【 水と油 】
◆HRyxR8eUkc




84 :時間外No.07 水と油 1/5 ◇HRyxR8eUkc:07/07/31 05:27:43 ID:RKzWHhSh
 ……ああ?
 なんだ、授業中じゃないか。馬鹿馬鹿しい。俺は腹が立ったが、計算で己の腹を収めた。こういうのは良くある話だ。……何がってこう、
どうしようもないような、他人に言っても何にもならないところでむかっ腹を立てるってことだ。
 今は前の方の奴が本を朗読してる所だ。どうせ読むならもうちょっと大きな声を出して、聞いてる奴が引き込まれるように面白そうに読めば
いいと思うが、決まって蚊の鳴くような女々しい声でいかにもつまらなそうに、当方読む気なんか全然ないんですが、仕方なくやってますとい
うような風に読みやがる。ほんとにボソボソと呟くみたいで、初めから聞かせる気なんか全然ない。それも当然だ。だって誰も聞いちゃいない
んだから。授業ってのは不思議なもので、その間何が起ころうと、それが他人事でしかなくなる。まるで向こう岸まで30メーターの絶壁の対岸
にいる二人みたいに、各人に、物理的な距離など問題にならない程大きな隔たりが生ずるのだ。さっきまで親しげに話していた二人も、授業に
なれば他人同然のぞんざいさで互いを呼び合う。慇懃無礼という奴だ。形式的な丁寧さである。それどころか自分以外全員見知らぬ他人で自分
は知らずここまで連れてこられましたといった調子だ。そんなわけで、声が小さくて聞こえなかろうが、かろうじて聞こえても途切れ途切れで
さっぱり興醒めだったり、その棒読みの一本調子のおかげですっかり辟易させられたりしようが、そんなことは誰にも何の関係もなくて、ただ
その沈黙とかろうじて聞こえる棒読みの上に、今この瞬間に何事もない安心を見出して、そこに寛いだ気持ちさえ感じているのだ。始末に終え
ない。
 それは何か完全性とか無謬性に対して感じる、人がそれを求める気持ちにも似ているかもしれない……水戸黄門的お約束でお約束がその通り
履行されると安心する。またそれは安息であり、つかの間の安らぎでもある。取りも直さず、午後から弁当を食べる暇もない位忙しい、何か又
の名でも冠した方がいいだろうとでも思えるようなあの場所、学習塾に赴く人間に与えられた、束の間の安らぎだ。彼らの安らぎの時間を剥奪
する権利が誰かにあるのかといえば、無論そんなものはない。西部劇中のカウボーイに意見するなんて事、する奴がいるだろうか。
 だから彼らは、この時間がないと不安な気持ちを覚えるのだ。この沈黙にも似た時間に、話が聞こえないといって異議申し立てをする輩は誰
もいない。それぞれの人間を隔てる空間は、朗読が終わっても遥かに遠く懸隔の感ありで、授業の間個人が相互に接触することは困難である。
こう、ヒゲ親父の配管工兄弟が活躍するゲームがあるが、それに例えて言うと床の間に絶対に渡れない穴があってどうしようもないみたいな、
そういう蓋然的な不可能性なので、繰り返しになるが甘んじて享受せざるを得ないことであって、別にどうこう言うつもりはないのだが。第一
相互に接触出来ていようがいまいが、誰もそんなこと気にしちゃいない。皆教科書の同じページ、箇所を見ているが、実質全然別の本を読んで
いる。そこには昨日一日の出来事についてや、今日帰ってするゲームの画面が貼り付けてあって、半ば眠るかのようにしてそれを見ているのだ。
誰が国語の授業なんてしているものか。
 俺が我慢ならないのは、その偉大な安寧秩序に平身低頭する人間たる物のちっぽけさと下らなさだ。何もそんなに下らないということばかり
何回も認識させようとしなくたって、一度っきりでいいじゃないか。
「……はぁ、……でした……そこで、源さんはぁ、友達の所まで行って、……にしまぁしたぁ」
 これは童話だ。それをこんな風にたどたどしくぶつ切りにして、念仏よりも抑揚なく、格好も付けず、それでいて苛々したような調子で読ん
で、済ました顔でいるのだから呆れたものだ。問題は、誰一人として、どのように読めばいいか知らないことにある。この授業を通して何か学
んでいるとすれば、皆童話というものが何の面白みもない下らない物で、どれ程繰り返してみても、何の面白みもないものだという事だけだろ

