【 俺と姉貴とベッカムと 】
◆D8MoDpzBRE




2 :No.01 俺と姉貴とベッカムと 1/5 ◇D8MoDpzBRE:07/07/28 17:19:33 ID:5eKv7QSC
 俺には一つ学年が上の姉貴がいる。いや、いた。
 簡素なリビングルームの壁に飾ってある写真。両親と姉貴、そして僕が写っている。背景はぼやけていて仔
細までは把握できないが、薄く引き伸ばされた青に光の明滅が溶け込んでいる様子から、海を背に撮影され
た物だと分かる。ちょうど姉が卒業する直前、近くの海浜公園に行った際の写真だ。
 節目の日にはなるべく家族で記念撮影をするのが当家の習わしだったが、この写真を最後にウチでは記念
撮影は行われていない。だから、『姉貴』を写した写真はこれで最後だ。少なくとも俺が把握している限りでは。
 壁に掛かった写真にじっと食い入る。肩を並べて仲むつまじそうに並ぶ両親の後ろ側で、俺たちは一見じゃ
れ合っているかのように肩を組んでいる。だが注意深き観察者の目には、これが『一見』であることは明らかだ。
 写真に写っている俺の唇を見てくれ。微かに青みがかってる。メイクか何かだって? よしてくれ、俺はX=JA
PANでも何でもない。チアノーゼ、つまり酸素が足りてないってことだ。医学生の俺が言うんだから間違いない。
そう言う目で見ると、姉貴の腕が俺の喉元にしっかり食い込んでいる様子も手に取るように分かるだろう。
 最後の記念写真でチョークスリーパー。そんな素敵すぎる置き土産を残して、姉貴は遠くロンドンの地へ旅
立った。高校を卒業して間もなくのことで、目的は語学留学だ。無論そんなものは建前に決まっている。あのに
わかサッカーファンは、ベッカムに会いに行ったんだ。だから俺は、当時ベッカムがスペインリーグに所属して
いることを伏せ通した。ざまあみろ。
 姉貴に一年遅れて俺も高校を卒業し、同時に静岡医科大学医学部医学科に合格した。姉貴と違ってコツコ
ツ肌の俺は、順調に授業を消化して一年目を終えようとしていた。
 最初は半年に一通だった姉貴からの手紙も徐々に届くまでの間隔が長くなり、今年の頭になって来たのがよ
うやく三通目だ。姉貴がイギリスに旅立ってから二年近く経っていた。
 それはあまりに奇妙なハガキだった。今まで築き上げてきた家族の関係は一気に打ち崩され、いびつにその
姿を変えた。そして、ついに『姉貴』が日本に帰ってくることはなかったのである。

――春弥(はるや)へ
 ご無沙汰してます、姉の千恵です。
 ベッカムには会えないわ、テロの香りとかがするようになったわで、日本に帰ることにしました。
 一月にセンター試験を受けて、春弥の通っている静岡医科大学を目指します。苦手科目だった英語を克服
したので、多分受かると思います。春弥でも受かったくらいだしね。
 そこで、春弥に折り入って頼みがあります。私を春弥の妹にしてください。何言ってるか分からないかも知れ
ないけど、私は本気です。あんたの下で二浪扱いされるという屈辱的な立場に我慢ならないのもそうですが、
今、日本では空前の妹ブームだと聞きました。これを逃す手はありません。

3 :No.01 俺と姉貴とベッカムと 2/5 ◇D8MoDpzBRE:07/07/28 17:19:52 ID:5eKv7QSC
 帰国した時点から私は、高校生活最後の思い出にイギリスに短期留学してきた十八歳、川原千恵になります。
あんたは妹想いの医学生、川原春弥を好演してください。
 それじゃあ、よろしくね。お兄ちゃん☆
                     永遠のいもうと ☆★☆ 川原千恵 ☆★☆――

