【 タヒネ 】
◆lnn0k7u.nQ




141 :時間外No.05 タヒネ ◇lnn0k7u.nQ:07/08/13 07:46:25 ID:FfJ8hPL4
 埼玉へ引っ越すことを告げられたのは、父と一緒にお風呂に入っている時で、僕は小学三年生だった。流れ落ちそ
うな涙と崩れる顔を隠そうと、とっさにお湯の中に潜り込んだことを今でもよく覚えている。動揺と怒りと悲しみを
胸に抑え込み、水面に顔を出して一言「父さんだけ行けば」と言うと、父は頭を泡立てながら「何年間も父さんがい
なくて平気か?」と返した。正直僕は全然平気だったのだが、それを口に出すことはできなかった。自分ひとりが父
に抵抗したところで、父が会社の命じる転勤に背くことはできない。そう考えるとどんな言葉を吐き出す元気もなく
なってしまったのだ。黙って顔を濡らし続ける僕に向かって、父が「お湯がしょっぱくなる」と笑った。どうやら嗚
咽を抑えることはできていなかったようだ。
 その二ヶ月後、黒板には大きく「お別れ会」と書かれた幕が垂れ下がっていた。折り紙の飾りで彩られた教室。後
ろに下げられた机。ひとつの椅子を取り囲む三十の椅子。つまらないゲームで盛り上がり、ありきたりな合唱を送ら
れ、一人一人から手紙をもらい、その書き終わりはみんな「忘れるなよ」「頑張ってね」、僕は最後の最後まで「あ
りがとう」が言えず、家に帰ると布団にしがみ付いて泣いた。
 三月の終わりには、埼玉の平凡な住宅街での、まったく新しい生活が始まった。自分の部屋に運び込まれた家具や
ダンボールを整理している間に春休みは着々と過ぎていった。新しい家は少し前まで他人が住んでいた家だったので
、至るところに生活の形跡が残っていた。壁に開いた画鋲の痕、凹んだフローリング、そして押入れで見つけた綺麗
な柄の包装紙。サンタクロースが描かれていたのでクリスマスプレゼントが包まれていたのかもしれない。僕はなん
だかもったいない気がして、そいつを丁寧に畳んで本棚に仕舞った。
 新しく通うことになる小学校は住宅街の中にあった。始業式の日に全校生徒の前で自己紹介するのはとてつもなく
緊張したが、その見返りとして送られた大きな拍手と笑顔は僕の凝り固まった不安を粉砕するのに絶大な効力を発揮
した。壇上を下りた後は、自らクラスの列に加わり、そのまま教室まで一緒に案内してもらった。どんなところに住
んでいたのか、好きなプロ野球チームはどこか、プレイステーションを持っているか、誕生日は、血液型は……。転
校生が来るのは初めてらしく、波のように押し寄せる質問で溺れそうになった。でもそれは、巨乳に囲まれて窒息し
そうなのと同じことで、僕にとっては極めて幸せなことだったのである。
「あだっちゃんってトシヤに似てない?」
 教室に入ってから突然誰かがそんなことを言い出した。みんなは僕の顔を見て「確かに」と口を揃えた。ちなみに
『あだっちゃん』とは数分前に付けられた僕のあだ名のことだった。
「お前は今日からトシヤ二号だ!」
 二号だ二号だと周囲に広まっていく。どちらかというと僕は、先ほどの『あだっちゃん』というあだ名のほうが好
きだった。そもそもトシヤとは誰のことなのか。『二号』ってなんだか僕が二番煎じみたいじゃないか。そう言いた
くても声には出せない。雰囲気を壊さないためには、黙って笑っているしかなかった。
 そんなときに格好よく現れたのが滝根だった。