85 :時間外No.07 水と油 2/5 ◇HRyxR8eUkc:07/07/31 05:28:46 ID:RKzWHhSh
う。そこに描かれた人間と動物の生き生きした様子なぞ、何処にもない。
 それがここにいる全員にとっての真実だ。真実はそれに対して何か物申すといった類の事じゃない。ただ認識することしか、
自分には出来ない。
 もし有名な物語を読んだって同じことだ。誰もそこにある憂鬱とか、苦悩とか、どんな平凡な日常にも、喜びが見出される事なんか、からき
し理解しようとしないし、その登場人物が自分に向かって笑いながら、親しげに語りかけてくることがある事だって、話しただけで軽蔑するん
だろう。そんなことは全部、下らないし絶対有り得ないんだ。俺は授業の度に、自分の惨めさや取るに足らないことばかりを執拗に、嫌という
程認識させられる。いつの間にか俺は悲壮感に捕らわれて、怒りはどこかへ失せてしまった。もう眠ってしまおう……何もかも忘れて。

 気がつくと俺はY子の家に上がりこんで、彼女と二人テーブルに菓子と茶を並べて他愛もない話題で盛り上がっていた。ふと彼女は向の席か
ら立ち上がり、こっちへ向かってきた。
「ねえ、私たちそろそろ新しい一歩を踏み出してもいいと思うの」
 Y子は椅子に座っている俺の膝上に腰をかけた。俺は咄嗟にティーカップをソーサーに戻した。
「危ねえな、折角の茶が零れる」
「いいじゃないのそれ位。ねえ、私解らないわ……あなたが何を考えているのか。テストのことかしら?」
 彼女はこっちを見て、肩を俺の心臓の辺りに押し付けてきた。そして俺の方に少し腰を上げて、俺の方を向いて斜めに座り直した。
「ねえ、あなたって随分面倒なのね。」
 彼女はゆっくりとした仕草で、俺の顎に手を当てた。取るに足らないものを嘲笑するようで、それでいて滑稽そうに、彼女は笑っていた。俺
は答えた。
「ああ、そうかもな」
 そのまま身体の半分がぴったり触れ合って、服を伝って彼女の肌の温かみが伝わった。俺は幸せ者だ。こうやって自分が生きていると感じる
ことが出来る。生活というのは、万人がそれをせねばならない。俺は本人が望んだわけでもなく、西部劇のような日常で済ました顔をしている。
これもその一場面だろうか。
 俺は急に滑稽な気がして、それも自分が超然としたつもりでいるのがおかしくなって、笑い出しそうになった。兎に角こういう事があっても
いいじゃないか。そう思い、彼女のさせるがままにしておいた。彼女の艶やかな髪は左右に揺れ、俺はその匂いを嗅ぎながら彼女を抱き寄せた。
 次の瞬間、彼女は何故か俺の姉貴になっていた。ぼさぼさの短髪なのは同じだが、今日はいつもと様子が違う。
「ねえ、英治……」
 姉貴は俺の上着を脱がせにかかった。そうだ、こりゃ夢だった。
「いい加減にしろって姉貴。」
「何が?」
 呆けた調子で姉が尋ねた。

