愛い。
 そんな可愛い長瀬さんにも、しかし「それ」がついているのだな。と思うと、もういつもな
ら大変なことになる。大変なことになって、そしてそれ以上に満足する予定がしかしさざ波の
ように引いていく気持ちの中で深い自責の念に駆られたりする。それがまったくないというの
は、まさかここまで快適なものだとは思わなかった。もしかすると、いままでのバチが当たっ
たのかもしれない。
 どこか気の抜けたような、穏やかな気分で長瀬さんのことを考えていると――。
 再び、おれの鼓膜が反応した。
 チャイムの音。思い当たる来訪者などいなかった。客など上げたことのないこの安アパート、
しかもこんな日中のことだ。普段は空けているからわからないが、こんなところにもやはりセー
ルスはくるのか、とドアに目を向ける。その瞬間。
「あのー、森本さん? 生きてますか?」
 聞き覚えのある、どころではない声。長瀬さんだ。心の中ではいつも「唯」と呼んでいる、
あの可愛い彼女の声だ。なんで、彼女がここに。
「動けますか? お医者さんとか、ちゃんと行きました? というか、聞こえますかー?」
 なんということだ。電話くらいならまだわかるが、しかしいくら無断欠勤したからって、な
んで家までやってくるのか。いや、たぶん腰のことがあったせいだろう。動けなくなって電話
もできないとかあり得なくもないが、しかし明らかに考えすぎだ。確かに大切な身体器官を失っ
たばかりなのだが、しかし医師に相談するにも勇気がいるのだ。無理だ。
 居留守を決め込もう、と思って、しかし忍び足でドアまで歩み寄る。その手は通じない、と
いうのは、ドア越しに聞こえた呟きが証明してくれた。
「ど、どうしよう……早く救急車、呼ばなくちゃ」

5 名前:No.01 かえして! ンーンッンン(4/5) ◇wDZmDiBnbU[] 投稿日:07/11/17(土) 02:58:52 ID:WCAkRprE
「やあ長瀬さん。わざわざすまないね」
 長瀬さんのびっくりした表情は可愛い、と思うのは明らかにドアが開いているせいで、そし
てそれをおくびにも出さず爽やかに応対するおれらしき人。「よかったです、無事で」なんて、
本当に安心したように呟かれたりしたから、たぶん嬉しくなったのだろう。
「まあ上がってよ、汚い部屋だけど」
 などと、とてもじゃないがちんちんのない人のいう言葉とは思えない。その調子はあまりに
自然で、そして乗せられやすい長瀬さんが普通に部屋に入ってくるから驚きだ。部屋は本当に
汚くて、彼女のような若いそして可愛い女子には過酷な環境だと思うのだが、
「お掃除しなきゃですよ」
 なんて眉を曲げてきょろきょろして、部屋の隅にちょこんと座ったのかそうでないのか、逆
に自信がなくなるくらい当たり前のように座ったりした。そして女の子座りだった。終わった。
 そこから先の記憶は、もうない――そうなるべき流れだった。
 おれがしっかりと自我を保って、そして爽やかな笑顔でお茶なんて淹れたりしていたのは、
どう考えてもちんちんがないせいだ。あったら今頃、火を噴いてちぎれ飛んでいたはずだ。で
も、今のおれにはその実感がない。熱いから気を付けて、なんて、長瀬さんが本当に気を付け
るべきはきっと別のことだ。しかし今のおれにはその危険がない。何故だ。
「なんだか森本さん、今日は大人っぽい雰囲気ですね」
 自覚はないのだろうが随分と攻撃的な、しかしおれには感じることのできないその言葉。そ
うかな、と、その返事でようやく気付いたのか、「いい意味で」とあわてて俯く長瀬さん。う
ずくべきものがまったくうずかない、その感覚に、おれはただ、祈るしかなかった。
 悲劇が起こっても構わない。頼むから、生えてこい、と。
 もう、ちんちんでなくて別のものでも良かった。とりあえず建前上、何かしら生えてないと
いけない気がした。なんにも生えてない人が、のうのうと長瀬さんと話をするとか、そんなの
は彼女を騙しているみたいで、胸が張り裂けそうだった。
「その。私なんかが聞くのも、悪いんですけど……なにか、あったんですか?」
 いろいろと深読みできそうな質問だが、おそらく無断欠勤の理由を聞いているのだろう。だっ
てちんちんが、とも言えないので、適当にごまかす以外にない。しかしどうしたことか、珍し
くやけに食い下がる彼女。寝坊した、とか、眠れなかった、とか、あることないこと言ううち
に、やっとの事で、おれは気付いた。
 長瀬さんの目が、まるで泣きはらしたかのように、赤い。

6 名前:No.01 かえして! ンーンッンン(5/5) ◇wDZmDiBnbU[] 投稿日:07/11/17(土) 02:59:14 ID:WCAkRprE
「一緒、ですね。私も昨晩、眠れなくて、それで遅刻して……怒られちゃいました」
 どうして、と、おれがそう聞いたのは当然だった。たぶん彼女は、それを話すためにここま
で来たのだ。単なる予感でしかなかったが、しかしそれは見事に的中した。
「怖くて、ずっと泣いてて……夜中、急に枕から、その……おかしな、ものが」
 理屈ではないが、それだ、とわかった。
 恐るべきことに、長瀬さんは素直で、正直だった。理由をそのまま説明したらしい。怒られ
るのも当たり前だろう。しかもいったん家まで戻って、証拠を手に会社に戻ったというのだか
ら尚更ひどい。結果は言うまでもなく逆効果で、泣きながら会社を出てきたのだそうだ。
 長瀬さんを慰めてやるべきだと思ったが、まずはその権利を取り戻さなくてはいけない。
 おれはただ一言、見せてくれ、と告げた。怖いなどと言いながら、しかし彼女はその枕を持
参していた。鞄から取り出されたのは、幾重にも重ねられた新聞紙の包み。彼女が後ろを向い
ているあいだに、丁寧にその包みを開いてゆく。その奥から姿を現した枕、そこにしっかりと
生えていたのは、思った通りのものだった。
 ――おかえり。
 心の中で呟きながら、そっと手を伸ばす。触れ合う指先と皮とが、まばゆい光を放った気が
した。体の中心に熱を感じて、再び一つになる感覚。おれだ、と思った。帰ってきた、とわかっ
た。おれにも理由はわからない。だが溢れる涙は、もう止める術がなかった。
 ゆっくりと振り返る長瀬さん。恥ずかしさと困惑に頬を染める、その顔はただ、可愛かった。
理屈や気持ちだけじゃなく、肚の底からそう思えた。その感覚に、震えが収まらなかった。
「ありがとう」
 声が、かすれる。言葉にならなくて、泣き崩れた。慌てて駆け寄る長瀬さんの、小さな手の
ひらを背中に感じる。触れている、もうダメだ、と――体の芯が熱くなる。帰って、きたのだ。
 思いを、伝える。
 引け目など、もう、ないのだ。
 小さく、それでも確かに。頷く彼女の顔を、おれは一生忘れない。何がなくなろうと、それ
だけは残る。残してみせるし、もう泣かない。無断欠勤もしないし、幸せにする。おれがおれ
であるために、必要なものは、ここにある。
 もう、ちんちんはなくならない。
 愛が、あるから。
<了>


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