【 ハイド156 】
◆NA574TSAGA




79 :時間外No.06 ハイド156 1/5 ◇NA574TSAGA:07/07/31 00:31:25 ID:ZVqwgpDJ
 鼓膜を突き抜け、脳内で反響すること数十秒――。
 ようやく聞こえてきた玄関のチャイムの音が、夢の世界から現実へと俺を呼び戻した。ベッドから転がり落ち
るようにして出た俺は、階段を転がり落ちるようにして駆け下りる。そしてラスト数段を本当に転がり落ちてしま
うも、玄関マットの上へと見事顔から着地。そんなウルトラC級の超ファインプレイに「9.125点」と高いんだか低
いんだかよく分からない点数をつけてくれたのは他でもない、我が家の姉貴である。その無駄に高い背丈が、窓か
ら差し込む日差しとあいまって玄関に涼しげな影を落としていた。
「朝から騒がしいのねー。はい、あんた宛の荷物」
 アイスをほおばりながら、空いたほうの手でダンボール箱を差し出してくる。こちらが立ちあがってもなお見下
ろされているような、そんな感覚に襲われてしまう。
「どうしたのこれ、通販?」
「あーなんでもないなんでもない! 玄関出てくれてありがとさん」
 姉貴からを取りあげ、そのまま自室へと階段を駆け戻る。勢いあまってもう少しでドア枠に頭をぶつけるところ
であった。
「ちょっとー。立て替えた着払いの代金、あとで返してよねー!」
 背後からかん高い声が響いた気がしないでもないが、とりあえず聞こえなかったことにしておく。ドアに鍵を
かけ、ベッドへと腰を下ろした俺は、荷物に張り付いた伝票をじっくりと確かめてみた。商品名は伏せられてい
た。通販会社の名前以外に箱の中身を特定するような要素は含まれていない。……大丈夫そうだ。いつぞや
の「特製猫耳抱き枕」のときのような失態はどうやら回避されたようだった。
「さて、運命のご対面といきましょうかねぇ」
 何重にも巻かれたガムテープを引き剥がし、ゆっくりと箱を開ける。中から出てきたのは褐色の小瓶であっ
た。目の前で軽く振ると、内部の液体がうごめくのがわかった。そして側面のラベルに記された "ハイド156"
の文字を確認する。……不覚にも顔をにやつかせてしまった。猫背をよりいっそう丸め、手で顔を覆うことでそ
の表情を隠してやる。だれが見ているわけでもないのに、この喜びを独り占めにするかのように、手のひらの
下で小さくつぶやいた。
 ――こいつさえあれば。こいつさえあれば姉貴に……勝てるッ!

80 :時間外No.06 ハイド156 2/5 ◇NA574TSAGA:07/07/31 00:31:49 ID:ZVqwgpDJ
 "hyde-156"
  ――日本で「ハイド156」と呼ばれるこの薬品について説明するのに、そう多くの言葉は必要としない。無駄
に長い説明書の、冒頭の二行を抜き出してやればそれで済んでしまう程度だ。
 『西洋からやって来た超神水! これを飲むことで、ほんの数時間にして身長を数センチから数十センチ
"縮める" ことも夢ではありません!!(個人差あり)』
 一九五六年、フランスの薬学者アン・シエル・ハイド氏によって生み出されたこの薬は、開発当初は全くと
言っていいほど注目されなかった。しかし半世紀の時を経て日本へと伝来した現在、一部の若い女性を中心
としてカルト的人気を誇るに至っているという。なぜ本国では見向きもされなかった怪しげな薬が、他でもな
い日本においてこんなにも支持を得ているのか? ……答えは単純にして明快だ。現代において、女性の身
長の低さは、男性陣の間では短所などではなく、むしろ長所として捉えられる傾向にあるのだ。端的に言うなら、