86 :時間外No.07 水と油 3/5 ◇HRyxR8eUkc:07/07/31 05:29:20 ID:RKzWHhSh
「夢の中だからって、奔放すぎるだろ。大体さっきまでY子だったのに、何で急に姉貴になってんだよ」
 姉貴はどうにも合点がいかない様子で、俺の顔を見た。
「え、だってこれ、夢だよ?」
「夢だよって何だよ。いいから脱がすのを止めろ」
「いやいや、いいじゃないたまには。そういうこと、興味ないの?」
 ダメだ。早く醒めてくれるよう祈るしかない。
「何のことだよ」
「えー?」
 姉貴は眠ったような目で、調子を変えず言った。
「もう、オマセさんだなあ」
 ダメだ、話が噛み合わない。
「いいじゃないたまには。二人きりで楽しみましょうよ」
 何というか、それはさっき聞いたから。これほんとに夢だったっけ。
「えっくんは勘違いしてるなあ……君程の人間はいやしない……でも、これはただの物語だよ」
 又難しい事を言うな……って感心してる場合か。
「君はただそこにあるべき姿で存在しているだけ。一度裸になって考えるべきじゃないかなあ」
 そうか。俺はただここに存在しているだけ。俺は今現実を見ているのかもしれない。
 これこそが現実だ。何かに捕らわれている時、それは夢を見ているのだ。その捕らわれている時、確かに様々なことを感ずることが出来ても、
それははっきりと知覚できるか否かという違いこそあれ、夜眠っているときのそれと変わりない。思索に耽るうちに不意に眠ってしまった時に
見る夢、また立ったまま明晰な意識の下で見る夢のようでもある。
「君は何にでも意味を求めるけど、部分に意味を求める事が出来ない事だってあるんだよ?丁度肉に刺したクローブの実のように、どちらかが
欠けたらそれだけで意味を成さなくなってしまう事だってある。多くの下らない事の上に、有意義な事が成り立つのと同じだね。私達が毎日下
らない事をしているのも、多くの他者の犠牲があってこそなんだよ?私たちに出来るのは、それが美しいと考えること。そうやって毎日を過ご
すしかないの」
 やはりこれは夢だ。今ので目が覚めた。
「そんなことは毎日しているよ。だって俺は小学生だ……」

 気がつくと授業はもう終わりに近づいていて、皆プリントに答えを書き付けていた。
「ええと、源さんは何故『この時ばかりは誰かに助けてほしいものだ』と思ったのですか? か。ここだな」
 俺は、

87 :時間外No.07 水と油 4/5 ◇HRyxR8eUkc:07/07/31 05:30:01 ID:RKzWHhSh
「さすがの源さんもこの時ばかりは、誰かに助けてほしいものだと思いました。なぜなら、普段源さんが農作業に使っている
鍬や鋤が、まるで鉄や鉛の塊のように重く感じられたからです。源さんは……」
 という箇所をほんの十数行のプリントから見つけ出し、解答欄に
「普段源さんが農作業に使っている鍬や鋤が、まるで鉄や鉛の塊のように重く感じられたから」
 と書いた。文言を変えて罰にされるほど馬鹿らしいことはない。変えなければならぬような所は、問題として出ない。概してこの
文字数で書けと指定があっても、そんなものは嘘っぱちだ。信じた方が馬鹿を見る。物言わぬものとその理不尽な仕打ち。それに対しての恭順
と忍従、あるいは隷属。それがこの授業、ひいては世界のルールなのだ。

