【 ラブ&ハッピー 】
◆D8MoDpzBRE




2 :No.01 ラブ&ハッピー 1/5 ◇D8MoDpzBRE:07/11/03 18:51:40 ID:tA/QNKeT
 彼女は無色透明の風だった。生まれたときから、しばらくは。
 僕は彼女に言葉や教養を教えてやれなかったけれど、側にいた。影のように寄り添った。
 そう、僕は彼女にとっての影だ。僕の物心、人間のそれに比べて随分可愛らしい大きさの脳みそが持ちうるだけ
の物心がついたときから、僕と彼女は一緒だった。
 彼女の名前はアキナ。僕には漢字が読めないから、彼女を指し示す記号がアキナ(音声信号としての『アキナ』)
だということまでしか分からない。それで十分だった。
 アキナの成長は遅かった。相対的に。人間と猫の違いだ。彼女がようやく言葉を覚え始めたころ、僕は既にいい
大人の領域に差し掛かろうとしていた。僕は少し人間をうらやんだ。
 三歳児のアキナは、限りなく無色透明だった。それは時に激情の紅に染まったり、陰鬱なブルーに染まったりした
けれど、彼女のカンバスはそう簡単には汚されなかった。彼女を通り抜ける風までもが、無色透明のついでに無臭
だった。
 次第に、アキナは色々な物事を覚えていった。飛躍的な加速度で。アキナの背丈は僕を追い越して、それからも
成長し続けた。
 僕はアキナを、心から愛した。

 今、目の前にいるアキナは十一歳のアキナだ。無色透明ではない。本人は覚えちゃいないだろうが、初恋を含め
て今までに四人の男の子を好きになって、何でもない理由から冷めている。しかし、恋の経験は彼女の心にうっす
らと痕跡を残した。
 アキナは小学生だてらに化粧などを覚えた。薄化粧だ。眉を薄く削って、パウダーもファンデーションも使わない、
簡単なモノだ。最近、メイク道具にチークが加わった。
「クロ、行くよ」
 僕は断れない。んなぁー、と返答してアキナの後を付いていく。
 外で遊ぶアキナは健康的だ。この近辺が田舎であるという事情を差し引いても。
 僕はアキナの自転車のカゴに乗り込む。ピンク色の自転車。アキナによってラブ&ハッピー号と名付けられてい
る。誰も知らないけれど。アキナ以外は。
 テニスラケットとボールを詰めたバッグを背負って、アキナは出発した。僕を連れて、秋風の日曜日を。
 紅葉の下り坂を下りながら、アキナは歌う。鼻唄。メロディは独創的で、ヘンテコだ。ラブ&ハッピーの歌。この歌
には定まった音律も歌詞もない。
 広い河川敷が現れる。川面にはボート、反射して眩しい陽光、さざ波が揺れている。僕たちの自転車が土手の上
を滑る。午前中の涼しい空気の中を、川よりも早く流れていく。

3 :No.01 ラブ&ハッピー 2/5 ◇D8MoDpzBRE:07/11/03 18:52:04 ID:tA/QNKeT
 不意に、進路が土手上のアスファルトから逸れた。芝の生えた急な下り坂を、ラブ&ハッピー号が猛然と下る。僕
はドキッとして、アキナをにらむ。アキナは相変わらずラブ&ハッピーの歌を口ずさみながら笑っている。
 町立河川敷公園テニスコートは、町民であれば誰でも借りられるようになっている。周囲を網で囲まれて、中々に
本格的だ。既にアキナの女友達が数人、黄緑色のボールを追って汗を流していた。みんな薄手のジャージを着てい
る。アキナも。
「アキナ参上! 今日はサーブ王モードだよ」
「ホームラン禁止ね。アキナ来たからダブルスにしよ」
 僕は自転車カゴに放置されて、アキナの背中を見送った。んなぁー。傾いたカゴの中では昼寝をするにも心地悪
い。だから恐る恐る飛び降りる。ぴょいん。
 さて。
 僕は河川敷を見渡した。アキナたちがいるテニスコートの隣には、フットサルコートがある。ここでも小学生たちが
汗を流していた。男児たちが。
 さらに遠く離れて野球グラウンドが見える。ここで野球をしているのは中年のおじさんたちだ。白い軟式ボールが
跳ねている。日頃の運動不足を解消しようと、中年の肉体が躍動する。
「あっちゃあ、ダブルフォルト」
 僕の視線がテニスコートに引き戻される。アキナがサーブに失敗して天を仰いで、嘆息していた。コツン、とラケッ
トの網で自分の頭を小突きながら。汗を吸った黒髪が、ほんの少し乱れる。
「うげ、トラップミス」
 隣のコートから男児の叫び声が聞こえた。僕は首を九十度くらい回してそちらを見る。ばつが悪そうにボールを追
う少年。
 僕はまだ知らない。この少年こそが、五人目だ。

 昼過ぎ、テニスの集いが散会した。みんなでファミレス行こ、という一人の提案を、私これから映画見る予定だか
らゴメン、というもう一人の文句が打ち消した。アキナは心の中でほっとする。僕を連れているから。大抵のレストラ
ンはペットの持ち込みが禁止されている。
 じゃあね、と一人が去り二人が去り三人が去り、アキナが残る。ちくしょう、と呟く。
 アキナがコートに戻り、一人黙々と練習を再開した。サーブの練習だ。ラブ&ハッピーの歌が、スパンとテニスボー
ルを叩くラケットの音に変わっている。
 スパン。
「げ」

