【 伝えたいことがありすぎて、困る 】
◆X3vAxc9Yu6




73 名前:No.20 伝えたいことがありすぎて、困る 1/3 ◇X3vAxc9Yu6[] 投稿日:07/07/01(日) 23:59:00 ID:+Xl9deu1
 爺さんが死んだ。
 ふとした拍子に、なんて言葉が似合いそうな静かな死に様だった。
 いまどき老衰で亡くなられる方なんてそういませんよ、羨ましい、と運ばれた先の医師
は言ったそうだ。
 それは失言だろう、と私は思った。
 実際にその言葉を聞いた父母は、泣きながらありがたく聞いたらしいけど。

 それを発見したのは私だった。
 毎日家族の誰よりも早起きし、AMラジオでなにやら聞きながら体操を始める爺さんな
のに、誰よりも遅く起きて遅刻気味に学校へ出かける私が起きても姿が見えない。
「ふん、また遅刻か」
「うっさいな、まだ間に合うし!」
 父はいつも通りすでに出勤しているようで、母は特になにも言わない。
 爺さんの朝の皮肉が意外と好きだった私はすぐに気がついた。
「母さん、爺さんはまだ?」
「あら、そうねえ。そういえばまだ見てないわ」
 母のゆるゆるした声が、今日は妙に気にかかった。
「そっと起こしてきてくれる?」
 もちろん。
 仏間を兼ねた爺さんの寝床のふすまを、そろそろと開く。
 盛り上がった布団に向かって、声をかける。

 不気味な沈黙が、返ってきた。

74 名前:No.20 伝えたいことがありすぎて、困る 2/3 ◇X3vAxc9Yu6[] 投稿日:07/07/01(日) 23:59:15 ID:+Xl9deu1
 死んだ人のからだって、なんか雑菌が一斉に逃げていくから、危ないんだそうだ。
 本当はあんまり触っちゃいけないらしい。

 しかし私は、爺さんのからだに取りすがって、泣いた。我を忘れるとはこういうことな
んだろう、たぶん。フられたときの泣き方とは違う。私をフった男は、万が一つには私に
惚れ直す可能性があるが、死者は絶対に還らないのだ。爺さんが以前と同じように鼻を鳴
らして私を嘲笑することは、絶対にありえない。帰宅した私に笑いかけることも、焼き芋
を温めなおすことも、私の食い散らかし様に怒鳴り散らして応えることも、ない。
 私はそれまでのように自分を憐れむためでもなく、自己を守るためのジェスチャーでも
なく、初めて出会う絶望のかたちに泣くしかなかったのだ。
 母がまず呼んだのは救急車ではなく父で、父が呼んだ救急車によって、なかば意識が混
濁した私と爺さんのからだは素早く搬送された。

 目覚めた病室で一度、葬式で一度、焼き場で一度、収まった骨壷の小ささに、一度。
 私が泣き叫んだ回数だそうだ。ひたすら爺さん爺さん、爺さん爺さん、と言っていた、
と。悲痛で聞いていられなかった、と。
 正直なところ、あまり覚えていない。

 記憶がはっきりしだすのは、数日後の仏間にて、転がっていた時のことだ。
 爺さんの遺影は生前と同じに、皮肉げに笑っている。どうせなら早くに亡くなった婆さ
んと同じように、爽やかに微笑んでいるような写真はなかったのであろうか。線香の香り
を胸いっぱいに吸い込んで、これはまさか爺さんの体臭の残り香ではなかろうな、と思っ
て、笑った。
 そうしたらまた涙が出てきて。
 たまらないのでハンカチでもないかと、机をあさった。
 私は小さな封筒を見つける。遺言、と読めた。たまげた。

75 名前:No.20 伝えたいことがありすぎて、困る 3/3 ◇X3vAxc9Yu6[] 投稿日:07/07/01(日) 23:59:30 ID:+Xl9deu1
 爺さんは、なんの前ぶれもなく逝ったと思っていたが、もしかして自分では思うところ
があったのだろうか、と思った。ドキドキした。母に言おうかと思ったが、やめた。なん
となく私あてのような気がしたからである。

 そっと、机に置いてあるレターナイフをあて、慎重に刃を進めた。不器用な私にしては
きれいに切れたと思う。中身は意外と薄かった。四つ折りの紙っぺら一枚だ。なんだそ
りゃ、と思いながら、開けた。
「みな、達者で暮らせ。」とあった。やたらと達筆な字で、でかでかと。
 本当になんだそりゃ。
 くっくっくっく。
 あっはっはっはっは。

 私はもう、よく分からない。期待が外れたことに笑うのか。これも爺さんの高度な皮肉
なのだろうか。肩透かしのものを用意して、こういうときにも笑えっていうエールか。そ
れとも本心からこう書いたのか。それともこれは未完成品で、生きてる間に見つけていれ
ばなにがしかのオチが爺さんからもたらされたのかも知れない。
 いずれにしても、本心を確かめる方法はもう、ないのだ。絶対に、ない。そう思ってま
たひとしきり、泣いた。

 しばらくして父に見せ、母にも見せた。父は困惑し、母はなぜか私と同じように笑い泣
きになった。

 ところで私は最近、手紙に全く悪意を感じられないことに気付いた。
 あの、ときたま悪意丸出しの皮肉を飛ばす爺さんの書いたものから、である。
 わざわざ書き残すものがそれか、変人め、と思わなくもないが、それ以上に。
 愛されてたのかな、と、思う。




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