【 隙のない女、誠実な男 】
◆bsoaZfzTPo




2 :隙のない女、誠実な男1/4 ◇bsoaZfzTPo:07/07/14 06:46:42 ID:kE3i+5qE
 駅前のロータリーに到着したは良いが、肝心の里美の姿が見えない。車のライトと街灯だ
けで、人の顔まで判別しろというのは無茶な話だ。車の形で判断して、向こうから寄ってくる
だけの理性が残っていれば良いのだが。
 後続のタクシーが追い抜けるように左へ寄せて、ハザードランプを点ける。とにかく着いた
と連絡を入れようと、携帯電話を取り出したところで、助手席の窓をノックされた。里美がひ
らひらと手を振っている。
 ロックを外してやると、すぐにドアが開いた。里美と一緒に、じっとりとした夏の熱気が入っ
てきた。
「ありがとうございます。二次会まで行ってたら電車なくなっちゃったし、どうしようかと思って
ました。俊夫さんが捕まって良かったですよ」
「はいはい、お礼は後で良いから、ドア閉めて。冷気が逃げる」
「はーい」
 里美がドアを閉めるのを待って、俊夫はハザードランプを消した。後ろを確認して、車を前
に出す。
「サークルのコンパだったんだろ。誰か一人くらい車出してなかったのか?」
「いましたけど、怖いじゃないですか。こんな時間に良く知らない人の車に乗るとか」
 だからと言って、元家庭教師の幼馴染を呼び出すというのはどうなのだろうかと俊夫は思
う。確かなのは、サークルの先輩よりは信用されているらしいという事だけだ。
「隙がないのは良いことだけどな。お酒とか飲まされなかったのか?」
「こちとら未成年ですよ。……なんて、本当は結構入ってるんですけど。そこはほら、隙のな
い女ですから」
 里美の声が笑っている。昔は俊夫兄ちゃんと呼ばれていたが、家庭教師を引き受けたあ
たりから言葉遣いが敬語に変わった。良く笑うところは、少しも変わっていない。
「本当に隙のない女は電車なくなる前に帰ってくるもんだけどね。俺が捕まらなかったらその
良く知らない人の車に乗るしかなかったんだろ」
「いやあ、その時は最終手段でタクシー乗りますよ。家についてから親に頭下げるしかない
でしょう」
 親に頭を下げるよりは俊夫に頭を下げた方が良いと思ったということだろうか。単純にタク
シー代がもったいなかったという可能性もあるけれど。里美の家まで車でおよそ三十分、深
夜料金であることを考えると、下手をすれば万札がとんでいくだろう。

3 :No.01隙のない女、誠実な男2/4 ◇bsoaZfzTPo:07/07/14 06:48:16 ID:kE3i+5qE
「あ、そういえば俊夫さん、お礼何が良いですか、お礼。バイト代入ったからご飯くらいなら
奢れますよ」
「お礼ねえ」
 俊夫は信号が黄色に点滅している交差点を抜けながら考える。確かに日付は変わってし
まっているが、この程度の時間なら寝ていることの方が少ない。実際のところ、俊夫のこうむ
った迷惑はガス代くらいだ。それでご飯を一食というのは、あまりに悪い。
 丁度良く現れたコンビニを示して俊夫は言った。
「あそこのコンビニでコーヒーでも奢ってくれれば良いよ」
「缶コーヒーですか。それじゃあ私の感謝の気持ちにはちょっと足りないですね。デザートも
つけちゃって良いですよ。ティラミスとか」
「おお、そりゃ豪勢だ」
 笑いながらウィンカーを出して、俊夫は車を駐車スペースに滑り込ませた。エンジンを切っ
て横を見れば、里美がシートベルトを外そうとしている。
「酔っ払った未成年連れて入れないっての。欲しい物言えば買ってくるから」
「むう、仕方ないですね。じゃあえっと、グレープフルーツジュースと、あったらで良いんでま
るごとバナナをお願いします」
 言葉と共に、里美は千円札を突き出してきた。
 お金を受け取りながら、甘いものと一緒に飲んだら苦くないかとたずねると、それが良いん
ですと良く分からない答えが返ってきた。
 酔っ払いの理論は分からないが、それに逆らう無意味さは分かっていた。俊夫はそんなも
んかと生返事をして、コンビニの自動ドアをくぐった。

