【 伝統息づく街 】
◆59gFFi0qMc




67 :時間外No.02 伝統息づく街 1/4 ◇59gFFi0qMc:07/08/21 20:48:15 ID:4a58K+vH
 神聖なほどに澄み切った夜明け。
 アルコールでふらつく頭を手で押さえる。布団で眠りたい一心で俺はアパートへ足を進めた。
 ふと、傍のゴミ袋がうごめいているのに気づいた。隙間から細面の顔が見える。それは俺の記憶
にある犬や猫のイメージと一致しない。
 何者だ?
 足を止め視線をゴミ袋へ集中する。
 茶色い何かが転がり出た。足取りがおぼつかない様子で俺の目の前を横切る。歩道から四車線道路
へ出て、中央分離帯の茂みの中へと埋もれていった。
「キツネ……か?」
 どうしてこんな所にキツネがいるのだ。
 ここは遊郭の伝統を今なお引き継ぐ街、伝統的に稲荷信仰が根強い都会の真ん中、日暮里だ。

「うーん、その様子だとかなりひどそうね。お腹は大きかった? ゴミをあさってたのなら食欲はあ
るかな。でも放っておくわけにもいかないし」
 唇の下へ人差し指をつけて考え込むお姉さん、俺と同じアパートの住人である香さんが言った。
 薄手で紺のキャミワンピとデニム地のハーフパンツで、腰まで届きそうな黒髪をなびかせる彼女。
大人の色気とどこか鋭さのようなものを漂わせている。
 彼女はここ日暮里にある診療所へ勤める看護士さんで、以前は札幌で勤めていたそうだ。中華料理
店のバイトでお客さんの香さんと知り合い、それ以来友達づきあいが続いている。動物好きで特にキ
ツネには目が無いらしい。
 その美貌から、何となく距離を詰めにくく未だに俺は一歩を踏み出せていない。というか、進展す
ることが果たして可能なのか。この人なら男を選び放題だろう。そう思うとますます近寄れない。
「そうねえ」板張りの天井を香さんは仰いだ。「ススキノじゃあ野良犬と縄張り争いしているキツネ
もいるし。日暮里にいてもおかしくないかな」
「多摩くらいなら分りますが、どうして日暮里なんでしょう」
「残飯あさりで生きていけるというのが大きいわね。それに、キツネの守護神でもあるお稲荷さんを
アテにしてるのかも? それはそれとして、心配だからそのキツネを探しに行かない?」
 明日の夜明けに中央分離帯をくまなく捜索する、ということで話はまとまった。彼女は丁度休暇ら
しい。俺も明日は授業が無い。キツネ探しなんて邪魔くさいが香さんと一緒に行動できる、是非とも
これを生かさねば。

68 :時間外No.02 伝統息づく街 2/4 ◇59gFFi0qMc:07/08/21 20:48:34 ID:4a58K+vH
 部屋へ戻る途中、廊下の小さな窓から空を見上げた。環七雲か環八雲か分からないが弧を描くよう
な雲が浮かんでいる。ヒートアイランド現象で道路に沿った形で雲が沸き上がるのだ。空が不安定だ
と雷雲にまで発達するらしい。明日も暑くなりそうだ、雲が大きくなってくれれば助かるのだが。

 次の日の夜明け。
 四車線道路の割には通りかかる車は殆ど無い。左右確認を続けながら香さんと俺は道路を横断し、
中央分離帯の茂みへ踏み込んだ。腰ほどの潅木や雑草が生い茂る巾二メートルほどの土地には吸殻や
ペットボトルなどが散乱している。
「モラルも何もあったもんじゃないですね、これ」
 腕組をしながら俺は言った。
「動物が誤食するといけないから。高橋君、ほら、片付けましょうか」
 香さんはバッグからスーパーのビニール袋を数枚取り出して俺へ突き出した。捜索だけじゃなくて
清掃ボランティアまでやれというのか? 俺が躊躇する間に香さんはゴミ拾いを始めた。気は進まな
いが仕方ない。ため息をひとつついてから腕まくりをした。
 しばらくすると香さんは「あ、やっぱこれキツネかも」と言い出した。声の方を振り返ると彼女が
地面へ指を差している。その指先を視線で追うと、親指ほどの物体が転がっているのが見えた。
「……ウンコ?」
 そばにあった小枝を拾い上げ、香さんはその物体をほじり始めた。
「あまりよくないわね」少し顔をしかめる香さん。「思った通り。寄生虫ね」
 いや、小学生じゃないんだから分解しないでほしい。そんな細くしなやかな指先でそういう作業を
するのは見たくなかった。
 やがて香さんはウンコから離れ、次に中央分離帯をうろうろし始めた。俺はあてもなくあちこちを
歩き回るだけだ。そうしているうちに背後から「あった。ここ、ここ」と叫び声が聞こえた。振り返
ると香さんが何やら指を差している。そこには少し大きな潅木があり、根元は何かを押し付けたよう
にへこんでいる。
「ここが巣穴ね」
 そういってバッグから何か包みを取り出した。新聞紙で包まれたそれは鳥の胸肉のようだ。それを
巣穴のそばへふたつほど置いてから香さんは俺の横へ並んだ。
「虫下しを挟んであるの。飲めば一発治癒。都会のキツネは病気に悩まされてるからね」鶏肉を見下
しながら香さんは言った。「それにしても巣穴なんて凄いわ。オスとメスがいて繁殖しようとしてい

