【 感官 】
◆p/2XEgrmcs




93 :時間外No.07 感官 1/5 ◇p/2XEgrmcs:07/06/12 13:05:22 ID:1PJnmlMP
 薄暗い真っ青な部屋に、僕はいた。調節された照明によって、この部屋は濃淡も無い青色に満たされている。
角が取れた直方体のような部屋、床は真っ黒で、壁は真っ白。部屋の隅にはバー・カウンターがある。
ものすごい額の入場料さえ払えば、このクラブの中で何をしようと、いちいち金を払う必要は無い。
先ほど頼んで受け取ったラム・コークは、とても甘い。しかし絶妙な冷たさと炭酸の加減が、喉に快い。
そしてコーラの味の隣を、ダーク・ラムの強い香りが走り抜けていく。いつも自分が使うラムとは、
香りの強さも、くせの強さも違い、不快感など欠片も無い。出来上がる間際に絞られたライムの香りも死んでいない。
僕は、キューブリックのSF作品のような、このクラブの近未来的デザインや、完璧な空調、
天井の青い照明の配列よりも、カクテルの味わいに高級な感触を覚えていた。
 ヘッドフォンからは、メロディもボーカルも無いドラムだけの曲が流れてくる。時折、高い電子音や、
男のシャウトが入る。部屋の中央では、半裸の、ドレッド・ヘアの黒人男性が、曲に合わせて踊っている。
部屋にいる十人ほどの若い客は、彼に操られるように、拙く、必死に踊っている。
 彼の筋肉には、原始の強さがあった。肉体の能力がそのまま優位を表していた時代を思わせる強さだ。
割れた腹筋、あまり太くはないがしなやかな上腕。その強靭な体が、周囲の凡夫を支配しているように見える。
 すぐ脇に扉がある。僕は近くにいたギャルソンに、この扉の向こうは何の部屋か、とヘッドフォンを
外しながら尋ねた。映像美術の鑑賞ルームだ、とギャルソンは答え、ヘッドフォンの周波数を『Dark』に
設定するように、と落ち着いた物腰で付け足してくれた。僕は礼を言いながら、
ヘッドフォンの耳当てについているダイヤルを操作した。
 ステップの音しか聴こえない事に気付き、僕はこの部屋の静寂に驚かされた。
 この部屋は水中のようだ。僕のように止まっている生き物は、静寂を破らないよう呼吸している。
動くものは、そうしていなければ死んでしまうように、肉体をぎりぎりまで強く動かしている。
 ヘッドフォンを耳につけると、曲がフェードアウトしていく最中だった。僕は隣の部屋へ移った。
 ここまでいくつかの部屋を通ってきたが、部屋の形や壁の配色は全く変わらない――ただ違うのは照明だ。
一つの部屋には、一色の照明しか無い。そして部屋ごとに、客を楽しませる様々なものがある。
オレンジ色のレストラン、赤いショットバー、今まで僕がいた、青いダンスフロアのように。
その部屋ごとに、ムードを殺さない音楽が流れ、ヘッドフォンはそれをキャッチし、客の耳元に届けてくれる。
つまり全ての部屋自体には常に人が発する音しか無く、隣接する部屋同士は、音楽が入り混じることによる混沌を知らなかった。

94 :時間外No.07 感官 2/5 ◇p/2XEgrmcs:07/06/12 13:05:38 ID:1PJnmlMP
 鑑賞ルームの照明には色が無く、ただ薄暗い。部屋の端にある大きな液晶画面が、造られた闇を湛えている。
何も映し出さない真っ黒な画面は、天然の闇を真似できない。画面そのものが、いやに大きい。コマーシャルで
見るような大画面のモニターより、一回りも二回りも大きい。ヘッドフォンからは、造られた闇と同じように、
造られた沈黙が流れてくる。これから映像を流すための暗転であろうが、それは完全な沈黙、完全な暗黒を
造ることができず、僕の意識に引っかかる。
 上質の椅子が、シアターのように規則を持って並んでいる。シアターとの違いは、椅子の間にスペースがあることだ。
僕は最後列の真ん中に座る。この部屋には、僕の他に二人の客しかいない。ラム・コークを一口だけ飲み、
グラスを席のホルダーに置いた。唾液の表面を、甘く、ちりちりする酒が滑っていく。
