【 この空がある限り 】
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590 名前: 電話番(兵庫県) 投稿日:2007/04/16(月) 05:05:39.56 ID:9Py2ctW/0
「あたしは、隣の亭主に犯されたんだ!」
 真昼間の教会にヒステリックな女の声が響き渡る。
 ジョバンニは、こんな日に巡察が非番であることを呪い、そして、この無作法な娼婦にどうか神の天罰が下るよう祈った。
「あんたじゃ話にならないわ! 隊長を呼んできなさいよ!」
「隊長は只今ご奔命中である」
 たとえ隊長が居合わせていたとしても、かの名高きアルベルティ殿がこのような下賤の者に取り合うはずがな
いとジョバンニは思った。
 第一、教会は罪を裁くところではなく、罪の赦しを請うところである。その亭主を訴えたいのならば、町の市
政を司る市警に駆け込むべきなのだ。
 アルベルティ隊長に憧れて教会親衛隊に入ったものの、実際の仕事は町に蔓延る浮浪者たちの相手ばかりだっ
た。穢れた手で教会の門を叩く者が、どうして神に救われようか。いや、救われはしない。
「もう帰りたまえ。これ以上私の聖務を妨げるようであれば、神に仇なす者として牢に放り込むぞ」
「市警が何もしてくれないから、教会に来たっていうのに、何が神よ、何が教会親衛隊よ、偉そうにしといて
なーんの役にも立たないじゃないのさ!」
 ジョバンニの耳がピクっと動く。
 親衛隊だけならまだしも、主キリストを愚弄する発言。いくら娼婦とは言え、聞き捨てならなかった。
「教会に仇なす魔女め、今の言葉しかと……」
 ジョバンニが鞘に手をかけたその時だった。
「なんの騒ぎだ!」老熟した嗄れ声が彼の動きを止める。
 迫り来る蹄の音が、崇高なる親衛隊の帰還を告げていた。
 娼婦は畏怖のあまりか立ちすくみ、逃げる様子も無い。
 この女は、もう終わりだ。隊長直々に死の宣告をされるがいい。ジョバンニは敬礼しながら口元を緩ませた。
「はっ、出仕お疲れ様です、アルベルティ隊長。実は……」ジョバンニは事のあらましを仔細に伝えた。とりわ
け娼婦が異端発言をした事をこれでもかというくらい強調した。彼にとっては、その一点こそがこの騒ぎで最も
ウェイトを持っており、糾弾するべきことだと考えていたのである。「……というわけです」
 アルベルティはなるほどと頷き、少し考える仕草をしてからゆっくりと口を開いた。
「異端発言の旨は不問とする。これより事の真相を追究するべく、婦人の訴える亭主の元へと向かう」
 しばらくの間、アルベルティが何を言っているのかわからなかった。ジョバンニの頭の中には『亭主』という
単語はすっかり思考の隅へ追いやられていたのである。それ以前に、娼婦の異端発言を不問にされたことが、彼
の頭を混乱させていた。

591 名前: 電話番(兵庫県) 投稿日:2007/04/16(月) 05:06:03.64 ID:9Py2ctW/0
「何故ですか隊長! 私は確かに、この女が神を冒涜する言葉を吐いたのを――」
「あれれ、雑兵ごときが隊長殿に逆らってもいいのかい?」今まで立ち尽くしていた娼婦が横から口を挟む。立
場が二転して調子に乗った彼女の言葉は、ジョバンニの心を逆撫でするには十分過ぎる威力だった。
「貴様……ッ!」
「まあまあ、落ち着きたまえ」場の空気が張り詰める中、アルベルティはゆっくりとした口調で二人をなだめ
た。「全ての真相が解き明かされるまでは、罪を確定する必要は無い。婦人が真に被害者だった場合、また裁き
は違ってくるのだから」
「しかし……」ジョバンニは尚も納得がいかなかった。
「君は間違っていない。ただ、もう少し、騎士の精神を知らなければならないだろう。そうだ、亭主の家へは、
君と私で行くことにしよう」
 アルベルティの瞳を見つめると、奥底に慈悲の光が輝いて見えた。ジョバンニは、その光を信じて親衛隊に入
ったことを思い出した。

