【 人を食べる 】
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472 名前: 大学中退(アラバマ州) 投稿日:2007/03/18(日) 05:36:43.68 ID:hRuNtcr20
人を食べる◆nlqV0MKDw6

――鬱蒼と茂る森の中心には人を食べる魔法使いの館がある。

 わたしの住む町の子どもなら一度は聞いたことがあるはずだ。わたしも聞いて育ったそれは、どこにでもあるような作り話。子どもたちを国境の森に迷い込ませないように、親が、親戚が、近所の大人が語り聞かせる御伽噺。
 誰もがそう思っているし、わたしも先ほどまではそう思っていた。少なくともこの古ぼけた屋敷の前に辿り着くまでは。
 伝え聞いた話が本当ならば、という前置きも忘れ、わたしは後悔していた。別に人を食べる魔法使いの存在を信じているわけではない。
 今まで一度も目にしたことのない小さな館に至ったということは物語のとおりに森の奥深くに入ってしまったということだと、そう自分の失態に気がついたのだ。
 木々が覆うように天井を作り、枯葉の積もった地面に影を落としている。
 見上げても太陽は見えず、現在の時刻は夕暮れまでそれほど遠くはないことくらいしか空の色からは分からない。森に入ったのは昼過ぎだったから、今から急いで引き返してもわたしが森から抜けるのと日が沈むのとどちらが早いか分からない。
「はぁ……」
 ため息はこれから歩く長い道のりに対してか、それとも自分に呆れてか。きっとその両方だったに違いない。そんな考えに気を取られたせいで、わたしは声をかけられるまで背後に立っていた存在に気づかなかった。
「このような場所に人が訪れてくださったのは、いったい何年ぶりかしら」
 それがあまりにも唐突だったので、わたしは自分でもみっともないと思うほど体を強張らせた。その様子が面白かったというよりは、いたずらが成功して子どもが嬉しがるのに近いのだろう。
 振り返ればそこには、クスクスと笑う女性が立っていた。
「ごめんなさいね。お庭に人がいるのを見つけて、つい嬉しくなってしまって」
 日の当たらないこの場所にいながら、柔らかな陽光のような人だった。口元に手を当てて上品に微笑む姿に、女である自分がつい見とれてしまっていた。
「人に会うのは久しぶりなの。できればおもてなしをしたいのですが」
「あ、いえ。勝手に庭に入ってしまい、その上で厚意をいただいておきながら申し訳ないのですが――」
 言いよどむわたしに女性は小さく首をかしげて見せ、その後に笑みを作った。
「でしたら、晩餐もご一緒していただくというのはどうでしょう」

473 名前: 大学中退(アラバマ州) 投稿日:2007/03/18(日) 05:38:22.26 ID:hRuNtcr20
「――まあ、薬草を探してこのような所まで。では貴女はお医者様なのですか?」
「いえ、その見習いです。最近ようやく薬の材料になる薬草の採取を任せられるようになりまして」
 先ほどから話すのはもっぱらわたしの役割で、向かいの席に腰を下ろした彼女は楽しそうにその話を聞いている。
 彼女はもう何年も誰かと口を利いたことすらなかったというので、わたしにとってはありきたりで詰まらない話でも彼女には新鮮だったのだろう。
 薬草から発展した話が、師が厳しいというところに辿り着き、ふと間ができる。普段はそれほど口数が多くないわたしだが、聞き手の反応がいいのでつい話しすぎてしまった。
 ここでわたしは出された紅茶に初めて口をつけた。疲れたのどに染み渡るような温かさに、ほう、と息をつく。
「あら、わたくしったら。おもてなしをするためにお誘いしたのに、貴女にばかり喋らせてしまって」
 恥ずかしそうに言って、彼女は何か思いついたように人差し指を立てた。
「少し早いですが晩餐の仕度をいたしましょう」
 言うや否や彼女は空中に円を描くようにその指を回し、わたしを驚かせた。
「ふふ、ここを訪れてくださる方は皆そのようなお顔をなさいますのよ」
 もっとも皆さんなどと言ってもそれほど多くのお客様を迎えたことはないのですが、なんて追加の言葉は耳に入らなかった。
 わたしの視線はふわふわと宙を漂い近づいてくる皿の数々に釘付けになっていた。どれも作りたてらしく、温かさの証である白色が立ち上っている。
 わたしの驚きをよそに彼女は卓上の整列に満足そうに頷いて、恭しく頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました。主人に代わって歓迎いたしますわ」
「え――あなたが魔法使いなんじゃないの?」
「はい、わたくしは魔法使いではありません。彼は長い間出かけてしまっているので、こうして帰りを待ちながらたまに訪れる貴女のようなお客様をおもてなしするのがわたくしの役割なのです。
 そうですね、先ほどはあなたのお話を聞かせていただいたので、今度はわたくしのお話を聞いてくださる? 古い、古い、昔の話を――」