 映像――アニメーションが映し出されると同時に、ヘッドフォンから音楽が流れ始める。
 民族音楽を思わせる曲と、荒野を走る鳥が、ぴったりと噛み合っている。鳥はとても面白い見てくれをしていた。
縫い合わされた布と、木で作られた人形のような鳥。翼は痩せていて、恐らく飛べないのだろう。
細い足で懸命に、昼間を、黄昏を走りぬけていく。木で出来た嘴は、それを縛っている紐が緩まり、
だらしなく開いていく。鳥は自ら紐を引っ張り、嘴を閉じる。夕暮れの中、鳥は、しゃれこうべの群れを横切っていく。
真ん丸いしゃれこうべの一つが、頭上に、鮮やかに光るハートを浮かび上がらせている。
鳥は、嘴で懸命にそれを抜き取り、飲み込んだ。途端、音楽は高まり始め、鳥の小さな目に活力が宿る。
光るハートを飲み込んだことで輝く翼を得た鳥は、夜空を光で切り裂きながら飛翔する。地中から、
しゃれこうべが大勢現れ、転がり、飛び回り始める。次第に、鳥は、光のかたまりになっていった。
ボルテージを上げる音楽と、奔放に色を生み出していく映像が、僕の首筋や背中をいちいちくすぐった。
 男の叫び声が聞こえた。映像の美しさを妨げるものであったから、僕はそれが映像の外の現象だと気付いた。
思わずヘッドフォンを外し、周りを見回す。扉が開け放されていて、その近くで厳つい男がわめいている。
半袖から覗く腕には、刺青のような青い模様が手首の上まで彫り込まれている。薄暗いこの部屋では、紋様までは分からない。
彼の叫びは、言葉ではなかった。ひどく酔っ払っているように、ふらつきながら、意味を成さない音を
口から出しているようだった。危害を加えられるのではないかと恐ろしい。客が一人、部屋から出て行った。
 彼がいた部屋から黒服の男が飛び出してきた。向こうの部屋からは緑色の光が差し込んだ。
黒服は、刺青の男を警棒で殴り倒した、薄暗い部屋でも色が分かるほど、警棒は黒かった。
動かなくなった刺青の男が、ずるずると引きずられていく。狩人と獲物のようだ。僕は叫びや暴力に緊張して、
口の中を乾かせてしまった。ラム・コークを一息に飲み干すと、冷たさや炭酸の清涼感よりも、
甘味が頬の内側に張り付く不快感が先立つ。頬の肉のひだが、べたべたと引っ付きあい、気色が悪い。
 「ひどいラリ公だったわね」
 僕の前にいた客が、席に座ったままこちらを振り向いている。初めて、その客が女だと気付いた。

95 :時間外No.07 感官 3/5 ◇p/2XEgrmcs:07/06/12 13:05:59 ID:1PJnmlMP
身を捻ってこちらを向いているその女は、とても美しかった。目は大きいとは言えないが、ぱちりと開かれ、
人工物の雰囲気がしない睫毛をしていた。鼻は細く形がいい。やや薄い唇は、きらめく桃色をしている。
顔のどの部位にもボリュームがあるわけでは無いのに、巧みな化粧で、肉厚な色香を醸している。
女は立ち上がり、僕に近づいてきた。見た事も無いほど華美な装飾がされたシャツとジーンズを着ている。
片手に小さなポーチを持っているが、それには強く輝くダイヤのような石がいくつも付けられている。
 「あの扉の向こうは、イリーガル・ハイを楽しむ部屋なの。バカが何も考えないでキメたんでしょう。
きっと、あいつチンピラよ。やくざな商売で小金つかんで、このクラブに来て浮かれちゃったのね」
 女の体からは、鼻腔が冷たくなる、ミントのような香りがした。しかし、どんな街に行ってもいるような、
没個性的な髪型の若者――整髪料で長髪を盛り上げたような男、人口の汚らしい巻き髪をぶら下げた女――、
奴らが振りまいている、頭が痛くなるほど嫌味に鼻を通る、あの下賎な臭いとは全く違う。
もっとさりげなく、はっきりと記憶に残される香りだ。確かな胸のふくらみと、柔らかさを残した腰、
万力をこめて捻れば崩れてしまいそうな首。彼女への欲情が、ラムの酔いに助けられている。
 「さっき出て行った女も小物よね。ラリったヤツが暴れてるからって、ここの黒服が守ってくれるのにさ。