142 :時間外No.05 タヒネ 2/10 ◇lnn0k7u.nQ:07/08/13 07:47:37 ID:FfJ8hPL4
「お前ら人の気持ち考えろよな」
 その声は男子の輪の外から聞こえた。女の子の声だった。
「『二号』ってロボットみたいじゃん。あだっちゃんは人間だろ? 胸くそ悪いわ」
 机に座るその姿は、ショートカットが似合うボーイッシュな、黙っていれば可愛い女の子だった。もしも黙ってい
れば僕は彼女に一目ぼれしたかもしれない。そう、黙っていれば……。
「なんやと!」
 男子の中から一人、勇敢にも滝根に立ち向かう者がいた。おそらく僕に一番多くの質問をしてきたであろう健ちゃ
んだった。しかし、何も言い返せない。彼女が正論だとわかっているのだ。
「なんだよ、サル。お前はサルに似てるからサル二号だ。一号は本物のサル。二号がお前」滝根は笑いながら言った
後、真剣な表情になり、「どう? 言われたら嫌でしょ? あだっちゃんに『二号』って言ったやつ謝りな」とその
場の男子全員を諭すように言った。健ちゃんはやはり何も返せず、誰がどう見ても滝根の圧倒的な勝利だった。
 その日の帰り道に何人かの男子が僕に謝ってきた。僕は気にしていないと言うと「あだっちゃんはいい奴だなあ」と健ちゃんは感心した。「それに引き換え、あいつは……」と健ちゃんが語り始めた滝根に対する悪口は、ほとんど
当てつけみたいな強引なもので、よく聞いているとむしろ彼は滝根のことが好きなんじゃないかとさえ感じられた。

 始業式の次の日、一学期の委員を決めることになり、僕は飼育委員に立候補した。早くこの学校に慣れるため、そ
して何より動物が好きだから。しかし、そこに意図せぬ誤算が生じた。
「やあ、あだっちゃん、よろしく!」
 思いっきり背中を叩かれ、僕は飛び上がりそうになる。
「あははは、何びくびくしてんの」
 返り見た彼女の笑顔はあまりにも可愛らしく、昨日のアレと本当に同じ人物かと疑いそうになるほどであった。
 委員は各クラス男女一ペア。滝根も飼育委員に立候補したのだ。
「あ、昨日のことは気にしないで。よほどのことが無い限り私、怒らへんから」
「あ……その節は、どうも」健ちゃんの話ではしょっちゅう怒っているそうなので、どちらを信用すればいいのやら
判断を決めかねた。ただ、滝根に正当性があることは昨日の一件からもわかっていた。
「あのさ、一つ聞いていいかな?」勇気を出して口を開いた。彼女はなあにと優しく返す。それに安心して僕は昨日
みんなに聞きそびれたことを質問した。
「トシヤって誰?」
 自分でも笑顔で言えたと思う。何の違和感も無く、それこそ怒らせる要素も無く、ましてや彼女を泣かせるだなん
てこと、考えてもいやしなかった。

