【 春雷 】
ID:qst3hNBS0




57 名前: ピアニスト(福岡県) 投稿日:2007/03/24(土) 04:15:11.46 ID:qst3hNBS0
品評会お題「卒業」
貰ったお題「爽やかな別れ」「葉桜」「ギガディン」
題・春雷
――以下――

 また日が隠れた。
 厚い雲だが、まだまだ雨の気配は無い。生乾きの下着が、仕舞い忘れられたまま窓の外にぶら下がっていた。
その向こうに空があって、暗かった。太陽が雲の隙間に現れて、すぐに消えた。同じ事を、何度も繰り返している。
 もう三時は回っただろうか。丸い時計が無表情のまま秒針を進めていく。惰眠を誘う空気が漂っていた。
「行かなくいいの。卒業式」
「いらない。人が泣くのを見る趣味なんてないもの」
 丸くなったまま答えた。姉からは背中しか見えない。目の前の窓から入る光が、部屋の中に在るか無しかの陰影をつくっていた。
「寂しいね」
 声は小さかった。否定する私の声はもっと小さく、姉には聞こえなかった。ただ眠るように転がって、
目を瞑って、刻まれる音を聞いた。他に音らしい音はなく、風も止んでいた。
 今ごろ、証書が授与されている事だろうか、それとも、泣きながら歌っている頃だろうか。
 いずれにしろ、空虚な時間には違い無かった。中身の抜けた、すかすかの時間は、今こうやって無為に過ごす時間よりも、
さらに軽いものに思えた。きっと、天秤にかければ目針が振り切ってしまうほどに。
 外には、桜が咲いている。満開は、もう少し先のこと。景色の物足りなさは、期待で埋められた。
 私の、中身を失った心は、どんなもので埋めればよかったのだろう。かけがえの無かった、あの人は――


58 名前: ピアニスト(福岡県) 投稿日:2007/03/24(土) 04:16:51.07 ID:qst3hNBS0


 ――頭上には、真夏の太陽があった。じりじりと、アスファルトを焦がしていた。
 空は青く、小さな入道雲は四隅へ追いやられていた。まるで、強すぎる日光から逃げ出したみたいだ。
 その雲のように白い壁の家に、その人は住んでいた。いつも優雅な旋律が聞こえる家だ。
「指が十本しかないって、もどかしいね」
 白と黒の鍵盤から放された細い手が、ぐっと、天井へ伸ばされた。健康的な白さを持った十本の指は揃って、
空に腹を見せていた。お茶入れようかと、その背中が呟いた。
「じゅうぶん、上手だと思うけど」
「そうかな。ありがとう」
 声も微笑んだ。
 お湯の沸く頃には、入道雲が徐々に増えてきた。完全な敗北を装って、太陽が慢心した頃に全方位から一気に攻めあがる。
勇者はけっこう、卑怯だ。すぐに雲が空を覆い尽くした。空気が、ひんやりとしてくる。空が、近づく。来る、来て、来た。
 閃光。遅れて、なにもかもを切り裂く音。腹がしびれ、頭の芯が震える。
「あぁ、雷だ」
 あの人は、何よりも乱暴で、ひたすらに一方的なこの音が一番好きだった――


59 名前: ピアニスト(福岡県) 投稿日:2007/03/24(土) 04:20:42.52 ID:qst3hNBS0
 現実の轟音に、体が跳ねた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。すっかり暗くなった部屋の外では、雨が降っている。
時折、稲光と雷鳴が雨足を遮った。洗濯物は、もう仕舞われていた。ぼんやりと、窓の先を見る。季節はずれの驟雨。花を散らす雨だ。
「目、覚めたね。これ、さっき坂本先生が持ってきてくれたよ」
 金粉や墨字で仰々しく飾られた薄っぺらな紙切れは、丁寧に丸められて筒の中に納まっている。要らないと呟いた私の横に、
姉は無言のまま置いていった。
 一時の夢は、私の中の隙間を更にはっきりとさせた。主を失った巻貝の殻のように、外と中の違いがありありと見える。
時計の確実な音は聞こえず、波の音に似た、不確かな雨音が風に乱されながら聞こえていた。埋める事の出来ない空虚に、私は満たされていた。
 私は数週間を、そのまま過ごした。あの日の雨で、満開になる前に殆ど散ってしまった桜は、早々と葉をつけた。人の期待は、裏切られた。
 私は、あの人のもとに行こう。雷の鳴る頃になったら、あの人に会いに行こう。今の私に、爽やかに別れを告げて。―迄―



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