69 :時間外No.02 伝統息づく街 3/4 ◇59gFFi0qMc:07/08/21 20:48:48 ID:4a58K+vH
るのね」香さんは嬉しそうにガッツポーズを決めた。
 ちょっと躊躇したが、思い切って俺は口を開いた。
「またここへ来ませんか」「え?」
 目を大きく開き、意外そうな顔で俺を見つめる香さん。
「ちゃんと治ったのか、子ギツネがきちんと成長するのか。見守ってやりたくて」
 照れ隠しに後頭部へ手を回しながら俺は言った。
 そんな俺を見つめながら、柔らかな笑顔で香さんは首を縦に振った。

 昼飯を一緒に食い、少し黄色い日差しの中を俺と香さんは並んで歩く。
「結局、キツネ自体は見つからなかったですね」
「いいじゃない。ここ十年以上はキツネのカップルが東京でも増えているのは間違いないし。そのう
ち子ギツネだってみられるよ?」
 後ろ手でバッグを持ち、俺へ小首をかしげながら香さんは微笑んだ。
「どのくらい増えているんでしょうね」「さあ? でも、カップルは増えているし」
 突然、日差しに焼かれた頬に冷たいものが当たった。気のせいか? だが、それはやがて数を増や
し俺の体を冷やすには十分な量となっていった。湿気を帯びた石油の匂いがアスファルトから立ちの
ぼる。それでも幾分黄色い光が降り注いでいた。
 俺と香さんは喫茶店の軒へ逃れた。
「天気雨、ですね」
 俺がそう言うと香さんも空を仰いだ。
「狐の嫁入りね。この時期はキツネの発情期だから多いね。この分だとさっきのキツネ、病気なのに
無事結ばれたみたいね。体が治れば繁殖開始、か。ちょっとうらやましいかも」
 そう言ってから、耳を赤くしてうつむく香さん。
 なんだかすっごく非科学的なことを言っている気がする。だが、突っ込む前に”繁殖がうらやまし
い”という言葉で俺も思わずうつむいてしまった。
 お互いが黙り込んだ。何か言わなければ、そう思うがなかなかことばが浮かばない。
 不意に、俺の肩へ何かが乗った。
 視線を向けた。透き通るほど白い香さんの手が肩に乗っている。幾分頬が紅潮し黒い瞳で香さんが
俺を見つめる。残暑の中でも彼女の熱い吐息が分かる。
 ゆっくりと艶のある唇が動いた。

70 :時間外No.02 伝統息づく街 4/4 ◇59gFFi0qMc:07/08/21 20:49:02 ID:4a58K+vH
「ねえ、私たちも……繁殖しない?」
 心拍数、血圧ともに脳の血管が破裂するくらいに上昇した。その場で全身が固まり、一歩も動けな
くなってしまった。
 新入生の時、”童貞を捨てやすい環境”というだけでアパートを日暮里にした。だがバイトもろく
にできない学生生活、金欠男に日暮里は何も応えてくれない。二十歳の今でもソレを確保しつづけて
いたところへ、ついに捨て去る時が来たのだ。
 心の中で百人の鼓笛隊がファンファーレを打ち鳴らす。もっとやれ、全然足らんぞ貴様共。大学受
験なんて比じゃない、人生最大のイベントへ俺は突入しようとしているのだ。街を歩く者ども、俺の
前へひざまづけ。

 そして夜。
 トランクス一枚で俺は香さんの部屋を飛び出した。
「うおおっ!」
 廊下を大またで走り自分の部屋へ飛び込んだ。靴を脱がず畳へ上がり座布団を抱える。部屋の壁へ
背中を押しつけ身構えた。
 さっき、薄暗い中で香さんはハーフパンツを脱ぎ落とした。するとふわふわで大きな尻尾があらわ
れた。意外だったがその美しさに俺は息を呑んだ。てっきりそれはコスプレで、これからマニアック
な童貞喪失が始まるのだと思っていたのだが。
「犬みたいに尻尾をパタパタ振ってたぞ! おまけに耳まで飛び出してきたし」
 あれはどう見ても作り物じゃなかった。本物だ。一体彼女は何者なんだ。
「キツネを守る存在……守護神、お稲荷さん?」
 だからお稲荷さんの祠が集中する札幌の風俗街や日暮里で住んでいるのか。
 まずいな。せっかくの好意を無にしたのだからこのままだと神罰が下るかもしれない。
 それなら再度香さんの部屋へ突入……いやいや、眷属神に対してそのような行為が本当に許される
のか? それこそ神罰が下るような気がする。
 そもそも、お稲荷さんが相手で童貞喪失といえるのか。素人童貞ならぬ人間童貞じゃないか?

 朝まで俺は悶々と悩みつづけた。



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