「背の低い女の子は、萌える!」この一言に尽きるだろう。一歩間違えれば全国の女性陣を敵に回しかねない
超危険思想であるが、これに対しては不思議と反発の声は聞こえてこない。小さければ小さいほどにかわいい、
かわいいは正義――普段ささいなことでいいだけ女性差別だひいきだと騒ぎ立てるくせに、自分の都合のいい
ことに対してだけはやはり…………おっと、誰か来たようだな。
 ノックの音に、俺は小瓶を片手に立ち上がった。先ほどまでのにやつきは既に治まっていた。やはり平常心を
取り戻すにはどうでもいいことを考えるに尽きるなあ、などと思いながらドアを開けてやる。
 そこに立っていたのは姉貴だった。なんというグッドタイミング。
 さっきのお金――と何故かスキップで部屋に踏み込んできた姉貴だったが次の瞬間、ドア枠の上のところに
頭をぶつけ、その場にうずくまってしまった。「いったーい……」と半泣き状態だが同情はしない。この姉ときた
ら、我が家の狭さとドアの低さを知っていながら、一日一回はこうして家のどこかに頭をぶつけているのだった。
「……慰めの言葉くらい無いわけ?」
「……慰める言葉も見つからないな」
 というのは嘘。実際のところ慰めの言葉を探す気など毛頭なかったりする。自業自得だ、そもそもその無駄
にでかい背丈が悪いんじゃないか、などと心の中でつぶやいてみたりもする。
 そんな俺の身長はというと春の時点で十二・五センチ、姉より下であった。「去年より五・二センチ、差が開い
ちゃったね!」などと報告してくれた姉の笑顔と腹黒さを、俺は一生忘れないだろう。
 ともかくあの屈辱的な敗戦の日、俺は決意したのだ。
「あのさ、姉貴。ちょっとこれ飲んでみてくれないか」
 単純な発想だった。こちらが伸びないのなら、向こうを縮めてしまえばいい――。ただ、それだけのこと。

81 :時間外No.06 ハイド156 3/5 ◇NA574TSAGA:07/07/31 00:32:06 ID:ZVqwgpDJ
 新種のダイエット飲料だというと、姉貴は何の疑うそぶりも見せずにその場で一気に飲み干してしまった。効
果が現れるまでにはある程度時間がかかると聞いていたので、昼寝でもして待つことにする。そして数時間
後、ふと気がつけばあたりは夕暮れ時に近づきつつあった。
「そろそろ効きはじめた頃かねぇ。姉貴ー?」
 大声で呼んでみたが返事はなかった。姉貴の部屋をノックしてみるが、返事はない。今日は父さんも母さんも
残業だと言っていた。夕飯の材料でも買いにいったのだろうか?
「……ってことは、気にならない程度にしか低くなってないのかよ」
 深い溜息をつきながら居間へと向かう。テレビはつけっぱなしで出かけたらしい。夏の風物詩ともいえる高校
野球は赤帽子対青帽子の対戦。現在八回の裏、一死一塁。チャンスかと思ったが冷蔵庫へアイスを取りに
いっている間にダブルプレーを取られてしまい、青帽子の攻撃はあっけなく終了した。ソファーに腰掛け、ぼん
やりと窓の外を見る。野球に興味るのはうちじゃ姉貴くらいだ。それもにわか以外の何者でもない――
"九回の表、……高校の攻撃は……"
 ふと画面に目をやる。マウンド上にワイドショーでよく見知った選手が立っているのを見て、俺は思わず眉を
ひそめた。
「あれっ、今日出てんじゃん。のれん王子」
 のれんのごとく帽子から垂れ下がるハンカチが特徴的なピッチャー、のれん王子。何が良いんだか全くわか
らないが、姉貴のアイドルらしい。その王子が現在この九回のマウンドに登板している。
 点差は一点。この回を抑えれば、青帽子の勝ちが決まるという場面だ。
「見逃すわけないよなあ、あの姉貴が」
