【 番猫 】
◆sjPepK8Mso




93 名前: 運転士(大阪府) 投稿日:2007/04/21(土) 09:56:01.81 ID:bwr6S7AI0
 黒猫がいる。多分メスだ。ついてないから。
 公園のねじくれた柵の向こう側、「入らないで下さい」と書かれた看板の少し向こう側にちょこんと座っている。
 微動だにしない。まるでぬいぐるみのように動かないで、パッと見息だってしてないように見えて少しだけ気持ち悪い。
 あんな所で何をしているのだろうと思って指を出して舌を鳴らしても、錦の方をちらりとも見ようとしない。
 ただ銅像か何かのようにそこに突っ立って、はるか遠くを見るような目でそこにいる。
 まるで何かの番人の様で、見ようによっては少しかっこいいかもしれないと思う。
 人ではないのだから、番猫か。しかしそれではあまりにもゴロが悪すぎて良くないのではないだろうか。自分の貧困な脳に嫌気が差す。
 こんな猫昨日までいなかったと思うし、一体どこから来たのだか気になる。
 よくよく見てみると、猫の毛は長い間手入れなんかされていないように見えるし、かなり痩せているようにも見える。
 今にも風に吹き飛んでしまいそうな程軽そうで、多分野良なのだろうなと錦は当たりをつける。
 朝日が木々の葉を突き抜けて降りかかって、朝露に濡れる雑草がきらめいた。
 錦は空を見上げてから、今更ながらに朝なんだなあと実感し、今日の仕事が無い事を思い出してやるせない気分になる。
 仕事が無いからこそだ。
 一晩中飲んで、それでも飲み足りないしつまみも無いしで重い腰を持ち上げてコンビニへ行ってきた。
 まだまだ飲む気でワンカップを何本も買ってきて、魚肉ソーセージもたっぷりある。
 昼間から飲むなんて贅沢は仕事が無いから出来ることであって、今日を一生懸命に生きるサラリーマンの諸君にはこのような事は出来ないのだと、思うことにする。
 つまり自分は一生懸命でないのだ。かっこわるい、と思ってマイナス思考に走る前に中断。
「そーだいいもんやろうそうしよう」
 咥えっ放しだったシケモクをその辺に捨てて、コンビニのビニール袋の中を漁る。
 その間も黒猫は一瞬だって錦を見ようともしないで、ただひたすら銅像のように立ち続ける。
 袋の中から魚肉ソーセージのパッケージを一つ取り出して、一本を咥えて一本を猫の前に差し出してやる。
「ほれ、うまいぞ。お前も好きだろうが」
 しかし猫はソーセージの方を見向きもしない。食べ物のにおいぐらいわかるだろうに、食べようという気を見せもしないで突っ立ったまま。
「毒なんか入っちゃいねえよ、現に俺が食ってるじゃねえか。食え、食わんともったいないだろうが」
 錦がソーセージを一本食べ終わるまで待っても、やはり毛ほども興味を持とうとはしない。
 電線の上でチュンチュンとスズメがさえずる。
 一分余りが過ぎて、錦が「何故スズメは電線の上にいても感電しないか」を考え始めた辺りで
「あれ、ニッシー朝っぱらからこんな所で何してんのよ」
 不意に声が掛かる。
 あまり聞きたくない声だと錦は思う。

94 名前: 運転士(大阪府) 投稿日:2007/04/21(土) 09:56:29.05 ID:bwr6S7AI0
 錦はフリーターで、その上品行方正に少しばかり問題がある。上司と喧嘩して首を切られることなんてしょっちゅうだ。
 仕事を失くす度に錦はその声にお小言と愚痴の中間のようなものを聞かされていて、正直な話を言えば今最も会いたくない人間の一人だ。女のクセに偉そうに。
 普段は男尊女卑を叩く側にいる錦も今ばかりは掌を返す。
「ニッシー聞こえてるよね? この前新しい仕事始めたばっかりでしょ、ニッシー。早く出勤しなくちゃ遅れちゃうよ、ニッシー」
 あんまりニッシー言うな。
 あだ名というヤツはあまりになれなれしいからあまり好きではない。隣の晩餐の中身を毎日聞きに来るのと似ていると思うのだ。
 それでも話しかけられて無視をする気になどなれないで振り返る。
「ニッシー言うな」
「仕事は?」
「やめた」
 ジャージを着ていて、腕時計の針は七時前を差していて。時間から察するにジョギングの最中と言った所だろうと思う。健康的で実によろしい。
 相手の顔色が急に曇って、またお小言の顔になる。しかし今は朝だし、彼女の方も仕事ぐらいあるだろうし、それほど面倒な事にはならないハズだ。
「なんで」
「チンピラのガキ共がうるさかったからちょっぴり〆たらてんちょーに怒られた。クビだってさ」
 彼女はあからさまに脱力した顔になる。少しばかりは失礼だとか思わないのだろうか、家族と言うわけではないのだ。友達ほどではあるかもしれないが。
「あっきれたー、ちょっとぐらい我慢しなさいよ。堪え性が無いと人生苦労するわよ」
「もう苦労してる」
 タバコを咥えて火をつける。彼女の顔を横目でうかがって使い捨てライターを四回擦った。ため息をついているのが見える。
「そうだったね。……それで何してるの? 猫にソーセージなんかあげちゃって。動物愛護に目覚めたってヤツ?」
「ただの気まぐれだよ。でもこの猫ちっとも食おうとしやがらねえしここから動こうともしねえ」
 彼女は猫を、パンダでも見るような目で穴が開くほど見つめた。黒猫なんだからもしかしたら焼けて穴が開くかもしれない。
「ふーん。ここにあるお墓と関係あるのかな」
「墓?」
 うんと頷いて、そばの草むらを掻き分けてこんもりと盛り上がった土の山を指差す。山のてっぺんにはアイスの棒が刺さっていて、「ジローのほか」と書いてある。
「近所の子が飼ってた猫の墓なんだって。お母さんが庭に埋めたら駄目って言うからってここに埋めたんだって。昨日の話だけど」
 返事もしないで、正しくは「ジローのはか」であろう「ジローのほか」を見つめる。何を思ってか人差し指で「ほ」を指して