143 :& ◆nzO.PEU8EI :07/08/13 07:48:28 ID:FfJ8hPL4
 彼女は表情を凍らせて、そのまま目から涙をこぼしたのだ。
 僕はどうして泣き出したのか理由を探ろうにも見つからず、訳が分からないので謝ることもはばかられて、いった
いどうすればいいのだろうかと動揺した。
 彼女は自分が泣いていることに気づいていなかったみたいで、突然ハッとしたように目をゴシゴシこすった。しか
し、それでも涙は止まらなかったらしく、うろたえる僕を壁にして周囲に気づかれぬよう少しの間目をこすり続けた
。そして「ごめんね」と小さな声でつぶやいた。
「一緒に帰ろう」
 その日の放課後に滝根はまた僕の元へやって来て、そう言った。突然のことでまたもや僕は慌てたが、「話の続き
」と言われて妙に落ち着いた。
 クラスメイトに冷やかされるといけないので、お互い充分時間を潰してから誰もいない頃に学校を出た。
 太陽が高いところから、ゆっくりと歩く僕らを照らしていた。
「吉岡トシヤはね、あだっちゃんと入れ替わりで転校して行ったの」滝根が沈黙を切り裂いて話し始める。「だから
、そいつのこと思い出して泣いちゃったんだ。いい奴だったからさ。ごめんね、突然、困ったでしょ?」明るい調子
で話そうとする滝根だったが、鼻声は誤魔化せないようだった。
 男勝りで強気なイメージだった滝根が、こんなにも女の子らしく泣き出してしまう。僕は不思議な面持ちだった。
普段の彼女の姿は虚像だったのか。健ちゃんの話とは全然違うじゃないか。
「あだっちゃんさあ、本当にトシヤに似てるんだよ? 男子は二号だとか馬鹿なこと言ってたけど、私も生まれ変わ
りかなあなんて思っちゃったんだ。……トシヤは死んでないけどね。あはは……」
 滝根は必死に笑おうとしていたが、それはもう強がりにしか見えなかった。泣いている女の子を前にして、僕には
何ができるだろう。彼女の目元には涙が溜まり、時おり太陽の光を反射させて地面に落ちた。
「アスファルトがしょっぱくなる」とっさに口に出た言葉がそれだった。こういう時にもっと気の利いた言葉が出る
ようであれば、僕はもう少し上手く人生を生きられたかもしれない。
 彼女は笑った。それは苦笑に近かったが、涙を止めることができたので僕には満足だった。
「ほんとトシヤに似てるよ……」
「どういうところが?」僕は興味本位で聞く。
「一生懸命馬鹿なところ!」彼女はにやりと口元を緩ませた。
「馬鹿に一生懸命もくそもあるかいな」
「あっ、関西弁喋った! ますますトシヤに似てるー!」
 誰かに似ていると言われるのは、かっこいいタレントでない限り喜ばしいものではない。ましてや見たことも会っ
たこともない人間に似ているだなんて困惑の一途だ。僕はトシヤという人物に会いたくなっていた。

144 :時間外No.05 タヒネ 4/10 ◇lnn0k7u.nQ:07/08/13 07:49:21 ID:FfJ8hPL4
彼がどれだけ自分と似ているのか見てみたいだけではなく、滝根という魅力的な女の子を惹きつけた男を見てみたく
なったのだ。滝根がトシヤのことを好きだということは、当時それほどませていなかった僕にでも簡単にわかった。
 そしてトシヤと僕の接点が、ただ似ているだけではないことも、この後すぐに判明した。
「ここ、あだっちゃんの家?」滝根は僕の家を見上げて、二度も確かめるように聞いてきた。
「そうだよ」僕もそれに二度同じように返した。「表札見ろよ。ちゃんと『安達』って……あ、まだ表札変えてない」
 表札には以前の住居人の名字が掲げられていた。在りし日のまま、『吉岡』と。
「元、吉岡さん家。僕はそれ以外この家の人のことを何も知らない。手がかりはサンタの包装紙を残していったくら
いだ」
「サンタ……、私があげたプレゼント……」
 僕には始め滝根が何を言っているのかわからなかった。「知り合い?」と聞こうとして、ようやく彼のことを思い
出したのだ。
 “吉岡”トシヤ。
 彼の住んでいた家に、僕は引っ越していた。
「……包装紙、いる?」
 滝根は首を振った。その表情にさっきまでの曇りはまったく感じられなかった。
「大丈夫!」
 何が大丈夫なんだろう。彼女の元気はいったいどこから湧いてきたのだろう。僕には到底理解できなかった。でも
彼女が大丈夫と言ったなら、それは本当に大丈夫なのだろう。僕はこの二日間で滝根の何たるかを掴んだ気がした。