 まるごとバナナがおいていなかったので、結局カップアイスを二つにグレープフルーツジ
ュースとコーヒーを買った。
 俊夫がコンビニ袋を提げて戻ってくると、自称隙のない女里美は、すーすーと寝息を立てて
いた。そんなに待たせたつもりはないから、結構アルコールが入っているという自己申告は
本当のことだったのだろう。
 里美自身も眠るつもりはなかったのか、シートは倒されていない。体勢が少し崩れてい
て、車を動かしたらすぐにでも運転席に倒れてきそうだ。

4 :No.01隙のない女、誠実な男3/4 ◇bsoaZfzTPo:07/07/14 06:48:50 ID:kE3i+5qE
 放っておけばうたた寝から復活するだろうかとコーヒーを飲みながら待ってみたが、まった
く起きる気配がない。
 俊夫はひとつため息をついて、助手席へ身を乗り出した。車を出すにしても、このままでは
危ない。シートを倒して、里美の体を安定させてやらねばならなかった。
 左手で体を支えて、右手をシートレバーに伸ばす。里美の体に触らないように注意すると、
どうしても窮屈な格好になってしまう。随分と苦労して、ようやくシートを倒してから、外に出
て助手席側に回れば良かったのだと気がついた。
 間近で香ってきた里美の匂いが、鼻に残っている。昔はこんな匂いはしなかったはずなの
に、いつの間にかすっかり女の匂いがしている。香水でもつけているのかもしれない。
 しかし、まったく、隙がないとは大きな嘘をついてくれたものだ。だらしなく半開きになった
口も、冷房が切れたせいで暑かったのか、俊夫が出て行くときよりも少しはだけた胸元も、
これでもかというくらいに隙だらけだ。
 もしもこのまま、部屋の前まで車で行けるラブホテルにでも連れ込んだら、里美はどんな
反応をするのだろうか。
 俊夫は自分の額をばしりと打った。何を阿呆なことを。里美は四つも年下だ。最近は呼ば
れなくなったと言っても、ずっとお兄ちゃんと言って俊夫を慕ってきた妹分だ。
 外の空気を吸おう。全部あの甘い香りが悪いのだ。
 俊夫は車から出ると、梅雨時の湿った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「うひゃうっ」
 里美の首筋にカップアイスを押し付けてやると、予想以上に面白い声を出して飛び起き
た。反射的に首を触った里美は、手にべったりとついた水滴に驚いているようだった。
「着いたぞ」
 俊夫が声をかけてやると、里美はぼんやりとした表情のまま見返してきた。上手く状況を
思い出せていないように見えたので、もう一度ゆっくり言ってやった。
「お前の、家に、着いたぞ」
「あ、ああ、そっか。送ってもらったんでしたっけ」
「もう一回やったら目が覚めるかな」
 アイスを顔に押し付けようとすると、里美は慌てて覚めてます覚めてます、と騒ぎ出した。
「や、俊夫さん、ありがとうございました。夜分遅くに」

5 :No.01隙のない女、誠実な男4/4 ◇bsoaZfzTPo:07/07/14 06:49:32 ID:kE3i+5qE
「鍵は開いてるのか?」
「大丈夫ですよ。郵便受けから手をつっこんだら取れますから」
 そういうことをぽろっと俊夫に言ってしまうあたり、まだしっかりと目が覚めているとは言い
がたい。
「そうか、じゃあちゃんと寝るように」
「はい、本当にありがとうございます」
 里美がシートを起こして、車から出た。後ろ手にドアを閉めようとする背中に、声をかける。
「ちょっとまった、グレープフルーツジュース持っていけ。あと、まるごとバナナはなかった」
「あ、そうでした、すいません。でもまるごとバナナなかったんですか。残念ですね」
 ジュースとカップアイスの入ったコンビニ袋を渡してやると、里美は不思議そうな顔をした。
「まるごとバナナの代わりに買ったんだよ。俺の分はあるから持っていけ」
 さきほどのアイスを示すと、里美は納得したように頷いた。
「わかりました。溶ける前に食べますね。おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
 ドアが閉められる。迎えに行った時と同じようにひらひらと手を振る里美に手を振り返して、
車を出した。
 里美の家が見えなくなるまで走らせて、車を路肩に止める。
 カップアイスの蓋を開けると、予想通り中身は既にほとんどがどろどろに溶けていた。木製
のスプーンですくって、甘ったるいバニラ味を口の中にいれる。
 里美はアイスのこの惨状を見て、どう思うだろうか。あの隙だらけの妹分は、間違っても自
分のせいだとは気付かないのだろうけれど。

       <了>



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