「ところで、君は教会を信じているかね」亭主――ロレンツォの家を目指す道すがら、アルベルティが尋ねた。
 ジョバンニは唐突な質問に首をひねる。一体何を言い出すのだろうか。仮にも教会親衛隊である者が、教会を
信用しないはずがない。
 どういった答え方をすればいいのか迷っていると、それを期待していたかのようにアルベルティは続けた。
「私は信じていないのだよ」
 意外な言葉だった。ジョバンニは、その理由を何度も問いたが、彼ははぐらかすばかりで、真面目に答えようとしなかった。
「一つだけヒントを教えておこう。君が私を信頼しなくならないように」ロレンツォの家に着いたとき、アルベ
ルティが口を開いた。「私は、教会を信じてはいないが、神への信仰を怠っているわけではない。主はこの空が
ある限り、我々を見守ってくださっている」
 それはつまり教会に不満があるということだろうか。親衛隊に入ってから少なからず教会に幻滅を抱いていた
ジョバンニにとって、その言葉は一種の拠りどころになりえた。
 扉をノックして出てきたのは中年の女性だった。おそらく亭主の妻だと思われた。突如親衛隊がやって来たこ
とで、酷く不安げな表情をしている。
「もしかして、あんたら、あの女の言うこと信じて来はったん?」
「と言うと、やはり、不安の種であったわけですな」
 ジョバンニは、後方で二人のやり取りを見ていた。最初は怪訝な顔をしていた女性が、アルベルティの温厚な
態度にだんだんと気持ちを和らげていく様が、容易に見て取れた。

592 名前: 電話番(兵庫県) 投稿日:2007/04/16(月) 05:06:33.61 ID:9Py2ctW/0
「ご心配なさらずに。我らはどちらかと言えば、あなた側を被害者と捉えている。奥さん、ロレンツォさんは今
ご在宅かな?」
「ええ、ちょうど中に。親衛隊様、どうか夫をお助けください」
 話は実にシンプルだった。ロレンツォが働き帰りに酒場で飲んでいると、例の娼婦が客を求めて近寄ってき
た。妻帯者であることを告げても金をせびってくる娼婦に呆れた彼が暴言を吐くと、彼女は逆切れして、ある事
無い事を周りに喚き散らかしたらしい。その後、不幸にも家が隣にあることが判明し、現在に至るまで執拗に金
を要求してくる、と。
 この手のトラブルはよくあることだが、時に被害者側の引きが甘いと付け込まれるものである。ロレンツォの
場合、家が隣り合っていたという悪運が災いしてしまった。
「女の証言は立証不可能なので、あなたが罪に問われることはありませんよ」
 アルベルティの言葉を聞いて、夫婦はホッとため息をついた。
 ジョバンニは「逆に訴えることはしないのか」と夫婦に尋ねた。しかし、彼らは「女に厳重注意してもらえ
ば、それだけでいい」と言った。
 家を出るときには、何度も感謝をされた。頭を下げられて嬉しく思ったのは初めてだった。夫婦たちの目には
涙が滲んで見えた。
 帰り道。空を見上げて、ジョバンニは様々なことを考えた。もし〜、〜たら、〜れば。考えても考えても何も
生み出すことはできなかった。『主はこの空がある限り、我々を見守ってくださっている』アルベルティが言っ
たことを思い出すと、それが一番この曖昧な気持ちを表すに相応しいと感じた。
 町中が熱狂に包まれたのは、それからほんの数日後のことだった。

 始まりは、淫魔(インプス)に唆された魔女がいる、と一人の女が町中に触れ回ったことからだ。噂は口々に広
まり、たちまち教会の聞くところとなった。
 司祭は事あるごとに教会親衛隊に魔女狩りの出動を促したが、アルベルティはその度に大げさすぎると笑い飛
ばすのみだった。
 次いで、市民の間には疑心暗鬼が生じ始め、少しの摩擦で暴動の火が点くような状態になりつつあった。いつ
隣人に魔女呼ばわりされてもおかしくない、行き詰った緊迫感の中で、導火線は着実に進んでいたのである。
「今できることは何も無いのですか?」ジョバンニも、ただ事態を静観するだけの歯がゆさから、アルベルティ
に幾度も進言した。
 しかし、返ってくる言葉はいつも「騒ぎが落ち着くまで待とう」であった。