 ひょっとしたら部屋で寝てるのかもしれない。玄関を通り抜け階段を駆け上がろうとする。と、視界の端っこに
姉の靴が飛び込んできた。やはり家のどこかにいるのは間違いない。
「姉貴ー、寝てんのかー? 入るぞ」
 中にそっと入り込む。久しぶりに入る姉貴の部屋は脱ぎ散らかされた衣類などで無駄に生活臭にあふれていた。
というか、普段俺の部屋の散らかり具合を注意するくせしてなんだこのざまは……。
「隠れてるなら出て来いよー。おーい」
 まさか身長が縮んだショックのあまり出てこれないのか。いや、いくらなんでもそれはないはずだ。個人差は
あれど低くなるのはせいぜい二十センチが限度――否、もしかしたら……。
「個人差、ってどのくらいまであるのだろうか?」
 そんな疑問とともに、頭の中を嫌な想像が巡りはじめた。

82 :時間外No.06 ハイド156 4/5 ◇NA574TSAGA:07/07/31 00:32:23 ID:ZVqwgpDJ
 そして予感は的中してしまった。説明書の前書きにして、筆者の情熱がもっとも感じられるハイド家の歴史
紹介。それを読み飛ばした先に、申し訳程度に記された注意書きがあった。そしてその中ほどに、恐れていた
一文が存在していた。
「『注意:一回の服用につき、五ミリリットル(瓶のキャップ半分程度)を目安にしてください。守らないと……大
変なことになりますよ』か。大変なことって何だよ……てか最後だけ太字フォントで強調すんなって。怖いじゃねーか」
 ちなみに姉貴には瓶一本分のハイド156をとてもおいしそうに飲み干してくれた。そして姉貴の部屋に脱ぎ
散らかされた服の意味をよく考えてみる。あれは今朝着ていた服とよく似ている。というか多分同じものだろう。
脱ぎ散らかした、というよりは中身がそのまま抜け落ちたというように見えなくもない。
 つまり、俺の推理はこうだ。「薬の効果が強すぎたせいで、姉貴の身長は極端に縮んでしまった」これなら納
得がいく。きっと姉貴は俺が行った時点でまだ部屋にいたのだろう。しかし小さすぎて俺の視界では確認する
ことができず、そのままスルーしてしまった。ひょっとしたら探し回るうちに踏みつけてしまったかもしれない、
などと足の裏を覗いてみるが幸いなことに何も付着してはいなかった。よかったよかった、あとは部屋に行って
必死で地べたを這いつくばる姉貴を救出してやるだけだ……って、待て待て待て。落ち着け、俺。いくらなんでも
発想が飛びすぎだろう。この世には質量保存に法則というものがあってだな……。
 窓から吹き込む風が、部屋のドアを静かに揺らす。気付けば外はすっかり夕焼けに染まっていた。
 ゆっくりと目を閉じ、深呼吸をする。そして朝のときと同じく、考えにふけることで平常心を取り戻そうとする。
とにかく姉貴の身にただならぬ事態が生じていることは、薬の量から言って間違いない。それがいったいどのような
状態なのか。それをじっくりと解明してみようじゃないか。
 姉貴の身長はだいたいこの部屋のドアと同じくらいだ。築数十年の木造一戸建て。俺が生まれた頃に中古
で買ったというこの家のドアは、どう考えても低すぎる。百八十センチあるかどうかだ。そんな百八十センチあ
るかどうかの姉貴のイメージを頭に浮かべ、そしてゆっくりと目を開ける。目の前には姉貴が輪郭だけで立っ
ている。そう、俺の知っている姉貴はこんな感じだった。徐々に実体を伴いながら姉貴(イメージ)は部屋の
入り口からゆっくりとこちらへと歩み寄ってくる。そして俺を一瞥したかと思うと机へと向かい、俺の財布へと
手をかけて……いやいや。何だかイメージがおかしな方向に――じゃなくて。 
