【 ニッと 】
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512 名前: 巡査(山形県) 投稿日:2007/03/25(日) 22:55:55.83 ID:b+2tuSAx0
 部屋の温度は三十二度。
 うだるような暑さが部屋に充満していた。
 クーラーがない僕の部屋は真夏の直射日光に耐えるようにできていない。暑い日差しを受け止めては室内気温
を否応なく上げていく。扇風機を回したところで、かき回された温風が室内をかけ回るだけだ。
 扇風機のまん前に仁王立ちすると、首周りが緩んでしまったTシャツの中に扇風機を囲い込む。
「はふぅ……」
 首もとのすき間から出る風が何とも心地いい。一時だけ涼やかな空気が体中をかけ回る。
 しかしそんな心地よさとは全く関係なく、僕の不快指数はうなぎ登りだ。
 原因は夏休みに入る前の担任が言っていた話にある。
「高校二年だからまだ時間があると思ってちゃいかん。夏休み中に家族と進路について相談しておくように」
 担任はいかにもしかめつらしい顔をして話していた。
 進路、受験、そして将来。
 高校受験のときは意識しなかった。自分の成績で行ける学校。家から近ければいい。そんな考えしかなかっ
たからだ。
 けれど大学受験はちがう。『将来』というただ二文字が、僕の肩に重く圧し掛かっている気がした。
 扇風機をTシャツから解放して、開け放たれている窓枠に手をかけると軽く窓の外へと顔を出す。
 暑く湿った空気の中、潮の匂いが僕の鼻をくすぐってきた。
「……行ってみるか」
 海を見てみよう。僕はほんの少しの思いつきに飛びついた。
 首元がゆるく、汗に塗れたTシャツから、ちょっと見た目がいいTシャツに着替える。
「ちょっと出かけてくる!」
 居間にいるはずの母さんに大声で告げた。暑いから気をつけるのよ、という声を聞きながら家の扉を開ける。確かに暑い。地獄もかくや、と言わんばかりの暑さだ。
 愛用の自転車にまたがり、ペダルに力をこめる。ちなみにサドルも焼けるように熱い。常に立ち漕ぎ状態だ。

513 名前: 巡査(山形県) 投稿日:2007/03/25(日) 22:56:25.29 ID:b+2tuSAx0
 家から海まではそう遠くない。五分ほどで海岸線の道路に出る。
 浜辺がない海岸沿いは観光客の姿が見えない。道路を走る車の数もそう多くはなかった。
 防波堤に自転車を立てかけ、そのコンクリートの上に登る。
 風が遠くから波と空気を運んでくる。太陽の位置はあまり変わってないのに少しだけ涼しい気がした。
 僕は体育座りのようにひざを抱えて座り込む。
「将来……か」
 独り言を言ったところで答えは返ってこない。
 そんな時、遠くから低いエンジン音が聞こえてきた。音が聞こえる方を振りむくと、いかにもごついアメリカ
ンバイクが走っている。
 気持ちよさそうだなあ。心の中に浮かぶ言葉はその程度だった。
 徐々に近づいてくるバイクをただ見ていると、方向指示器が点滅する。曲がり角のない、ただの海沿いの道路
でそれが点滅する意味はひとつしかない。
 バイクは僕の自転車の近くに止まる。
 黒い皮のライダースーツを着た、少し細いが高めの背丈の男の人は僕に近づいてきた。
 正直、少し怖い。「ガンつけてんじゃねえぞ!」なんて因縁つけられたらどうしよう。
 暑さとは関係ない、冷えた汗が出ているような気がした。
 男は僕の近くまで来るとヘルメットを外し、ゴーグルを取る。しかしその下にある顔は、想像とは全く違って
いた。
 白髪混じりの髪と、同じく白髪混じりの無精ひげが生えた、少し頬のこけたお爺さんだ。
 そのお爺さんが僕と目が合うと、ニッと笑って口を開く。
「いや、暑いねえ」
 意表を突かれていた僕は、一瞬なんて返したらいいのかわからなかった。
「え……、あ、はい」
「走ってる間はいいんだけど、止まるとドッと汗が出るよ」
 にこやかな顔のまま、お爺さんは話を続ける。
「ところで少年、君はここらへんに住んでる子かな?」
 視線を僕からそらさずにお爺さんは質問してきた。

