【 境界線 】
◆YaXMiQltls




2 :No.01 境界線 1/4 ◇YaXMiQltls:07/06/02 13:43:09 ID:g9Ku8zyN
 気がつけば、外は明るくなってきていた。パソコンのモニターの時計は五時を示している。デジタル時
計の五時の表記は、三時にも四時にも持っていない力を持っていた。つまり私に、そろそろ眠らなければ
ならない、と諭させる力だ。それはかつて、三時や四時が持っていた力だった。高校生の頃にはもっと早
かっただろうし、その前はさらに早かっただろう。けれど、ともかく今の私にその力を発揮するのは五時
なのだ。すでにテレビからは「おはようございます」と声をかけられていた。
 私はパソコンとテレビと電気を消してベッドに入る。それから携帯電話のアラーム機能を時間差で三回
鳴るようにセットする。なぜ三回かといえば、私の持っている携帯のアラーム機能の、一度に設定するこ
とのできる最大限の回数だからだ。
 目を閉じると、近くの国道を走る車の音や電車の音が聞こえてくる。多分その半数はすでに明日を迎え
た人々なのだろう。あるいはもっと多いのかもしれない。新聞配達の人たちや電車の運転手さん、朝のニ
ュース番組のキャスターの人たちとその番組のスタッフの人たち。もう明日を働いている人たちは大勢い
る。彼らの労働は、今日を終えて眠ろうとする私には騒がしいほどであるけれど、いつのまにか私は眠っ
て、起きたときは正午をすぎていた。携帯電話のアラームは、もう何時間も前に鳴っていたはずなのだが。
 目が覚めた私は真っ先に時計を確認する。それから、ああ今日も午前中に起きれなかった、と後悔する
よりも先に、「笑っていいとも」の前半を見逃したことに後悔し、急いでテレビとパソコンの電源をつける。
チャンネルをフジテレビにあわせても、そこにタモリの姿はない。今日は土曜日か……あれ昨日もいいと
もやってなくなかった?……日曜日か。と気がついてがっかりしたのもつかの間、私は慌てて携帯を手に
取った。浩司からの着信が三件。今日は浩司と十時に待ち合わせをしていた。
とたんに自分の情けなさに苛立って意味もなく叫ぶ。

 五年目の大学は虚しい。友人たちは卒業するなり進学するなり、順調に人生を歩んでいて、私は一人取
り残された気分だった。週一の授業以外、私の生活には何の予定もない。本当ならば、就活をしなければ
ならないのだけれども、単位が足りず留年が分かったとき、就職先の会社に電話して理由を説明して謝っ
た、プライドも羞恥心もすべて捨てることを要されたあのみじめな感情が未だに離れずにいて、私は就職
活動をしていない。
 追い討ちをかけるように、浩司は「仕事で忙しい」と理由をつけては私に会ってくれない。なのに、会
いたくてしょうがなくて浩司の家に押しかけていったくせに、浩司の会社の愚痴にむかついてキレて帰っ
てしまったことがもう数回ある。
 環境さえ整えば、人間は簡単に腐っていく。私は私の情緒不安定さを実感している。けれど、自覚して

3 :No.01 境界線 2/4 ◇YaXMiQltls:07/06/02 13:43:26 ID:g9Ku8zyN
いるだけマシなのだと思う。自覚しているか、していないか。それがある境界を形作っているのだと思う
のだけれども、私は専門家ではないので確信はない。そのことが時折私を不安にさせる。不安はしばしば
私に涙を流させ、しばしば絶叫を求める。たまに些細な破壊衝動が起こって、けれど壁に投げつけて壊れ
た目覚まし時計を買い直すほどの実行力さえ私には無い。だから起きられないのだ、だから部屋を片付け
る時間もないのだ、だから……と言い訳を続けるためかもしれない。――自覚しているだけマシだと願い
たい。

 期待を確信に変えるために、私は泣き続けていてはならない。まずは浩司に連絡を取らなければ。けれ
どなんて言おう。……あ、雨の音がする……結構降ってそう……今日も洗濯物干せなかったな……携帯電
話を開いたまま何十分も経ったころ、とっくに消えていたディスプレイが光った。浩司からの着信。
「もしもし。どうしたの?」
「……ごめん。ほんとごめん」
「いいよ。寝てた?」
「うん、今起きた。正直なんて言い訳しようか考えてた」
 ぶっちゃけるしかない私に浩司は笑ってくれる。ありがたい、本当に。
「どうする?出てくる?」
「うん、行く。せっかく浩司休みだし、ちゃんと謝りたいし」
「じゃあセンター街のHMVにいるから、着いたら連絡して」
 浩司はやさしい。そして私は浩司の優しさに甘えている。そんなことはわかっているけれど、そのこと
に浩司が気づいてくれないことに、だんだんと私は苛立ってくる。それを押さえることが今の私にできる
精一杯。
「わかった。三十分くらいでつくと思う。じゃあまた後で」
 タンスの中は空っぽで、洗濯かごから汚れていないシャツを選んで臭いを嗅ぎわけて着替えて出かける。
そしてホームにやってきた電車の窓に映った自分の姿があまりにもみすぼらしいことに気づく。二週間ぶ
りに浩司に会うんだよ、私。何でこんなしわくちゃなシャツ着てるの、ねえ?
 電車の扉が開くより早く私は改札を通り抜けて、雨の中を全速力で走って家について鍵を取り出してド
アを開けてドアを閉めて鍵をかけて布団にもぐりこむ。靴を履いたままなことに気づいたら、涙が出てき
た。けれどどうすることもできない。靴を脱げばいいだけなのだ。けれどそれができない。それに気づい
てしまったら涙はもうとまらない。