わざわざ、出る必要なんて無いのよ。まあ私も、アニメには集中できなくなってたけど」
 映像のことを思い出し、画面を見た。何がどう変化したのか、光の像が、荒野に高々と浮かび上がっている。
 「あなた、まだ若いのね。……よかったら付き合ってよ。ベッドのある所まで」
 僕は、べたべたする口の中のことばかり気になって、女の誘いに対して真剣になれないまま返事をする。
 「そこに、何か飲み物は置いてる?」
 「ウィルキンソンのジンジャーエール、烏龍茶とオレンジジュース、それとミネラルウォーターね」
 「それなら、行こう」
 僕の言った事がよほど可笑しかったのか、彼女は声を上げて笑った。ヘッドフォンから漏れてくる音楽が、
彼女の高い笑い声で掻き消されている。僕は笑い声よりも、話に出たミネラルウォーターの銘柄を気にしている。
女はポーチから、平べったい円柱状の缶を取り出した。それは何かのクリームのようだった。
蓋を開け、透明なそれを指で掬い取り、素早く僕の鼻下に塗りつけた。その臭いを嗅ぎ取る前に、
ミントの香りが強まった。女が口づけをしてきたのだ。
 彼女の舌が僕の歯を丁寧に舐める。僕は満足に応えられず、息を殺して、舌の力を抜き、されるがままになった。
女は僕の弛緩を見逃さず、手を僕の両肩に置き、未だ座ったままの僕を席に押し付け、唇を僕に向けて強く落としてくる。
目をつぶると、頭が重たくなるのを感じた。頭痛のような不快感ではなく、酩酊のような浮遊感が全身に広がる。
次第に女の舌の動きは、柔らかさを増し、僕は口の中だけでなく、全身を舐め回される心地がしてくる。
 この浮遊感は酒による酩酊ではないと言い切られるようになったのは、彼女が唇を離してからだった。

96 :時間外No.07 感官 4/5 ◇p/2XEgrmcs:07/06/12 13:06:17 ID:1PJnmlMP
 「何を塗った?」
 「万人受けするのよ、これ。誰でも似たように、いい気持ちになれるの」
 女は自分の鼻下にもクリームを塗り、ヘッドフォンの電源を切り、僕の腕を取って鑑賞ルームを出た。
僕も歩きながら、女に倣ってヘッドフォンを停止させる。彼女と僕の足音しか聞こえなくなる。
 先ほど通った、赤いショットバーを横切る。照明の色合いが前よりも強く、鮮やかに見える。
オレンジ色のレストランも、紫のシガーバーも、先ほど見たよりも明らかに美しく、僕は神経の昂奮をやっと自覚した。
感覚が、世界全体と密接になっている気がする。自分が今まで、おっかなびっくり生きていたように思うほど、
僕は素直に五感を働かせ、自分が感じるものを、考えもせずに直接理解している。
 「すごいよ。こういうのを、アッパーっていうのか?」
 「違うわよ、完全植物由来よ、このクリーム。ダウナーよ。アッパーだったら、まともに喋ってらんないわ」
 女の語気は先ほどより数段無遠慮で、朗らかだった。彼女もまた昂奮しているのだと思った。
女は、僕が開けたことの無い扉を開けた。その向こうは、エレベーターが二つある、小さな部屋だった。
僕らの前に二組の男女がいて、机に向かい、何かを書きつけている。
 女は双子だった。クラブに入り、初回利用者として説明を受けている時、連れ立って歩いていくのを、僕は見ていた。
双子の片割れは、不健康に痩せた男に、いように体を弄られている。群青色のドレスが、男の手で隆起している。
彼の手は風のように早く、柔らかに彼女の体を這い回る。男も女も、表情をぴくりとも動かさない。
しかしよく見ると、二人の整った顔立ちが、情欲の波に耐えているのが分かる。彼らの頬は上気していた。
 双子のもう片方は、溌溂と太った男を連れている。痩せた男は、今、初めて目にしたが、太った男には見覚えがあった。
彼は確か、ショットバーで酒を呷っていた。明るい茶色のソフトモヒカンと、値の張りそうなネックレスが印象的だった。
太った男は、股間を愛撫されている。女の細長い指の奥で、高級そうなスラックスが盛り上がっている。