 最初は不安だらけで始まった埼玉での暮らしも、時が経つとともに何事も無かったかのような凡常さを帯びていっ
た。新しい土地に住み着くと、その土地の色に馴染んでいき、元の場所には帰れなくなる。新しくできた友達は、昔
の友達への想いを薄れさせてくれた。
 教室では馬鹿みたいに騒いで、毎日のように滝根にどやされた。滝根曰く「もっと落ち着きのある奴だと思ってた
」らしい。しかし彼女が本気で怒ることは少なく、ほとんど滝根も含めた茶番みたいなものだった。
 昼休みにはクラスの男子総出でサッカーや野球をし、ほかの学年が遊べないから自粛するよう注意された。そうな
ると今度はいかに教師を掻い潜って遊ぶのかが命題となり、僕と健ちゃんを中心に様々な遊びが発明された。
 そして、夏祭りでの出来事は今でも記憶に確かに残っている。夕方に健ちゃんの家に集まり、みんなの間で流行っ
ていたアニメを見た後、自転車に乗って祭り会場の公園へ。途中で滝根に会ってちょっかいを出したら追いかけられ
て、ドジなマサトが転んだんだ。僕たちは「達者でな」とか「生きて帰れよ」とか好き勝手なこと叫んで逃げたんだ
けど、公園で合流したマサトは何故か顔を赤くして帰ってきたんだ。

145 :時間外No.05 タヒネ 5/10 ◇lnn0k7u.nQ:07/08/13 07:50:15 ID:FfJ8hPL4
「殴られたのか!」僕らはマサトの周りに集まって盛んに囃し立てた。「滝根め……暴力だけはふるわない奴だと思
っていたのに」
「違う違う! 殴られてなんかないよ」
「……」
 当時は多少わざとらしく振舞うのが面白おかしかった。だから、この時もまるで滝根が悪の枢軸のように話してい
たのだ。しかし、そんな暗黙の了解を破るかのようにマサトは必死に弁解するのだった。
「ははーん、さてはお前」僕はすべてを見透かすように言った。「滝根のこと好きなんだろ」
 多分それこそが本当の、暗黙の了解だったのだと思う。
「違う、違うよ。あんな奴……」マサトはわかりやすかった。わかりやすいだけに、みんなの反応も難しいところだ
った。一歩間違えれば踏み外すような雰囲気。
「でも……俺はけっこう好きだぜ、滝根のこと」踏み外したのは、健ちゃんだった。
「そんなこと言ったら俺も……」
「普段はあんなだけど……」
「見た目だけなら一番……」
 次々にたかを外していく仲間たち。驚いたことにみんながみんな滝根のことを満更でもない様子だった。クラスで
一番バレンタインにチョコをもらえるヒデちゃんですら、滝根のことが好きだと告白した。その瞬間、ヒデちゃんに
は敵わないよなあ、という一種のオーラが生まれた。その時、僕は何を思ったのか、
「みんなでヒデちゃん応援しようぜ」という提案をした。
 一致団結することにより、この奇妙な空気を打破したかったのだと思う。ヒデちゃんを含めみんなは始め少し戸惑
いながらも、最終的には「オー!」と意気投合した。誰もが自分の身の程は知っていたのだ。
 まず僕たちが立てた作戦はこうだ。三人くらいで滝根と合流し、一緒に出店を回る。その間に射的や金魚すくいで
ヒデちゃんが滝根にいいところを見せる。一方でほかの二人はわざとかっこ悪いところを見せる。滝根はそれを見て
「きゃー、ヒデちゃんってカッコいい!」となる。単純にして明快、そして非論理的な作戦だった。
 公園の中心にはやぐらが建てられ、外縁には出店が取り巻いていた。町内という狭い規模のお祭りだったため、滝
根を見つけることは簡単だった。
 しかし、他の二人をどう決めるのかが問題だった。みんな滝根と一緒にお祭りを回りたいのだ。かっこ悪いところ
見せなきゃいけないんだぞ、と僕が言っても、それでも構わないという奴ばかりだった。結局、じゃんけんというこ
とになり、僕と健ちゃんが選ばれた。
「おーい、滝根!」