4 :No.01 ラブ&ハッピー 3/5 ◇D8MoDpzBRE:07/11/03 18:52:27 ID:tA/QNKeT
 ポトン。コロコロ。
 ボールがコートから大きくはみ出して、僕の後ろまでかっ飛んで着弾した。ホームラン。
 んなぁ、仕方ないな。僕は転々と転がるボールを追う。
 しかし、ボールを拾ったのは僕ではない。少年だ。トラップミスの少年。帰り支度を済ませて自転車に乗ろうとして
いる、その前後のタイミングだった。
「コレお前のか?」
 僕に向かって話しかけてくる。んなぁー。
「ごめんんなさーい」
 後ろからアキナが来て僕を抱え上げる。クロもごめんなさいでしょ、とばかりに無理やり頭を下げさせられた。
「黒猫が取りに来たぞ?」
「クロって言うの。カワイイでしょ」
 もう一回、強制アイサツをさせられる。不機嫌そうに顔を横に背けてやったら、アキナが「めっ」という仕草でにらん
できた。
「あんまり仲良さそうじゃないな。いつも連れ回してるの?」
「うん。毎日一緒にこの辺を散歩してる。平日は夕方とか」
「そうか。じゃあな」
 少年が自転車に乗って去ろうとする。アキナはその一瞬を見逃さない。
――ショウタ。
 声にして呟く。自転車の濃紺の塗装の上から、辛うじて判読できる少年の本名を。その時既に、少年はアキナの
中で五人目になっている。
 眼差しは少年の背中を追っている。

 毎日散歩しているというのは嘘だった。第一猫は散歩を希求しない。家の中で丸くなっていれば十分だ。なのに、
その日を境に散歩は日課となった。だからこれは嘘から出た誠だ。
 少年は、ショウタは、やはり毎日やってきた。アキナの求愛に応えて。午後四時からの一時間くらいの時間を、二
人と一匹で過ごした。
 二人は、お互いのことを恋人として認識しだした。言葉の上での約束も、とても曖昧ながら交わされた。好き? 
好きかも。じゃあショウタはワタシの彼氏ってこと? 一応、そうなるかな。
 初めての両想いだったから、アキナはこれを初恋だと信じている。しかし正確には都合五回目だ。過去四回分は、
過去として封印されたわけではない。それらは単にシカトされた。だからアキナは思い出せない。

5 :No.01 ラブ&ハッピー 4/5 ◇D8MoDpzBRE:07/11/03 18:52:52 ID:tA/QNKeT
 小雨が降る日だった。冬になっていた。いつ雪に変わるかも分からないくらいに寒い。
 だから、アキナは出掛けるのを渋っていた。雨の日はどうするって約束してなかったな、と少し後悔している。
 ショウタは携帯電話を持っていない。アキナは持っている。そして、アキナはショウタの自宅の電話番号を知って
いる。知ってはいるけれどかけたことがない。迷っている。
「行こう」
 アキナはそう決断して、僕を抱え上げる。雨で自転車には乗れないから、片手には傘、片手には僕を抱えて家を
出る。
 寒い。こたつで丸くなるのが信条である僕にはつらい。
 いつもの道が遠い。ラブ&ハッピー号もラブ&ハッピーの歌もない。空は灰色だ。アキナの手も震えている。
 河川敷も灰色に包まれていた。川面は何も映し出さない。景色全体が冬枯れている。
 僕たちは、土手の上をゆっくりと歩いた。
「寒いね、クロ」
 んなぁー。
 テニスコートの脇に高架橋が走っている。その下で雨宿りをする。
 アキナが僕を下ろして傘をたたんだ。そのまましゃがみ込む。僕はアキナの足元に寄り添う。
 ショウタはいない。
 アキナが携帯電話を取り出す。着信はない。依然迷っている。アキナはショウタの自宅の電話番号を知っている。
「あれ?」
 アキナが顔を上げる。視線の先は高架橋に覆われた空間の外。灰色の空から降ってくる、白い雪に目を奪われ
ている。
――ホワイトスノーだ。
 気が付けばアキナは立ち尽くしている。初雪が降る世界と対峙している。風にあおられた雪が飛んで来ては、アキ
ナの頬の熱に溶かされて消えた。
「アキナ」
 声は背後から聞こえた。アキナが振り向いた先にはショウタが立っている。
「ショウタ」
 アキナが駆け出す。ショウタの胸に。小学生だてらに、二人は抱擁することを覚える。
 言葉はない。アキナは泣いていた。肩が震えている。
「ごめん」
 ショウタの言葉にも、アキナは首を振るだけで声を返せない。

6 :No.01 ラブ&ハッピー 5/5 ◇D8MoDpzBRE:07/11/03 18:53:18 ID:tA/QNKeT
 街が白くかすんでいく。そして、アキナとショウタの姿も。
 もう限界――。
 僕は雪の中を歩き出した。元来た方向へ。
 僕はアキナの影だった。この瞬間までは。今、雪景色の中を移動している黒い猫は、主を離れてただ影として存
在している。
 アキナは僕にとっての全てだった。だから僕は、彼女が幸せになれたことを喜ぶ。
 十一年。最近じゃ猫は長生きするから、アキナはまだまだ大丈夫だと思っていただろうなあ。
 ゴメン。
 僕は家を目指す。あえて彼女の前から完全には姿を消さない。いないと知って、いつまでも僕を探し続ける彼女
を想像するのはつらい。
 ただ最期に願うことは、アキナにとって黒が、不吉や不幸せを連想させる色じゃないように!ってこと。大丈夫だと
思う。アキナと積み上げてきた月日があるから。
 ようやく辿り着いた家の庭に、僕は静かに横たわった。もう眠ろう。
 おやすみ、アキナ。
 君の一切のブルーを連れて行きたい。

[fin]



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