593 名前: 電話番(兵庫県) 投稿日:2007/04/16(月) 05:07:05.26 ID:9Py2ctW/0
 アルベルティは知っていたのである。魔女が厄介なのは、魔術を使うからではなく、その存在が民衆を熱狂さ
せ、暴動を起こすからなのだと。親衛隊が魔女狩りを執り行えば、民衆のボルテージは一気に最大限へ到達す
る。そうして起こった悲劇を、彼は今までに何度も経験していた。
 一方、ジョバンニは幼い頃から魔女狩りに憧れていた。町の広場で火あぶりの刑が行われようものなら、それ
は一大イベントだった。白い法服を着て、処刑の手伝いをしたならば、そいつはしばらくヒーロー扱いされた。
いつか必ず魔女を捕まえて、喝采の中で火を放ってやる。いつか必ず、あのアルベルティ隊長のように――。彼
は今まさに夢の一歩手前にいるのであった。
 巡察からの報告があったのは昼過ぎのことだった。
 町の一角で揉め事が起こったという知らせを聞いて、アルベルティはすぐさま兵を呼び集めた。
 何もしないまま事態が沈静化することが一番であったが、火が点いてしまったのであれば仕方が無い。迅速に
火元を消し止めるべく、彼はジョバンニと共に第一陣で出発した。
 街中を駆け抜けるうちに、二人はそのルートに見覚えがあることを思い出した。目的地へ近づくにつれて、喧
騒が大きくなってくると共に、記憶は完全に取り戻された。
 ロレンツォの家の前には五十名ほどの人だかりが出来ていた。そして、今まさに扉が破られるところであっ
た。
「教会親衛隊だ! 道を開けろ!」
 怒声と同時に木製の扉はぶち破られた。勢いで何人かが家になだれ込んでいく。
 喚声が上がり、悲鳴が上がり、瞬く間に阿鼻叫喚の巷となった。
 アルベルティは、暴徒と化した民衆を必死に掻き分けて進んだ。
 なんとかして家の中に入ると、数人の男たちがロレンツォに殴る蹴るの暴行を加えていた。「もうやめて!」
部屋の隅で妻が悲痛な叫びを上げる。
「それまでだ! この家の周囲はすでに教会親衛隊が包囲した。速やかにこの場から解散しろ。さもなくば聖務
執行妨害で投獄するぞ!」
 その頃、外ではジョバンニが馬から降りもせずに、呆然と一部始終を眺めていた。
 想像とは違っていた。魔女狩りが民衆の手により行われるだなんて思いもしなかった。それも、ロレンツォは
魔女じゃない。ただの一市民だ。全てはあの娼婦が仕掛けた罠であろう。隣人が魔女かもしれない、そんな空気
の中でロレンツォの噂を流せば……、現に無知暴虐な市民たちは平気で彼をつるし上げた。
 何が正義なのか。
 誰が善で、誰が悪なのか。
 ジョバンニは、何もかもが分からなくなっていた。

594 名前: 電話番(兵庫県) 投稿日:2007/04/16(月) 05:07:35.80 ID:9Py2ctW/0

 包囲したと言っても、まだ部隊は十人足らずしか集まっていない。それでも一時的に男たちを家から追い出す
には効果がある虚言だった。アルベルティは、すぐさま二人の兵を家の入りロに配置し、安全を確認した。
「大した怪我はしてないみたいだな。援軍が来るまでの辛抱だ」
 ロレンツォは妻を抱きしめながら、なぜ自分たちがこんな目に合わなければならないのかと嘆いていた。
 そして、外にいるジョバンニたちの元へ届いたのは、援軍ではなく、司祭からの通達だった。
『ロレンツォを魔性の者として捕らえよ。一度火の点いた民衆の狂乱は、魔女を焼くまでは鎮まらぬ。奴を教会
で異端審問にかけた後、広場で焚刑に処せ』
 ジョバンニは急いで家の中に入り、アルベルティに通達を手渡した。
「私は今……、市民が獣に見え、教会が悪魔に見えます」床に塞ぎ込んだジョバンニは、小刻みに震えていた。
 アルベルティは通達を読み終えた後も、しばらくは黙ったままだったが、ふいにロレンツォに優しく語りかけ始めた。
「たった今、教会からあなたを捕まえ、拷問し、火あぶりにするよう伝達が来ました。魔女の疑いをかけられる
のは、死刑宣告されるのと同じです。疑いを否定すれば、あなたは生きたまま焼かれ、魔女であることを認めれ
ば、絞め殺された後、焼かれます」
 苛酷な内容とは裏腹に、落ち着いた声だった。ロレンツォは、恐怖を通り越し、安堵した気持ちで耳を傾けた。
「これは、尊厳の問題です。魔女扱いして死に追いやった教会を怨んでいるでしょう。教会に殺されるのは無念
でしょう」
「私にここで天に召されよと仰るのですね」ロレンツォは穏やかな表情で言った。そこには一切の迷いも憂いも
見当たらなかった。そしてまた、彼の妻も同じだった。
 ロレンツォは、部屋の奥からロープを持ち出して、天井から吊り下げると、改めて二人の親衛隊の方を向き、
礼を言った。
「主はこの空がある限り、我々を見守ってくださっています――アーメン」
 そう言い残し、アルベルティはジョバンニを引きずりながら、家を後にした。
 程なくして民衆の中から「火を!」との声が上がった。親衛隊が許可すると、彼らは一斉に油を家に浴びせか
け、火を放った。
 ジョバンニがその光景を眺めながら、何かをひたすらに呟いていた。
 青空に煙が舞い上がり、尊厳の炎は狂気に囲まれながら夕刻まで燃え盛ったという。



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