 狂ってる。人に物を頼むときの態度が全然なっていないとか言う次元の話じゃない。
 腹いせに絵ハガキのベッカムに眼鏡を描き込んだくらいでは到底治まらず、ベッド下に隠してあるエロ本の栞
代わりにしてやった。
 そんな姉貴、もとい妹も、何とか静岡医科大学に合格し、晴れて入学式の日を迎えた。
 新緑に覆われた通りは、清々しい希望に満ちあふれていた。木陰がアスファルトに織りなす陰影をひたすら
辿ると、静岡独特の勾配のない道が延々と続いて、海岸線に行き着く。この辺りを吹く風は当然のように潮気
を孕んでおり、時々磯の香りやカモメの群れを運んでくる。
 俺は静岡医科大学の正門を目指して歩いていた。入学式が終わるタイミングを見計らって、姉貴、もとい妹
を迎えに行くように言われていたのだ。そろそろ終わった頃だろうか。
 ちょうど俺が正門に着いた頃、大講堂の方から群れた人たちが正門に向かって来るのが見えた。一様にスー
ツ姿であり、容易に新入生だと識別できる。俺はしばし遠方を観察し、中から見慣れた人影を探し当てた。
「おーい、姉貴」
「あ、お兄ちゃん」
 しまった、と顔をしかめてみたがもう遅い。駆け寄ってきたその人物は、穏やかな微笑みを浮かべたまま俺の
真ん前に立ち止まった。直後、俺の右スネが何か硬い物で打ち据えられ、耐え難い痛みを発した。
「姉貴じゃねえだろ、ちゃんと言葉を選びなさい……お兄ちゃん☆」
 恐ろしい。こんな恐ろしい妹がかつて存在し得ただろうか。激痛に悶絶する俺をよそに、妹というか俺にとっ
ては悪魔としか思えないその女はケタケタ笑っていた。
「お、春弥じゃん」
 誰か来た。スラッと背の高いそのイケメンは手を俺の肩の上に置くと、早くも好奇心を抑えきれないといった
風な面持ちで、俺の目の前にいる悪魔の方を見やった。
「おい、この娘は一体何なんだよ。いきなり抜け駆けして新入生をゲットか?」
「いや、こいつは俺のあね、ね、あのね、妹なんだよ」
「川原千恵です、よろしくおねがいしまーす。お兄ちゃんがいつもお世話になってます」
「そうなんだ。俺は栗原エイジです、よろしく。分からないことがあったら何でも俺に聞いてくれ」

4 :No.01 俺と姉貴とベッカムと 3/5 ◇D8MoDpzBRE:07/07/28 17:20:08 ID:5eKv7QSC
 早速、目の前で二人が良い感じになっている。
「じゃあさエイジ、こいつのことは任せたから、学校周辺を案内してやってくれ」
 そう言って俺は二人をその場に残したまま、痛む右足を引きずりつつ現場から逃走した。
 だいぶ離れてから後ろを振り返った。エイジは楽しそうに姉貴の手を引きながら、緑色の光を散乱する並木
道の奥へと消えていった。その先には幾つか小さな講堂があり、医大付属病院に突き当たる。
 姉貴の方も満更ではないようだし、ひょっとしたらひょっとするかもと言う期待が俺の心に芽生えていた。
 あれだけイケメンのエイジが大学入学以来一人も彼女がいない、という事実は周りでも語り継がれている七
不思議の一つである。見ての通り、女に対して引っ込み思案というわけでもない。しかしエイジの奴は、俺を含
めた男連中とばかりつるんでエロ談義に花を咲かせたり、とにかくモテる男の王道を外れたがったのである。
 そう言えば以前、どうして彼女を作らないのかエイジに聞いたことがある。結構最近のことだった気もする。
その時エイジはなんて答えたんだっけ……。
 ――俺、年下の娘が好みなんだよね。同級生ってのもイマイチだし、だからといって高校生と付き合うのも間
違ってる気がするし、結局待つしかないのかな――
 思い出して軽く血の気が引いた。どう考えても、姉貴がエイジの恋愛対象外なのは間違いない。
 この嘘は墓場まで持って行かなければならない、というのはいささか大袈裟だろうけれど、少なくとも俺がミ
スって秘密が露見した場合、俺は殺されるかも知れない。