95 名前: 運転士(大阪府) 投稿日:2007/04/21(土) 09:57:08.10 ID:bwr6S7AI0
「ここ。ぼうが一本多い」
 さっきまで微動だにしなかった猫が動いた。的確なプロセスで間違い無く錦の人差し指をロックオンして、
「あ」
 咬んだ。あまり力も入っていないだろうに、歯は意外なほどに深く指に食い込んで、赤い血がつうと流れる。
「いてえ」


 昨日は注意が足りない所為で後れをとってしまった。
 しかし収穫が無かったわけではない。あの猫は銅像でもなんでもなく、歯もあって人も咬むただの猫なのだと認識する事が出来たわけで、つまるところこの前進は後日の勝利に繋がるわけだ。
 昨日のは少しモノが安かったのかも。
 昨日見た限りによると猫には首輪も何もついていなかったが、もしかしたら名札か何かがついていたのが取れてしまっただけなのかもしれない。
 それで何かの理由で家に帰れなくなってしまって、毛皮の手入れもしてもらえずにずっとあそこにいるのだ。何かの理由ってなんだろう。
 ほんとはいい所の血統書付きのお嬢様か何かで魚肉ソーセージなんて庶民のおつまみは口になどしたくないとか何とか、そんな所だったかもしれない。
 そういうわけだから、つまりは高いキャットフードとかだともしかしたら食べてくれるかもしれない。
 なんで自分がそんな事を気にしてるのかもわからないが、とにかくそうなのだ。
 だから今日はコンビニで一番高そうなキャットフードを買った。
 何かのブランドなのだろうご大層な装飾の缶詰である。下手をすれば人の食べ物よりも立派に見える。
 マグロが入ってるとかフォアグラが入ってるとか、迷信じみた事がつらつらと書かれたキャットフードの缶と求人情報誌だけを値段も見ずにカゴにぶち込んで、レジで値段に仰天した。
 今日は最上の武器を集めているのだ。決戦だ。
 嫌なやつとは会わないように時間をずらして公園に行き、念のために注意深く周りを見回しながら「入らないで下さい」の看板の芝生まで歩く。
 今日も猫は昨日と同じ草むらの昨日と同じ場所に鎮座して遠くを見つめている。 
 猫の目の前に視界を遮るように立ちふさがって、自信満々の笑みで腕を組む。
「昨日は逃げ帰ったがな、今日の俺は一味違うぜ。何せ」
 とレジ袋から広告誌を取り出して、
「今日の俺はお仕事を探す気でいるからだ! と」
 唐突にテンションを下げて、レジ袋を探って缶を引っ張り出して今度はにんまりと笑う。
「今日こそは勝つ」
 何に勝つというのだろうか。
 全身全霊をかけた運命の人差し指が九百九十八円の缶詰のタブを引き上げて、一気にフタを引っぺがす。