514 名前: 巡査(山形県) 投稿日:2007/03/25(日) 22:56:45.89 ID:b+2tuSAx0
 呆気に取られていた僕は、その質問の意味を理解するのに手間取ってしまってなかなか返事を返せない。そん
な僕を見てお爺さんは声を上げて笑う。
「あっははは、いきなりこんな爺さんが現れたらびっくりするだろうな」
「あ、いえ、すいません……。はい、この近くに住んでます」
 お爺さんは僕の言葉に、数回頷くとまたひとつ質問をする。
「ここら辺りでお勧めの名所なんかあるかな?」
「ここ辺りだと……」
 名所と言われて、僕は思いつく場所を数箇所上げて、大体の道をお爺さんに教えた。
「そうか、そうか。ありがとう」
 お爺さんはそういって、また数回頷く。
「ところで少年。見たところ何か悩んでいるようだが」
 お爺さんは、またニッとした笑顔を浮かべた。その言葉と表情に胸が少しうずく。
「いや、急にこんなことを言ってすまんね。何やら悩んでいたようだったから」
 そう言って白髪混じりの頭を指先で掻いている。
「見ず知らずの人間にいきなりこんなことを言われても困るだろう」
 僕は少しの逡巡のあと、口を開いた。
「……いや。あの、一人で悩んでも仕方がありませんし」
 その言葉を受けて、お爺さんは「ちょっと失礼するよ」というと僕の隣にあぐらをかいた。
「お爺さんから見ると大した問題じゃないかもしれませんけど」
 そう前置きして、僕は悩んでいることを隣に座るお爺さんへと語りだす。
 何をすればいいのか。何をやるべきなのか。このままでいいのか。みんなはどうしてるのか。そして先の見え
ない将来への不安だ。
 そんな話を、お爺さんは頷きながら聞いてくれた。
「そうか……」
 お爺さんは僕の話を聞いて、にこやかだった表情を変える。自分の腹をポンと叩いた。
「わしはな、病気で胃もほとんど取ってしまったし、もう長くないだよ」
 その顔には自嘲気味の笑いが浮かんでいた。海の向こう側を見ているかに思える。
「婆さんは先にいっちまったし、息子たちも孫が生まれるような歳だ」
 お爺さんはまたひとつ頭を掻いた。僕はそれに何と答えればいいのかもわからない。

515 名前: 巡査(山形県) 投稿日:2007/03/25(日) 22:57:06.62 ID:b+2tuSAx0
「あの……」
「ああ、すまん。年寄りの思い出話などおもしろくもないだろう」
 お爺さんはそう言って、僕の方を見るとまた笑う。
「つまりな、先の見える将来なんてものはおもしろくも何ともない。婆さんへの手土産代わりのこの旅も、先は
何にも見えん。だからおもしろい」
 お爺さんは海の彼方を力強く指差すと、
「少年よ、大志を抱け! なんて大きなことは言わんが、先が見えないなら思い切り飛び込んでみればよく見え
るもんだ」
 そう言って、あっはははとまた声を出して笑い、道路に戻っていった。
「あ、ありがとうございます!」
 僕もそれに続くように道路に戻ると、お爺さんにお辞儀をした。
 それを見て、お爺さんは「んー」と腕組みをする。何か変なこと言っただろうか?
「表情が暗いな! こう、ニッと笑ってみろ、ニッと」
 そう言うと、お爺さんは自分の口の両端に指を当てて、クイッと上に上げる。
 僕はそれを真似して、同じように指をクイッと上げた。
「それでいい。そうしてれば何も怖いことなんてない」
 お爺さんは僕の肩をポンと叩くと「そうだ」と言って一枚の紙をくれた。
 そこにはメールアドレスと名前、住所が書かれている。
「また何か悩むことがあったら連絡しなさい」
 そう言ってお爺さんはバイクにまたがりエンジンをかける。ヘルメットをつけ、ゴーグルをかけるとエンジン
音が鳴り響く中、僕に声をかけた。
「忘れちゃいかんぞ。ニッとだ!」
 そう言って口の両端をまたクイッと上げる。そして僕に向かって親指を力強く突き出すと、お爺さんはバイク
の音と共に遠くなっていった。
 僕はそれを見届けて、指で口の端を上げてみる。
 指を離しても口の端はニッとなっていた。

516 名前: 巡査(山形県) 投稿日:2007/03/25(日) 22:57:41.29 ID:b+2tuSAx0
 それから一年以上が過ぎた。
 悩むことがあれば、僕は今でも口の端をニッとして踏ん張ってきた。悩むことがあればメールもしていた。
 そのおかげで僕は無事に大学に合格して、卒業式を迎える。友達と一緒に記念写真を撮ると僕は笑顔で写って
いた。
 部屋に戻ると机の引き出しの中にしまっておいた連絡先へ手紙を書くことにした。
 卒業の連絡はメールでもよかったが、写真と一緒に「僕はあの笑顔に近づいたかな」と、そう言いたかった。
 手紙の返事はそれから一週間後に届いた。
 しかし、そこにはお爺さんの名前ではなく知らない人の名前が載っている。
 封を空けると、お爺さんの息子だという人からの手紙だった。
 そこにはお爺さんが亡くなったこと。お爺さんがよく僕の話をしていたこと。これからも元気でいてくれるこ
とを願っていたこと。
 そして最後にお爺さんからの伝言だという言葉が書いてあった。
 僕はお爺さんの言葉通りに口の両端に指を当て、そしてそれを上げる。
 震える指先に涙が触れた。

 ―完―



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