 千恵。姉貴の名前だ。学校でも家でも、とにかくどんな場面でも私のことはそう呼びなさいと命令されて、一日
五十回復唱することを義務づけられた。それでも時々思い出したかのように「姉貴」と呼んでしまってスネを蹴
り上げられる。慣れないものは慣れないのだ。千恵、千恵、可愛い妹、千恵。
 だがその日を境に姉貴、いや千恵は、妙に上機嫌でいることが多くなった。これではまるで恋に目覚めた少
女という感じがして、いよいよ面白くない。
 身の回りでも面白いことが起こった。ベッカムが来日したのだ。いや、よく見るとそれはエイジだった。ベッカム
ヘア、しかも日韓共同開催ワールドカップ当時を彷彿とさせるソフトモヒカンだ。今更かよ、という周囲の冷やや
かな視線をものともせず、エイジは恋の司令塔と化した。ベッカムが量産するのはアシストの方だが、エイジの
場合この勢いでゴールまで行ってしまうんじゃないかとすら思えた。ベッカムのフリーキックのごとく、ゴール前
に張られた年齢の壁をも鮮やかなループで越えてしまうんじゃないかと。何言ってんだ、俺。
 とにかく、千恵(どうにも言い慣れない)とエイジの交際は順調に進展しているようだった。

 新入生たちも新しい生活に溶け込み始めた五月のある日、俺とエイジと千恵は、久しぶりに三人で会うことに

5 :No.01 俺と姉貴とベッカムと 4/5 ◇D8MoDpzBRE:07/07/28 17:20:31 ID:5eKv7QSC
なっていた。恋のキューピット役を果たした俺への義理で、時々、大抵エイジのおごりでファミレスとかで飲み食
いするのだが、正直なところ居心地は悪かった。彼に対して嘘を吐いているという引け目もあったし、猫を被っ
た身内がイケメンを食い物にしていることに対する罪悪感も少なからずあった。いや、これは言い過ぎか。
「あ、お兄ちゃん。こっちこっち」
 声のする方を振り返る。姉貴とエイジは、四人席の片側に仲良く隣同士腰掛けていた。
「おう、姉貴」
「ハァ?」
「い、いや……ア、アネキセートって確かベンゾジアゼピン系薬剤に対する拮抗薬だったよな、エイジ」
「お前、よく勉強してるなあ」
 何とか誤魔化して事なきを得た。帰る頃にはまたスネに生傷が増えていることだろうけれど。
 とりあえず二人の向かいの席に腰掛けた。先着の二人はまだ何も注文していない様子だ。俺はメニューを見
もせずに和風ハンバーグとだけ言って、千恵にオーダーを頼ませた。
「そう言えば春弥、千恵ちゃんの誕生日っていつ?」
「自分で訊けよ」
「教えてくんないんだよ、恥ずかしがっちゃって」
 横目でチラッと千恵の様子をうかがってみると、ご注文を繰り返しますという店員の復唱に耳を傾けていた。
「来月の半ば、六月十二日」
「……お前、確か三月生まれだって言ってたよな。春・弥生の月に生まれたから、春弥。だがそうすると、計算
が合わないんだよ」
 体が固まった。姉貴もいつの間にかこちら側を向き直って、蒼白な顔をしていた。
「いいか、春弥。三月にお前が生まれた後、一学年下の千恵ちゃんが生まれるまで僅か三ヶ月しか経っていな
いことになる。人間の赤ちゃんは十ヶ月お腹の中にいるんだ。ちがうか?」
「い、いいところに気がついたね、エイジ。実は俺と姉貴は双子で、しかも姉貴だけがやたら早産だったんだな」
「そんなんで医学部生が騙せるか、アホ。そもそもお前の言い訳、それ以外の部分でも破綻しまくりだ」
 そう言うと、エイジは凄い勢いで立ち上がって俺の腕をつかんだ。
「千恵ちゃん、ちょっとだけ待ってて。春弥は借りていく。必ずここで待っててね」
「……うん」
 姉貴は心細そうに一言応えるのが精一杯だった。らしくねーよ、馬鹿姉貴。どうせ家に帰ったら俺を殺すんだ
ろ? ってか、その前に俺はこの男に殺されるらしいけど。アハハ。
 ファミレスの個室トイレに押し込まれた。エイジが扉に鍵をかけ、この密室には俺とエイジの二人だけが取り