 限りなく透明に近い肌色の手首を掴みあげ、イメージから実体へと認識を変えてやる。
「あれ、もう効果切れ? ざんねーん、こっそりお金返してもらおうと思ったのに」
「……いいから部屋に戻って服を着て来い。話はそれからだ」
 目のやり場に困りつつも、未だ先が透けて見える姉貴から福沢諭吉を奪い取り、俺は後方のベッド
へと身体を傾けた。

83 :時間外No.06 ハイド156 5/5 ◇NA574TSAGA:07/07/31 00:32:39 ID:ZVqwgpDJ
「――で、いつから気付いてたって? ハイド156のこと」
「もちろん最初からよ。だって今学校ですごい話題になってるもの」
 済ました顔で姉貴はそう言ってのけた。うかつだった。そもそも流行に鈍い俺でも知っているようなことを
姉貴が知らないわけがないではないか。
 ちなみに先ほどの試合はのれん王子が押さえきり、青帽子の方が準決勝進出だそうだ。聞けば案の定、姉
貴はずっとテレビの前に陣取ってのれん王子の雄姿を眺めていたそうだ――透明の姿のままで。なぜ背が縮
むのではなく、透明になったのか――その問題に対して姉貴が提示した説明はあまりにあっけなく、そしてあ
まりにくだらないものであった。
「ちょ、今なんて……」 「だーかーらー、瓶のラベルをよく見てみなって」
 言われるがままに、ハイド156の入っていた小瓶の側面を確かめてみる。ラベルには確かに「ハイド156」と
書かれていた。しかしその下をよく見ると、アルファベットで小さくこう記されていた。
「ちょっと待て。hydeじゃなくて"hide-156" って……明らかにパチモンじゃねえか!」
「駄目だよー、英語はちゃんと勉強しなきゃ。ちなみにこのhideには『隠す』って意味があってね」
 そのくらい知ってるわっ、と俺は空っぽの瓶をベッドに投げつける。もし一滴でも残っていたならこの場で飲んで消えて
しまいたいくらいの屈辱感であった。
「さすがに身体が透け始めたときにはびっくりしちゃったよ。だから仕返しにちょっと驚かせてあげようと思ったの」
「はいはい、そーですか」枕に顔を押し付けたまま適当に受け流す。
「それでね、一つ聞きたいんだけど……そもそも何でわたしにハイド156を飲ませようとしたのかな?」
「…………」受け流せずに枕から顔をはがす。
 不思議そうに言う姉貴だったが、正直言って目が全然不思議がっていなかった。チェックメイト。あれは何
もかもお見通しという目だ……間違いない。俺は諦めて全てを白状することにした。途中吹き出しそうになるのを
こらえつつも黙って話を聞いていた姉貴は、最後にこんなことを要求してきた。
「ねえ、わたしの前にちょっと立ってみてよ」
 何だよと文句を言うが、むりやりに立たされてしまう。目の前にはちょっと見上げる形で、姉の顔があるはずだった。
「相変わらず猫背なんだからっ。ちゃんと背筋伸ばして、前を見て」
「ガキじゃねーんだから、ちょ、やめろって触んな…………え?」
 手を振り切ろうとしたその瞬間、姉貴と目が合ってしまったではないか。見上げるのではなく、正面からしっかりと見据える形で。
「何でだよ……だって俺、春に測ったときは全然――」 「さーて、何ででしょう。ちなみにわたしはあれから全然伸びてないよ、身長」
 そういって部屋を出て行こうとする姉貴。待てよ逃げんな、と俺もそのあとを追って駆け出していく。
 部屋を飛び出す瞬間、我が家の低すぎるドア枠が頭頂部をそっとかすめていった。             【了】



BACK−木造二階建下宿の姉◆59gFFi0qMc  |  INDEXへ  |  NEXT−水と油◆HRyxR8eUkc