146 :時間外No.05 タヒネ 6/10 ◇lnn0k7u.nQ:07/08/13 07:51:19 ID:FfJ8hPL4
 滝根はやぐらの前で綿菓子を食べながら友達と雑談していたが、僕の声に気がつくと笑顔でこちらに走ってきた。
水色の浴衣が印象的だった。
「おっす、あだっちゃん。どうしたの?」
「えっと……一緒に回らない?」
 滝根は一瞬きょとんとした後で「いいよ」と快諾し、その場でくるりと一回転した。「はい、回った。何やってん
の、一緒に回りなさいよ」
 こうなることはわかっていた。打ち合わせどおり、健ちゃんがヒデちゃんの脇を小突く。
「や、やっぱり俺と一緒じゃ嫌かな」ヒデちゃんがこう言えば、滝根は断ることができないはずだった。
「んんー、ヒデちゃんは別にいいけど……」
 滝根はいじり慣れていない奴には弱い。そこに付け込んだ見事な作戦だった。そして僕はこの時急に思いついたア
イデアを独断で遂行した。
「じゃあ、ヒデちゃんとだけならいいわけだ」
 打ち合わせに無い僕の言葉に二人は慌てたようだった。そしてそれは滝根も同じだった。
「二人で行って来いよ。じゃあな」
 健ちゃんの腕を引っ張って、逃げるように走り去り、仲間の元へ戻って「ミッションコンプリート」とかっこよく
呟いてみた。
 その後取り残された二人はぎこちないながらもしばらくの間は一緒に出店を回ったそうだ。僕と健ちゃん以外で構
成された偵察部隊が知らせてくれた。その後僕らはというと、階段でかき氷を頬張りながら、夏休みの宿題の進行状
況などを話し合ったりした。

 夏休みの終わりごろ、そういえばヒデちゃんと滝根はどうなったのだろうと思い出した。思い出したというより現
実逃避だったのかもしれない。宿題が山のように残っていたのだ。しかし、気になりだすときりが無かったので、僕
はあきらめてヒデちゃんの家に行くことにした。
 蝉しぐれを浴びながら自転車で町を駆け抜ける。アスファルトから熱気の上がる坂道も、ひたすらに入道雲を目指
して上りきる。ヒデちゃんの家についた時には、背中にシャツが張り付いていた。
「振られた?」クーラーの効いた部屋に通されて、アイスを食いながら僕は間の抜けた声を出した。「告白したの?」
「いや、告白はしてないけど。好きな人がいるみたいなんだよ。同じことさ」
「好きな人……か」思い当たりが無いわけでもなかった。吉岡トシヤ。滝根の心を魅了した人物。その姿を失っても
なお僕らの前に立ちはだかるというのか。死んでないけど。
「トシヤだよ」僕は隠すこともないかとその名前を出した。

147 :時間外No.05 タヒネ 7/10 ◇lnn0k7u.nQ:07/08/13 07:52:09 ID:FfJ8hPL4
「トシヤって、あの転校した? なんでお前が知ってるんだよ。っていうか、滝根とトシヤは喧嘩ばっかりしてたし
、それはねえよ」
「喧嘩するほど仲がいい」
「そりゃそうだけど」
「大丈夫、敵はもうここにいないんだ。粘り強く攻めれば、お前に落とせない獲物はない」
 アイスを食い終わると棒に『あたり』の文字があった。ヒデちゃんに見つからないようポケットに滑り込ませる。
「そろそろ帰るね。宿題終わらせなきゃ」
 ヒデちゃんは僕の言葉に励まされたのか、満面の笑みで見送ってくれた。
 僕は駄菓子屋で『あたり』棒と交換にアイスを一本もらってから帰った。