474 名前: 大学中退(アラバマ州) 投稿日:2007/03/18(日) 05:40:43.75 ID:hRuNtcr20
 ある日、館の主が少女を拾ってきた。
 ぼろを纏って土と埃にまみれた姿で森の中に倒れていたのを担いできたらしい。
 魔法使いなんて陰気な肩書きを持っていながら奇跡的に人の良さを残していた彼は、少女を獣の餌にはしなかったのだ。
 彼がまずしたのは少女の体に無数に存在した小さな傷の治療だった。
 次に服を着替えさせようとして、動作を止めた。彼に特殊な趣味は無かったが、相手が年端もいかぬとはいえ女性の服に手をかけることに躊躇いを覚えたのだ。
 普通ならばここで召使でも使うのだろう。屋敷の規模から考えて、それなりの人数の召使がいても不思議ではない。しかし彼は魔法使いだった。念じるだけで、彼に従順な屋敷は彼の手足となった。
 そのような環境の中で少女が目を覚ますまで、大して時間はかからなかった。
 問題はそこからだった。少女は自分の名前すら思い出せないと言ったのだ。そんな人として最も根本的な部分を思い出せない以上、それまでの自分の生活など遠い異国の知らない物語と違いは無いし、本人に分からないなら会ったばかりである魔法使いが知ろうはずもない。
 いや、魔法使いにはある程度の予想はついていたのだろう。少女が知ったのは後のことだが、彼女が館の主に拾われる数日前に王政に反対する勢力による政変が起きたのだ。
 だが彼はあえてそれを言わなかった。代わりにただ一言だけ、少女に告げた。
「君は時が来るまでここにいるといい」
 何も知らない少女は問いを返した。
「時とは、いつのことでしょう」
 魔法使いは答えた。
「君がそうだと思えば、それがいつでもその時なのだろう」
 そうして少女は居候になり、魔法使いを師と呼ぶようになった。
 果たして「その時」は五年後にやってきた。
「わたしはどうすべきなのでしょう」
 少女は引き止めて欲しかったのかもしれない。だが魔法使いはいつかと似た言葉を繰り返した。
「君がそうだと思えば、今がその時なのだろう」

 そうして少女は王になり、魔法使いを師と呼ぶことはなくなった。

475 名前: 大学中退(アラバマ州) 投稿日:2007/03/18(日) 05:42:57.23 ID:hRuNtcr20
 王になった少女は良き主であろうと努力した。
 師の下を去っておきながら失敗すれば、自分は何のためにあの小さな世界を捨てたのか分からなくなる。それが無駄になることだけは許せなかった。
 使えるものは何でも使い、自分を担ぎ上げた貴族たちの意に反して彼女は良い王になった。今度はその事実が彼女を苦しめた。
 彼女が良い王であればあるほど国は良い方向へと向って行き、自分があの小さな世界を捨てたのが正解だったと何度も思い知らされた。
 だが彼女の意思がどうであろうと、彼女がどのような王であろうと、それを無価値と断ずる者もいる。その中にはいつか少女を城に連れてきた大人たちの姿もあった。
 そんな人間たちによって彼女が再び城を追われる頃には、かつての少女は一人の女性になっていた。
 何もかもを失って心身ともに疲れ果てた女が縋ったのは、かつての思い出だった。
 昔のままの道を抜けて昔のままの庭を渡って昔のままの扉を開けて、そこにいた昔のままの魔法使いにそれまでのことを全部ぶちまけた。
 全てを聞き終えた魔法使いはただ一言、いつかと同じ言葉を繰り返した。
「君は時が来るまでここにいるといい」
 女はいつかと同じ問いは返さなかった。
 そうして女は居候になり、魔法使いを師と呼ぶようになった。
 だがその生活が長く続くことはない。昔、女がまだ何も知らない少女だった頃に彼女を連れて行った大人たちは魔法使いの館を知っていた。
 皮肉にも、実行するなら徹底的に、という前女王の方針をそのままに彼女の捜索は行われ、館のある森に手が伸びるのは早かった。
 魔法使いの抵抗にも関わらず遂に屋敷に近付く者が現れるようになりはじめたある日、彼はふらりとその場を後にした。
――私が帰るまで待っていなさい。
 声には出さなかったが、彼が何と言いたいかくらいは容易に分かった。以降、人が館に近づくことはなくなった。
 数日経っても、数年経っても、数百年経っても魔法使いは帰ってこなかった。


476 名前: 大学中退(アラバマ州) 投稿日:2007/03/18(日) 05:47:07.48 ID:hRuNtcr20
「――だから、わたくしは今でも彼を待ち続けているのです」
 長い語りの終わり。そこには救いも何も無く、ただ今に続いているだけだった。だが彼女に悲壮感は無い。そこにあるのは彼女にこそ似合う悪戯っぽい笑み。何か、嫌な。
 笑みが問う。
「ところで―――――――――」
 対面に座っていた彼女はテーブル越しの言葉と共に貌をぐいと近づけて、生気の無いガラス球のような瞳でわたしを見た。
「―――――――わたくしは誰でしょう?」
 視界が暗転した。




「だってね、わたくしは彼から何代も遡った魔法使いの手でこの地に建てられましたし、
   彼はわたくしの中で生まれたのですからわたくしは彼のことを彼が生まれる前から知っていて
  彼が生まれてから何百年もずっと彼とわたくしだけで一緒にいたのにある日突然現れた小娘に取られたくないでしょう?
 え?
いやですわ、わたくし彼女を殺したりなんてしていません、そんなことしたら彼が悲しむでしょうに。もっとも生かしてもいないのですけど。
   ねえ聞いていますか?
  前の子も何年か前に壊れてしまいましたしそろそろ新しい話し相手が欲しいと思っていた時に貴女がいらしてくれてわたくし本当に嬉しいのですか――あら、取れてしまいましたね。
 わたくし人の体に明るくないので上手なつなぎ方が分からないのですが、我慢していただけるでしょうか?
         よかった、ではこれはここに縫い付けておきますね、少し痛いかもしれませんが耐えてください。
あの娘は耐えたのですから同じ人間である貴女が耐えられないことはないでしょう?
  それではいきますので歯を食いしばって、と言っても歯はもう無いのでしたね、わたくしとしたことがとんだご無礼を。
大丈夫、きっと彼は帰ってきますからそれまでの辛抱です――と前の子にもその前の子にも言ったのですが、――、。−――−−、―――」

終わる



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