4 :No.01 境界線 3/4 ◇YaXMiQltls:07/06/02 13:43:43 ID:g9Ku8zyN
 時々、私は私がわからなくなる。というより「私は私がわからなくなっている」ことに気づく瞬間があ
る。そうなるともう駄目なのだ。その瞬間は本当にホームにやってくる電車のように、唐突に、定期的に
やってくる。
 気がつくと夜だった。シーツと服が湿っている。それが涙なのか、汗なのか、雨なのか、私には分から
ない。けれど服くらいは着替えなければ。電気もつけるのもめんどくさく、暗闇の中で洗濯かごに脱いだ
服を入れてから、着るものがないことに気づく。私は裸のままセブンスターに火をつけて、灰を床に落と
す。
 携帯電話に浩司からの着信履歴があった。浩司あいたいよ浩司。十三回目の発信音のあと、電話に出た
浩司の声は寝ぼけていて、
「ふざけんな!」
 と叫んで電話を切った。ディスプレイに映ったデジタル時計はAM2:14。あの瞬間が来た。もう私は本
当に駄目かもしれない。携帯を壁に叩きつけて、たちずさむ。叫ぶ気にも泣く気にもならなくて、ただた
ちずさむ。

「何してんだよ、電話にも出ないで」
 声をかけられるまで、浩司が合鍵を使って入ってきたことに気づかなかった。
「マジ何やってんだよ。真っ暗な中で裸で突っ立って。ほら服着て」
 浩司は部屋の電気をつけて、タンスに向かう。空っぽのタンスを見て浩司は何も言わない。その辺に散
らばっている洋服を適当に拾って私に渡す。それから残りの洋服をたたみはじめる。
「それ全部洗ってない。たたんでも意味ないよ」
「じゃあ洗濯かごに入れるよ。ともかく片付けないと」
 けれど洗濯かごはもう溢れている。浩司は洗濯かごに入っている洋服を洗濯機に入れようとして、洗濯
機のフタを開けると、ため息をついた。洗濯機の中にも洗濯物が詰まっているのに呆れたんだ。
 とたんに、すべての感情が怒りに変わる。そして私は、
「遅いよ! 何でもっと早く来てくれないの?」
 ブチ切れる。
「普通さ、彼女が待ち合わせに来なくて、電話にも出なかったら、家来るでしょ? 家来て、私をやさし
く抱いてくれるとかさ、なんでできないの?
 今日二回も私約束ブッチしたんだよ。それをなんで電話で済ませたの? 電話に出なかったら、心配と

5 :No.01 境界線 4/4 ◇YaXMiQltls:07/06/02 13:43:58 ID:g9Ku8zyN
かするでしょ? もしかしたら途中で事故にあって死んじゃったんじゃないかとか考えて、いてもたって
もいられなくなって、私んとこダッシュで来てくれるとかなんでしてくれないわけ?
 浩司は私が死んでても構わないの? そう思ってなくても、そう思われても仕方ないことしたよね? 
つまりさ、浩司は私のことなんてどうでもいいんだよ。もう好きでもなんでもないんだよ」
 そう言い切っても収まらない荒げた息を吐きながら、私は浩司をにらんだ。

「ごめんな、気づいてやれなくて」
 浩司が私を抱いてくれる。そのまま頭を撫でてくれる。私はそれだけで浩司を許すことができる。
「わたしこそ、ごめんね」
 私が浩司の体をきつく抱きしめると、浩司ももっと強い力で私を抱いてくれる。
 
 現実は残酷だ。私を一瞥すると、無言で浩司は台所のシンクの上に合鍵を置いて出て行った。ドアが閉
まる音がして、浩司の足音が消えていく。静寂が訪れる。……まだ電車も走りだしていないんだ……一体
浩司はどうやってここまできたんだろう……どうでもいい。
 静寂。
 まだ引き返せるかな。
 静寂。
 もう無理かな。
 静寂。
 遠くから始発の電車の音が聞える。もうすぐ朝日がこの部屋を照らすだろう。私は一人今日に取り残さ
れて、闇と一緒に消えてしまうのも悪くないのに。






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