 二学期が始まって何日か経った頃、ヒデちゃんは浮かない顔で僕を呼び出した。なんとなくだけれど、用件は予想
がついた。
「好きな人は同じクラスにいるんだってさ」
「そっか……」僕はヒデちゃんに言ったことを思い出して、激しく自責の念に苛まれた。「殴ってもいいよ」それは
ドラマに影響されたことも否めないが、僕の本心から出た言葉だった。
 ヒデちゃんは戸惑いながらも僕にデコピンをしてきた。
「こんくらい痛かった。でも、もう平気だ。こんくらいしか痛まなかった」
 悲しげに笑うヒデちゃんを見ると、やはり申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「多分、滝根が好きなのは」そう言いかけてヒデちゃんは考え込んだ。言うべきか言うまいか迷っているように見えた。
「分かってる。プリンとか、そういう甘いものだろう」僕が冗談を言うとヒデちゃんは思わず噴き出した。そしてす
ぐにチャイムが鳴ったのでそのまま教室に引き返した。僕が『多分、滝根が好きなのは』の続きを聞くことは二度と
なかった。
 ヒデちゃんが振られたことは、あの祭りの日のメンバーにも直に伝えられた。僕と違ってみんなはヒデちゃんに
『ごめんね』と謝っていた。一緒に僕も謝ろうと試みたけれど、声がかすれて聞こえていなかっただろうな。
 クラスの女子が滝根のことを『タヒネ』と呼び始めたのも、その頃からだったと思う。始めは女子の間だけだった
のが、そのうち男子にも飛び火して、一ヶ月も経つ頃にはみんながみんな滝根のことをそのあだ名で呼ぶようになっ
た。

148 :時間外No.05 タヒネ 8/10 ◇lnn0k7u.nQ:07/08/13 07:52:50 ID:FfJ8hPL4
 僕は一応由来が気になったから滝根本人に直接訊ねてみたんだけど「私もよくわかんない」と逆に困惑されてしま
った。しょうがないから言いだしっぺの女子に問いただしても「私に聞かれても」と断固拒絶された。一人だけ本名
で呼ぶのも何だかよそよそしい気がして、結局僕も流されて『タヒネ』と呼ぶことになった。
 “キ”を“ヒ”に置き変えただけの奇妙なあだ名。いったい誰がどのような理由で呼び始めたのか。その時の僕に
は知るよしも無かったし、その意味を知るときには、もう滝根はいなくなっていた。

 滝根がいじめられているかもしれない。そんな疑惑が浮かんだのは、二学期も半ばを迎えた秋のことだった。
 少しずつ滝根の周りから友達の数が減っていると、観察眼に定評のあるモッさんが気づいた。それは微弱な変化で
あったが、モッさんに言われてみるとそんな気もした。女子の滝根に対する扱いも、なんとなく軽くなっているよう
な気がした。
 気がしているだけで済んだのは二学期の間だけだった。
 三学期が始まるといよいよ滝根の周りには人がいなくなった。たまに僕や健ちゃんが話しかけるくらいで、女子か
らはまったく相手にされなくなっていたのだ。理由はわからない。本人に聞いてもわからないと言う。それじゃあど
うしようもないなと僕らは笑う。でも滝根は笑わない。そんな日々が続いた。
 陰湿ないじめの実態が明らかになったのは、滝根が休んだ日にプリントを机に入れてやった時だった。手にガムが
くっついて伸びたのだ。引き出しを覗くとそこには無数のガムがこびりついていた。
「タヒネの奴、学校でガムなんて食べてたんだ。先生に言ってやろ」女子が口を揃えて言った。見え透いた茶番だっ
た。
 登校時、上履きを取り出した滝根が眉間に皺を寄せるのを見た。横から覗き込んでみると上履きの中には味噌汁が
入っていた。
「食べる?」滝根は笑って誤魔化した。
「食べるよ」僕も返答に困ってよくわからないことを言った。