96 名前: 運転士(大阪府) 投稿日:2007/04/21(土) 09:57:37.97 ID:bwr6S7AI0
 世にも恐ろしい高級猫缶がそこにはある。フォアグラとマグロのハイブリッドな味はどのような猫も屈服せしめるであろう。
「喰らえ!」
 とばかりに猫の前に猫缶を差し出して草むらに置くこと数秒。
 遠くを見る猫の目は以前変わろうとはしないが、髭が少しばかり揺れた。
 揺れたが、それだけだった。
 心のどこかでそうなのかもしれない、と思っていたが。本当にそうなった。
 猫はやはり猫缶を直接見ようともしないで、銅像のように突っ立ったまま遠い目をしている。墓の中の猫だって泣いて喜びそうなエサなのに。
 猫の足元には昨日放った魚肉ソーセージが転がったままになっていて、歯形の一つもついていない。
「食えよ。きゅうひゃくきゅうじゅうはちえんだぞ。にゃろう」
 三分待ったころにいい加減諦めろ、と言う声が聞こえた気がする。
 幻聴だ。
 それにしても猫缶がとてもおいしそうに見える。しっとりとしたその様を見ていると、唐突に腹が鳴った。
 スプーンは無いから手で摘む。畜生の食い物を味見するだけだと言い訳をしてからゆっくりと両手を合わせた。
 一口。
「ンマイ」
 以外にイケる。これでワンカップがあれば更に良かったかもしれない。
 あくまで猫のために飼ってきたものだから、半分は残してやろうと思う。九百九十八円もしたのだから、半分くらい食べたって罰は当たらない。

 
 その次の日は嵐だった。
 安アパートの窓が風邪に揺さぶられてガタガタ揺れて、今にも飛んでいってしまうのではないかと思う。
 そしてテレビの中の天気予報士が日本地図を指差して言っている。
『列島を掠める大型台風の影響で本日の関東地方の天気は随分ひどくなる見込みです。この台風は今年の台風の中でも最も大きく……』
 金が入ったら新しい家に越さなければならないな、と思いながら見上げた空はどんよりとした不安の色。
 無職の先行きは怪しいと言う事だろうか。
 つまみも酒も切れてしまったが、大雨の中出かける気なんかしなかった。
 あの猫はどうしたのかなと思う。
 もしかして嵐の中でもあそこに立っているのだろうか。いや、そんなばかな。傘が裏返るような風が吹いていたら、あんなやせっぽちすぐに飛ばされてしまう。
 気になってそわそわするが、やはり出かける気はしなかった。腰が重い。
 今日一日、目を皿にして求人広告誌を眺めていることにしよう。

98 名前: 運転士(大阪府) 投稿日:2007/04/21(土) 09:58:59.73 ID:bwr6S7AI0


 嵐が過ぎた後の朝は、何も用意をしなかった。
 エサを買っていかなければ不義理であるような気もしたが、それより先に猫の様子を確かめるのが先だと思う。
 猫が昨日一日中同じ場所にいたとしたならば、強い風と雨に吹かれて猫が怪我をしたり弱って死んでしまったり、そんなまさかが起らないとも限らないと冗談半分に思った。
 思って、アパートを出てから公園に一直線。一直線の筈なのにいつもの倍ほども時間が掛かってしまったが。
 運が悪いことに靴の紐が切れて車に引かれかかって信号の故障に巻き込まれて犬の糞を踏んだ。まさかと思ってから、もしかして冗談半分に起ったまさかが起るかもしれない、と唐突に思いつく。
 朝日に追われ、事あるごとに妙な焦りが心の内に生まれて、はじめはのんびり歩いていたのが公園前の横断歩道では駆け足になっていた。
 最近走ったり跳んだりはあまりしなかった所為で普通よりは幾分も早く心臓が悲鳴を上げたが、それでも駆け足が止まらずにとうとう公園の「入らないで下さい」の前まで来た。
 まさかだった。
 まさかは、まさか起るまいと思っているからこそのまさかだ。もう起ってしまっているのだから、もしかしたらまさかではないかもしれない。
 まるまる半分残った猫缶には昨日の嵐の水が溜まっていて、転がっていた魚肉ソーセージは「ジローのほか」に寄りかかっていて、
 猫は立ったままの姿勢をそのまま横倒しにしたようになっている。息をしているようには見えないし、遠くを見ていた目はもう開いてはいない。
 いくらやせっぽちとはいえ嵐に晒されただけで死ぬなんて、あんまりだと思う。
 なんで悲しい気持ちになっているのか、錦にはそれがわからない。
 黒猫は何でここから動かなかったのだろうと思う。ここには墓しかないのに。
 もしかしたらその墓が大切だったのかもしれない。あの猫はまるで何かの番人のようで、ちょっとだけかっこよかったから。
 もしかしたら、もしかしたら、ジローと言うヤツはあの黒猫のつがいか何かだったのだろうか。だったら、ソーセージと猫缶を食べなかったのは、
「モトカレには敵わなかったってことかね」
 何事も無かったように、今日もスズメは電線の上でさえずる。

 それから一体何日経ったかわからないが、朝の話だ。
 もう「ジローのほか」の周りにはもう誰もいない。
 守ってくれていた猫はもうそこから姿を消していて、エサをやりに来ていた人も来ない。
 しかし、「ジローのほか」の横には一つの土の山が盛り上がっていて、アイスの棒が一本刺さっている。棒の御前には半分だけの猫缶と魚肉ソーセージとほとんど燃え尽きたシケモクが置かれている。
 そして棒には字が書いてある。ふらふらした細かい字でこう書いてある。
「名も知らぬ黒猫の墓」



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