目の前で、あまりに明るく、あまりに当然に繰り広げられるそれらを見ても、僕は全く欲情できない。
 双子と二人の男は、机の奥にいるギャルソンから鍵を受け取り、エレベーターに吸い込まれていった。
その間、痩せた男は自分の相手を撫で回していたし、太った男は相手に性器を握られたまま歩いていた。
 「あの双子、する時も一緒なのよ。話したこと無いけど、いい女よ。女の私が言うんだから間違いないわ」
 確かに、揃いのドレスを着た彼女たちには、身なりや振る舞いから生まれる魅力があった。
 女は慣れた様子で鍵を受け取り、僕たちは別のエレベーターに閉じ込められる。大した圧力も感じないまま、
エレベーターは下に動き出した。今までいた階は、いわゆる地下一階ほどのところにあったが、このクラブは
どこまで広いのだろうと感心してしまう。


97 :時間外No.07 感官 5/5 ◇p/2XEgrmcs:07/06/12 13:06:32 ID:1PJnmlMP
 エレベーターが開き、廊下へと歩き出すと、女は、私の身の上は聞かないで、と先に断り、僕の事を尋ね始めた。
 「明るいところで見ると、本当に若いわ。学生みたい」 「学生だよ」
 「本当? よくここに入るお金があったわね」 「博打のアブク銭さ。最高の贅沢っていうのをしてみたくなったんだ」
 「堕落した学生なのね。何を専攻してるの? その分野の学者、信用しないことにするわ」 「哲学をね」
 「ああ、はなっから信用してないわ、哲学者は。あんなに人生を見つめられる人種、尊敬はするけど信用は出来ないわ」
 女はそれから、僕の好物や、家族のこと、恋人や友人のことを少しも間を置かず、次から次へと質問してきた。
僕は何も考えず、心を許した幼児のように、嘘を交えず答え続けた。
 僕は彼女の名前も知らないのに。彼女は迂闊にも、僕の名前を聞いていないのに、こんなにも互いに心を許している。
それは同じものに酔い、腕を絡ませているせいだった。これから交わろうとしているせいだった。
そしてそれはまやかしだった。
 廊下を通り、いくつもの扉を横切り、女が一つの扉の前で止まり、鍵を差し込んだ。僕は、この関係が、
酒の酔いとトリップと、高貴な遊びをしている自覚とで成り立った不健全なものだと自覚していた。
 「あばずれだと……君のことをそう思っているけど、僕は君を抱いていいのか」
 「どうでもいいわよ。あのクリーム塗ってから、あなたとしたくて堪らないの。黒服の警棒に魅入ってた、
暴力に怯えながらも惹かれてたあなたが、今も可愛くって仕方ないの」
 僕は本当にものを考えられなくなっている。意識の表に浮かび上がってくるだけ強ければ。思いは、行ないに変わった。
今度は僕から口づけをした。今までにそんなことをした経験がないために、僕は乱暴で、下手くそだった。
女は技巧的にそれに応えた後、あしらうように唇を離した。僕はそれだけで寂しくなってくる。泣きたくなってくる。
 部屋に入り、冷蔵庫から瓶入りの烏龍茶を取り出し、キャップを捻り、そのまま全て飲み干す。
苦味と冷たさが、舌をどのような信号で貫いたかがはっきり分かる。やはりクリームによって、僕の神経は昂ぶっている。
女はベッドの上で、もう裸になっていて、肌の柔らかな白さがとても官能的だった。
 「贅沢して、何がしたかったの?」
 女は微笑んで僕に尋ねた。
 「世界にある全てのものを感じてみたい。感じなければ、人間はものごとを征服できない」
 僕は自分の生きる目的を、端的に話した。彼女は満足そうに笑い、
 「じゃあ私を感じなさいよ」
 と言った。
 僕は童貞を捨てることが出来たが、体を動かすと酔いが悪く回り、したたかに吐いてしまった。
吐いた物が彼女の服にかかった。激昂した彼女はポーチから銃を取り出し、初弾によって僕は即死した。
-了-



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