149 :時間外No.05 タヒネ 9/10 ◇lnn0k7u.nQ:07/08/13 07:53:27 ID:FfJ8hPL4
 机に落書きをされるのも日常茶飯事のことになった。罵詈雑言の他に男性器の絵が描かれていることもあり、滝根
が「これなあに?」と純粋に聞いてくるので僕がいじめに会っている気分になった。
 ノートが破られているとテープで繋ぐのを手伝った。成績の良い滝根のノートを見るのは勉強にもなったし、隅っ
こに描かれた落書きを冷やかすのも楽しかった。
 上履きの中身はご飯と納豆だったり、ハムとウィンナーだったり、仕掛ける奴の朝食によって日替わりだった。た
まに本当に食べさせてもらったりしたが、腹を壊すようなことはなかった。
 こんなつよがりがいつまでも続くとは思っていなかったが、僕がいる限りは滝根を守ってやろうと思った。健ちゃ
んもヒデちゃんもマサトもモッさんも好意で協力してくれた。
 しかし、最後の最後に落とし穴は待っていた。
 『タヒネ』というあだ名は不覚にも僕らの間ですら定着していた。そう呼び始めた二学期には、まだいじめは疑惑
のレベルだったからだ。
 終業式の迫ったある日、僕たちの見ている前で数人の女子が黒板の前に集まった。そして、白のチョークで大きく
、『タヒネ』の三文字を書いた。
「なんだあいつ……字うまいな」僕はいつものように冗談で空気を柔らかくした。そうやって滝根へのダメージを和
らげる以外に成すすべを知らなかった。
「タヒネさん、よーく見ててね」くすくすと笑う女子たち。周囲も何が起きるのかと注目していた。

 カッ。

 と引かれたのは一本の線。“タヒ”の上に密着するように引かれている。
 いったい何をしたんだ。そう思ってから、僕は自分の目を疑った。
『死ネ』
 黒板には確かにそう書かれていた。
 とっさに滝根の方を見ると、彼女は引きつった笑いを浮かべていた。それから後はよく覚えていない。
 ただ泣きじゃくる滝根の嗚咽が今でも耳に残っている。
 気がつくと保健室で腫れ上がった拳を眺めていた。殴っちゃったのかなあ。心配になったけれども、殴ったのは床
だったらしい。ただ少し凹んだだけだとか担任に聞かされた。どうでもよかったなあ。

150 :時間外No.05 タヒネ 10/10 ◇lnn0k7u.nQ:07/08/13 07:54:07 ID:FfJ8hPL4
 滝根はそれから転校した。彼女は僕らに『タヒネ』と呼ばれたことを、すべて『死ね』と置き換えて思い出すこと
になる。そんな辛いことを思い出させるくらいなら、転校して新しい友達を作って、忘れ去ってしまうのが一番だ。
 健ちゃんは滝根の引っ越し前日、彼女に告白したらしい。結果は態度を見りゃわかったけれど、僕にマイティブロ
ーを食らわすのはお門違いなんじゃないか。
 ヒデちゃんは自分が振られたから滝根はいじめられたのだと、わけのわからないことを言っていた。滝根がヒデち
ゃんの告白を断っていなかったら、余計女子から恨まれただろうに。それは流石に思い上がりだと思うな。僕がそう
言うと彼は少ししょんぼりして、ありがとう、と微笑んだ。
 マサトもモッさんも含め、僕らは引っ越し当日に滝根を見送った。
「忘れるなよ」
「頑張れよな」
 各自がそれぞれのお別れの言葉を告げる。滝根はまだ曇りの晴れない表情で応えていた。
 『ありがとう』も『ごめんね』も言えない僕は、人を笑わせることで関係を取り持つ人間だった。しかし、滝根に
はちゃんとした言葉を伝えたかった。そう思えたのは初めてだった。
「大丈夫!」
 僕は大声で叫んだ。みんなが苦笑する。自分でも馬鹿らしいと思った。
 滝根は驚いたのか呆れているのか、しばらくきょとんとしていたが、ふっと口元を緩ませると、今まで見たことの
ない満面の笑みで「うん」と頷いた。

 それから四ヶ月が経ち、小学五年生の夏休み、一通の手紙が届いた。
 滝根は新しい学校でトシヤと仲良く楽しんでいるそうだ。



                                 了



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