【 そら 】
◆We.HF6BFlI




2 :No.01 そら 1/5 ◇We.HF6BFlI:07/08/11 00:27:16 ID:Hvkbkqxi
 私には絵心がない。
 どうも全体を見渡せる視野がないらしく、細部はいいがキャンバス全体に
は変形した物体としてしか残せない。見たままを模写するときも、指先に到
達する途中で神経信号がストライキを起こして上手く動いてくれない。そう
やって上手く言い訳を作っている、つもり、であることにも気がついていた。
 それでも私は絵を描くことが好きであった。
 今でも心に焼き付いて離れない絵がある。それは有名な作品でも何でもない。
ゲーム好きな性格が高じて、子供過ぎて何が良いのかも全然わからないまま
購入したとあるCD。そのジャケットに描かれていた絵。
 そこには真っ青な夜が広がっていた。暗い空ではない、濃すぎるアオイロ。
子供心にも全身が打ち震えたことを覚えている。恐怖もあったかもしれない。
 林檎は赤です、葉っぱは緑です、海は青です、夜は黒です。学校で教わる
定石を悉く打ち破る一枚であった。網膜を貫通し脳味噌へと鮮烈に焼き付い
てきたこの表現に、私は瞬く間に囚われてしまった。

 いやそれは嘘かもしれない。そうだ、多少嘘だろう。
 何よりもゲームという大雑把なフィールドへの興味が増幅したように思え
る。特に強い希望ではないが、職種に進みたい。ただそれだけが後の数年を
動かしていた。
 しかしそれでも印象は全て消え去ったわけではなく、何となく絵を描きた
い、という朧気な欲求として私の心に巣くっていたことは確かだ。
 美術の時間はアンビバレンスであった。静かに燃え上がる欲求に際して、
私の指先は頑として要求を満たさなかった。行程の内にある時分は涼やかな
快感に打ち震えているのだが、出来上がる度に恥辱と失意に打ちひしがれる
のだ。極まった私は度々先生方を困らせる態度をとった。作品に参加せず、
授業に参加せず、サボタージュに興じた。
 いつしか私の心の中には描画の精神が薄れ、茫漠とした芸術全般への興味
だけが残っていた。高校進学を機に音楽関係の部活動に参加したことが分か
り易い転換であり、逃げ――であった。

3 :No.01 そら 2/5 ◇We.HF6BFlI:07/08/11 00:27:38 ID:Hvkbkqxi
 幼少の信念を支えた物がCD関係であったのは、縁なのか只の皮肉なのか。
実はことある毎に音楽に触れていた人生だったのだが、拙い絵心がそれを許
さなかった。しかし私は部活動を契機として、周りがドン引きするぐらいに
音楽へと傾倒したのだった。
 関連音楽を聴き漁り、練習に明け暮れ、サボタージュに邁進していった。
今思えばここでその行動力を勉学へと少しでも注げば、ちったぁいい生活を
送れていたかもしれない――キラリ☆と歯も光る清々しい後悔、ではある。

 事は十六の歳に起きた。充実した日々を過ごしていたある日。私は音楽室
に所用があって、部活時間の途中で部室を出た。
 学ランを着ていたので、確か秋頃であったはずだ。学園祭前の仕事でどの
部活も平時よりかは大人しくざわめいていた。二つの校舎を繋ぐ渡り廊下も
閑散とし、涼しくなってきた空気に私の上履きの音だけが響いていた。
 所用を済ませ、私は音楽教員室から出た。防音壁の向こうから聞こえてき
たのは確かラヴェルだったはず。再びスリッパが廊下を叩く音のみになる頃、
私は渡り廊下に出ていた。渡り廊下の屋上だった。音楽室は校舎の一番上に
あるので、帰りは自然と渡り廊下も高度を増す。屋根はなかった。

 身体の左側が熱かった。
 吹き抜ける秋風に負けじと、沈み行く太陽が煌々と燃えていた。海まで
およそ十五キロ。海が作り上げる雲の造形は実に多彩――綿雲の残滓が朱く、
鮮血を模して色めく。空は黄金に染まり、夕日は雲間に優しく飲み込まれる。

 言葉もなく、ただそれを見ていた。どこかの喧噪が耳に届いていたが気に
しなかった。美しい、ただそれだけを感じていた。
 学ランの熱を涼風が奪ってくれた。沈みきるまで瞳を焼き続けた。

4 :No.01 そら 3/5 ◇We.HF6BFlI:07/08/11 00:27:53 ID:Hvkbkqxi
 そうだった。私は空を忘れていた。齢十六にしてやっと気付いたのだった。
 描画が好きなのではなかった――上手くもなかったが。
 音楽は、好きであるが、正鵠ではなかった――ちょっとは上手かったが。

 私、というものを作り上げてきた時間は多くの芸術を有していたが、その
根幹に巣くう悪魔のような感性の主体は「空」だった。視覚で捉えるしかな
い現状は、どうしても目に頼ったアプローチのみを自分に迫った。空を飛べ
たならもうちょっと違うかもしれない。ちなみに子供の頃の夢はパイロット、
ではなくモノレールの運転手だ。
 兎も角私は「的」を得た。紆余曲折はあれど、手に入れた「的」は決して
見失わないようにと肝に銘じた。