「ねえねえ、一緒に帰らない?」
「えー」
 そんなことをして、明日からどうなるか。市中引き回しの刑ではないけれど、止めどない野次と冷やかしに晒される事になる。そんな風に息
をつく暇もないような立場に自分を追い込んだ所で、何の得にもならない。俺はそう計算した。本当は、
そんな考えは下らない事なのだけれど。それにしても、彼女も余程この世界で翻弄され、くたびれたものと思われる。俺にはそういった徒な好
奇心とでも言うべきものは、持つべきでないようにしか思えないのだが。費用が対価に見合わないとでも言うべきか。
「えっと、悪リィけどまた今度ね」
「都合悪いの?わかった。じゃあねー」
「うん、さようなら」
 彼女の考えを、俺は理解できなかった。友達は皆帰ってしまって、俺は一人帰路につくことになった。
今日も昨日と同じように時間が過ぎていく。同じ場所に同じ物があって、車の音や食べ物の匂いも、あるべきところに同じようにあるかのよう
だ。歩道橋からは、道路沿いに薬局、雑貨屋、駐車場などが続いているのを見渡すことが出来る。そのまま僕は住宅地に入った。人気のない道
が大きな下水溝に沿っている。大きな溝とそれに流れ込む小さな溝を繋ぐ管の断面に、錆びに似た茶色をした水の跡が奇妙な線を描いていた。
断面の円の一番下の点から各々の水が勝手な方向に流れたのだろう、その跡は下に行くにつれ複雑に横に広がっていた。
 結晶の中の分子のような自分。自分はそれ以上の何かになりたいのだろうか。いや、その均衡と調和の中に自分は身を置きたいのだ。
自分は水の流れだ。自分はそれを止める術を知らない。また自分は自分が動かずにいるか、動いているのかも判らない。俺がもし自分の行く先
にあるものを知ってしまったら、例えまごう事なきそのものを手に入れたとしても、次の瞬間偽物に変わってしまう。
「あら、お帰りなさい」
 黙って入ってきた俺に、姉貴が声を掛けてくれた。
「どうしたの、不機嫌な顔して。元気出しなさいよ。今おやつと飲み物用意するから。何か買って来てほしい物があれば言いなさいよ」
 姉貴はニコニコして言った。俺は今日の夢の事を思い出し、内心ばつの悪い思いをした。
「ええと、ぽたぽた焼き食べたいな」

88 :時間外No.07 水と油 5/5 ◇HRyxR8eUkc:07/07/31 05:31:00 ID:RKzWHhSh
「ぽたぽた焼きね。今日は塾はないの?」
「うん。宿題だけ」
「じゃあ、あっちに座ってて」
 姉貴は台所へ行ってお菓子を出した。俺の家は古い一軒家で、居間の他に部屋が二つと、和室とくっついた物置部屋がある。俺は鞄を和室に
放り出してすぐ居間に向かった。
「今日はどんな事があった?」
「疲れた。いつもと変わらないよ。」
「偉いねえちゃんと学校に行って。塾の問題、お姉ちゃんには難しいけど、英治はちゃんとやってるし。頑張ってるね」
「そうかな」
「あんまり先生に怒られるようなことはしないほうがいいよ。居心地が悪くなっちゃうから」
 俺はむっとして姉貴に言った。
「姉貴、何で生きてるのかな」
「ふふ、何でかなあ」
「ちゃんと答えてよ姉貴、もうわけが解んなくて、でも俺はちゃんと考えてるつもりなんだ、俺は満足してるよ。将来の事はわからないけれど、
今は満足してるんだ。だから俺はどうしたらいいのか教えてよ」
 俺は早口でまくし立てた。
「もうしんどいんだよ。やる気なんか出るわけないだろう。毎日毎日訳のわからないことばかりで。そんなものが大人ってもんかよ。それだっ
たら女に生まれたかったな。まだましだろ? 女の方がまだましだよ。何の為にこんなことしてるんだよ。一生こんなのが続くのかよ。」
「そうね」
姉貴は机から身を乗り出して言った。
「偉いなあ英治は」
「ちょっと、こっちくんなって姉貴!」
 俺は咄嗟に、机の上のコップを整理棚の上に置きなおした。煎餅や菓子の入った菓子入れの椀が、姉貴の身体で跳ね除けられて下に落ちる。
「大好きだよ、英治」
 姉貴は俺を座っていた椅子ごと押し倒した。テーブルに姉貴の体重がかかって、引きずったような音を立てた。
「可愛いなあ英治は。頑張りなよ。その内いい事あるから」
「そうかな」
 姉貴に思い切り抱きつかれて、半ば身をすくませたまま答えた。平穏な、いつもと変わらない日常。
「偉いなあ英治は。お姉ちゃんの誇りだ。もう愛してる。結婚しようね将来、後10年後ぐらいかな」
 これもその日常の一部だろうか。義理の姉だから、姉貴とは結婚できるよな。



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