【 「結ばれ情調、一寸絶えづ」 】
◆ZRkX.i5zow




2 :No.01 「結ばれ情調、一寸絶えづ」 1/3 ◇ZRkX.i5zow:07/08/25 19:49:01 ID:oCM7Fdnj
 考えてはならぬ事でした。
 貴方には結ばれるお人があると知りながら、わたくしめはいつも貴方の事ばかり考えておりました。お相手の末正様はとても
貴方の事を大事になさる方というのに、です。同じ男子の中でも大変白眉なお方でした。わたくしにいつもニコニコと接し、
わたくしはこれまでこんな好青年と出会った事がないくらいに素敵な、貴方に似つかわしいお方です。わたくしもそんな末正様になついておりましたが、
やはり、その事だけは別で、ここは影ながらひっそりと見守るべき所を、尚も卑しく想っておりました。それが貴方の幸せを邪魔すると知りながら……。
今から思えば貴方もわたくしのそんな邪念にお気付きになっていたのかもしれません。いずれにせよ、貴方の死んだ今、確かめる術はありません。
ただ、末正様も大変悲しみに暮れてなお、わたくしの事を気にかけるような事を思いますと、わたくしの言い知れぬ罪悪感は増すばかり……。
 そして、このような、澄んだ空気の丸い月が水に浮かんだ日がくるとまだ、恥を知れず貴方とのやり取りが思いだされます。
 ああ、お姉様……お姉様……。
 わたくしはまた、この場所に来ています……。お姉様……お姉様……。


 今でもその光景は克明に浮かび上がります。
 夜中シンシンと眠りについていました所に、隣からお姉様がわたくしの肩を揺さぶってきました。
「少しお外を歩きませんか」
 わたくしはもちろん、お体に障りますと言って止めましたが、何故かその日ばかりは聞分けがありません。仕方ないので
寝巻きの上から更に衣を羽織わせて、わたくし達は寒い夜空の元へ出たのでした。その時お姉様は、わたくし達が幼き頃に
亡くなったお父様が気に入ってたと言う行灯を手に持っていきました。わたくしはよく覚えていないのですが、お姉様が言うならばそうなのでしょう。
 暗い夜道を、わたくしはお姉様の腰に手を添えて行きました。街灯が力なくわたくし立ちに影をつくります。
「また、どうしてこんな寒い日に出歩こうなどと」
 もう霜月の終わりというのに、と。
「この頃、寝てばかりいましたから、少しばかり歩こうと」
「何もこんな夜中に……」
 しかし、わたくしのそんな心配をよそに、お姉様はわずかに微笑みながら空を見上げます。
「月が、綺麗ですね。」
 わたくしも見上げますと、見事な満月が乾いた空気を通して光っていました。
「こんなに月が綺麗なのに、出歩かないのは惜しいとは思いませんか?」
 気がつけば民衆から外れ、明かりはお姉様の手元で光っている行灯と真っ青な月だけになっていました。耳を澄ましてみれば
川のせせらぎがわたくし達の足音の遠くで聞こえます。

3 :No.01 「結ばれ情調、一寸絶えづ」 2/3 ◇ZRkX.i5zow:07/08/25 19:49:17 ID:oCM7Fdnj
「お姉様、もう帰られたほうが……」
「あと少し、そこの湖のほとりまで行きましょう」
 お姉様の顔を、暗闇に慣れた目で見ますと、多少疲れの色が出ていた気がしました。今にも細い、華奢な体を抱き上げて
家に連れて帰りたかったのですが、月を見上げ、グッと我慢をしました。
 しばらく暗い、黒い道を歩いて、やがて湖に着きました。一面に水が揺れ、やわらかい月を映しています。その月はお姉様を照らし、
もともとの白い肌が雪を欺くように輝き……青白く光り……。その横顔の、結った漆黒の髪、スッ通った鼻筋、長いまつげにおおわれた目……
その美しい事……。一生をかけて見とれていたい顔がこちらを向いた時、心臓が肺をつき破りそうに……。
「? どうしました?」
「いえ、なんでも……」
 未だ半ばに放心して答えますと、急にお姉様の体がフラリとしまして……。
「だ、大丈夫ですか?」
「ええ……少し腰を下ろしましょう……」
 霜がかった冷たい草に気にもせずに座り、わたくしもそれにならいました。風が周りの木々をサワサワと揺らし、お姉様の
どこか懐かしい匂いが眠気を誘ってきます。やがてお姉様は行灯の灯りを消して、わたくしに言いました。
「わたしは……」
 それはどこか、意識をつなぎ止めるような声……。
「わたしは、もうすぐ、末正様に嫁ぐ事になりますけど……」
「ええ、喜ばしい事で……」
「けれど、千代助、あなたはまだ幼いのに、本当にいいのですか?末正様も、一緒にと……」
 わたくしの手にお姉様が手を重ね、その冷たさにゾクリとしまして……。

4 :No.01 「結ばれ情調、一寸絶えづ」 3/3 ◇ZRkX.i5zow:07/08/25 19:49:31 ID:oCM7Fdnj
「……ええ、一人で大丈夫と言ってるでしょう?大丈夫、ちゃんと暮らせます……」
 重なる手に力が込められた気がします。どちらの手か、どちらが力を入れたかはわかりませんが、感触が変わった気がしたのです。
「あ、あの、私に気を遣わなくとも――」
「べ、べつに、気など……遠慮などしておりません……決して……決して」
「……」
 どこを見ると言うでもなく、とりあえず見えるはずのない湖の底を懸命に覗こうとわたくしは努力をしました。そしてまた心臓が
跳ね上がったのです。急に右肩に重みがあって……それがお姉様の頭と気付くまでしばらくかかりました。風がわたくし達だけを揺らします。
「……貴方は、強い子ですね」
 わたくしの手に何か硬いものが当たりました。見ると、手のひらの上には、お姉様のぬくもりがわずかにある、かんざし……。
 瞬間、わたくしはとても強い衝動に駆られました。お姉様を強く抱きしめたく、その胸で思い切り泣きたくなったのです。
思い切り、声をあげて泣きたくなったのです。疲れて深い眠りにつくまで、泣きたく……。夜が明けるまで、強く、強く……。
「お、お姉様」
 出ない声を絞り出しました。出来るだけ明るい声を、取り繕ったのです。
「帰りましょう。すっかり体が冷え切ってしまいました」
 空を見上げれば、無いと思っていた雲が月を横切っていました。片手にかんざしを、壊れないように握りしめて、わたくしは雲が過ぎるのを
待っていたのです。


 ここにわたくし達は座っていました。お姉様はもういないのです。わたくしのお姉様は、いまやこのかんざしだけ……。
末正様、申し訳ありません。せっかくのご好意ですが、わたくしはお姉様がいなければただのニンギョウなのです。わたく
しの記憶にないお父様、お母様、不孝者で申し訳ありません。
 お姉様。貴方と練習した、箸の持ち方や、文字の書き方、挨拶の言葉、そして、このかんざし、一生忘れはしません。
 空を見上げますと、雲は欠片もありません。
 ああ、お姉様、お姉様……。
 今日も月が綺麗でございます……。
 お姉様……。
 お姉様……。

 (終)



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