 しかしだからといって精神や生活が激変するわけでもない。日々の暮らし
の合間に少しだけ空を見上げたり、ちょっとだけ高いところに上ってみたり、
学校帰りに綺麗な夕焼けに遭遇すると必死で高いマンションを探してベスト
アングルを探して汗だくになって不審者がられたりするくらいだった。
 些細ながらもちょっとした喜びを手に入れた――というのが当時の素直な
感想であった。音楽を嗜み、絵画に触れ、この頃から文章も書き始めた気が
する。
 芸術というものを意識し、己の内面に留意し、自我の成長を客観視する。
ボチボチと変わりつつある程度だった。
 転換期、にして小さい出来事。まだであった。

 忘れもせぬ、あの瞬間は、この一ヶ月後――

5 :No.01 そら 4/5 ◇We.HF6BFlI:07/08/11 00:28:08 ID:Hvkbkqxi
 涼しさは決して加速せず、秋にしては少々暖かい、そんな日だった。
 休日の部活は朝から始まり部長として、部長として(SE:拍手)部員達
の活動状況を生暖かい視線で見守っていた。昼を過ぎると、満腹になった部
員達のメンタルもやや停滞し始めたので、部長として夕方ほどで部活を終わ
ることにした。ちなみに音楽室への用事も部長としてであり、SEは効果音
の意だ。

 学園祭での公演という大行事の一つも終わり、少々集まりは悪かった。勤
勉な方の人達は皆仲も良く、夕方で活動を終えた後も部室で団欒していた。
一つ上の先輩陣とも学年ぐるみで親交が深かったので、部室には絶えず笑い
声が充満していた。
 私はぼうっとしていたと思う。決して仲間内から省かれたわけではなく、
何気なく窓の外をじっと眺めていた。
 部室からは道を挟んで自転車置き場と、校舎の白壁が見えるだけの殺風景さ。
面白さも感慨深さもなく、私はただただ気の抜けた顔をしていたのだろう。
ふと誰かが部屋の照明を落とした。しかし外からの光は十分に明るく、板張
りの床が色付いて部室は深い橙色に満ちた。皆も大して気にしていなかった。

 それは異変、だった――思わず「ん?」と声に出してしまうほどに。
 校舎の白い壁が薄く緑色を呈していた。
 私が声に出して呟くと、部屋にいた全員が同じように感嘆の声をあげた。
なにあれ、と聞かれても答えられるはずもなく、私は茫然とその薄いコバルトグリーンを
見つめるしかなかった。頭の片隅がにわかにざわめきだしていたが、生憎私
は自失するのに忙しくてその警鐘をスルーしていた。
 今思えばかき氷のメロン味、が端的な表現かもしれない。白いカンバスに
ちょっと美味しそうに彩りを乗せて、今回の品評会の時期には最適ね。

 それぐらいの時間を経て、変化は性急。薄いグリーンは――す、と桜色に移行した。
 全身が総毛立ち、脳髄に撃鉄を打ち込んだような衝撃。
 警鐘は全聴覚を支配し、肢体はいつの間にか部室の外へと飛び出していた。

6 :No.01 そら 5/5 ◇We.HF6BFlI:07/08/11 00:28:23 ID:Hvkbkqxi
 スリッパが砂を踏む。外界へと身を投げ出した私は首が痛くなるほど思い
っ切り見上げた。アカイ空は鮮やかで優しい色――そして一転。
 ぐん、と深い蒼色が東から侵食してくる。全身の感覚が消えてしまいそう
な感動。白い校舎が邪魔だ。自然と身体はグラウンドへ向かっていた。

 大きく広がる空は割れていた。南北に一直線――切れ目のない雲が、
天頂を蒼と藍の二層に分かつ。桃色はもう何処にもなかった。
 お、お、お、お、と東の空から夜が迫ってくる。
 あ、あ、あ、あ、と昼の残滓が蒼く耐える。
 軋み上がる時の狭間が、響かない轟音と共に地上を押し潰す。夜が、始まる。
脳漿が沸き立ち、感情が逆流する。震え上がる全身が狂喜と恐怖で満たされる。

 アオイ。こんな、アオゾラは見たことがない!
 刹那私は幻視した――
「空」を、何よりも深い藍色の世界を、記憶の底に眠る至上の夜を。


 もう、空は一面夜に染まっていた。

           ◇     ◆     ◇

 私は絵を描かなくなった。
 理想を形に出来ないことに自分自身でほとほと呆れ果てた。その代わりに
ボールペンを持つことにした。紙に広がっていく文字は、掠れてきたらその
都度替え芯を交換してやることで、のびのびと物語を紡いでいった。正直、
PCで書くと味気ない気分になるので必ず手書きを挿むことにしている。
 心の奥底で記憶となって燃え続けるあの空。少しだけ薄れてきているが、
今でも確かに私の感性を突き動かす――静かに充足していく夜色。
 私はベランダに出て煙草に火を付けた。白い煙がゆるやかに溶け込んでいく。
あの空にまた出会えるのはいつだろうか。           【了】



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