6 :No.01 俺と姉貴とベッカムと 5/5 ◇D8MoDpzBRE:07/07/28 17:20:48 ID:5eKv7QSC
残された。洋式の便座が一台鎮座しているだけのこのスペースは、密室殺人にはうってつけだろう。言葉が出
てこずに、緊張感だけが凝集していく。いっそ土下座しようかとも考えたが、床が汚かったために断念した。
「知ってたんだよ、お前らの秘密のこと」
 意外な言葉がエイジの口から飛び出した。次いで、エイジはポケットからあるものを取り出した。
「ずっと前にお前からエロ本借りただろ? 確か二月くらいに。そん時に中に挟まってた絵ハガキ、眼鏡のベッ
カムとでも言えば思い出してくれるかな……。だから、最初から全部知ってた」
「そうだったのか。でも、よくあんなアホな手紙を読んだ後に、あの姉貴と付き合ったり出来るな、エイジ」
「俺、ちょっと変わった娘が好きなのかも。ずっと気になってたんだ、あれ読んでから」
「年下じゃなくても良かったのか?」
「ああ、あれね。年下が好みだとか言ったのも含めて、春弥たちの芝居に乗っかってしまおうと思って」
 初めて明らかになる真相。この時ばかりは、俺は心底安堵のため息を吐いた。なあんだ、心配して損した。
そればかりか、姉貴の狂言に一々口裏を合わせたり、一日五十回「千恵」と復唱したり、スネをけがしたりとロ
クなことが無かったけれど、遂にそいういうモノからも解放されるんだ。湧いてきたのは、純粋な喜びだった。
 和気藹々というか、和やかな雰囲気で俺ら二人が戻ってきた時、姉貴はきょとんとしていた。何やら信じられ
ないモノを見ているようなそんな面持ちだったが、俺らから事の真相を聞いた途端、顔に生気が戻ってきた。
苦労した末に導き出したハッピーエンドを祝福しているようだった。終わりよければ何とやらだ。
「じゃあ、これからはエイジにも協力して貰わないとね」
 突如、姉貴が真顔で言った。全く以て意味不明だったから、思わず訊き直した。
「いやさ、これからはエイジにも、私が現役ピチピチの十八歳であるところを大いにアピールして貰いたいの。
私、すでに学年内では川原春弥先輩の妹として認知されちゃってるし、昔の友達にも口裏を合わせるようにお
願いしちゃってるし」
「千恵ちゃん、僕も協力するよ」
 エイジも情けないことを言っている。早くも男女間の主導権を握られてどうするんだ。俺は、窮屈な四人席の
一角にに座ったまま地団駄を踏んだ。結局の所、何一つ変わっちゃいない。
「じゃあな姉貴、エイジ。俺、先に帰るよ」
 手早く和風ハンバーグを平らげて、俺は席を立とうとした。今日は疲れた。脳天気な顔でエイジが俺を見送っ
ている。姉貴もにこやかな顔で――って、痛ェッ! またしてもスネをやられた。テーブル越しに、だ。
 席を離れて、こん畜生と姉貴の方を振り返った。だがすでに姉貴の関心は俺になく、そこにはただ一人の男
と楽しげに談笑する女の姿があるのみであった。思わず元の方を向き直り、一人家路につくことにした。
 まあ、幸せならばそれでいいさ。俺たちの嘘は、きっとエイジが墓場まで持って行ってくれるから。



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