【 朱い洋館 】
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335 名前: 女工(アラバマ州) 投稿日:2007/03/17(土) 23:48:24.43 ID:h1xejLam0
陽は高かった。
汗ばむ陽気とは程良い気温にあるべき表現である、と汗だくの身を引き摺っている私は気を紛らわしていた。
目的地まではもう少し。開けた山道、抱えたスーツの上着をしっかと握ってペースを上げて登り切る――洋館は目の前にあった。

背の高い石塀が山裾の一角を不自然に切り取っている。灰色の壁が大きく幅を空け、錆びた鉄格子の門が私の来訪を拒んでいるかのようだった。
ネクタイを少し緩めながら呼び鈴を探す。門構えの一カ所にインターホンを見つけたが、押しても反応しない。
仕方なく鉄格子に触れると、それは呆気なく開いた。
(不用心……)と、胸中に吐くが、門を潜ってすぐにその評価は是正された。
寂れた、という言葉が一番適しているだろう。
入って直ぐの庭先は、三十畳ほどの空間を凡て雑草の占拠されている。
庭園のつもりか、庭の端には雑草ではない植物も見えるが、一様に覆われた緑のカンバスにあってはすべて同じだった。
「用心をする必要性」――つまりはそういうことだ。膝丈まで伸びた草木に囲まれ、私は「本件」を見上げた。

邸宅は煉瓦漆喰の壁。詳細に書いてある擬洋風建築というよりかは欧州の古城をそのまま持ってきて、和風なアレンジを加えた物のように見える。
左右に塔を内包した形のシンメトリーな赤い造形に、蔦がびっしりと巻き付いている。三階凡ての窓枠は白で統一され、また凡てにカーテンが降りている。
屋根は――藍色というのだろうか。むしろ黒と言い切ってもおかしくないほど重たい色が、陽光に鈍く輝いていた。
風雨、埃、泥土に洗われて、洋館の顔は汚れきっていた。

侵入者を阻む緑の絨毯を掻き分け、私は玄関へと進んだ。段差を上り、年季の入った樫の扉の前に立つ。
意外にもここだけは綺麗に掃除がされていた。塵一つ無かった玄関口を汚れた靴底で荒らしながら、私は鉄製のノッカーを鳴らした。
ずっと近くで待機でもしていたのか、扉はすぐに開いた。勢いよく迫ってくる扉を避けながら、私は中を覗いた。
老婦人はそこにいた。

短めの白髪から覗く顔は皺こそ多いが、往時の美貌をそのまま残している。真一文字に閉じた口元、鋭い眼光からは彼女の気質が窺えた。
薄桃色のワンピースの上から華奢な肩口を隠すように乳白色のストールを掛けた彼女は、姿勢良くこちらを見据えて立っていた。
「ようこそ」短くそう告げると老女は踵を返してしまう。玄関に残された私はただ呆然と突っ立っているしかなかった。
昼間だというのに何故か真っ暗な室内。明るい陽射しに慣れた瞳は中々順応してくれない。
入るべきか躊躇していると、暗がりで女主人が振り返った。
「外は暑いでしょう。どうぞ」
これ以上玄関口にいることもない。私は背を焼く陽光に押されるように、中へ入った。

337 名前: 女工(アラバマ州) 投稿日:2007/03/17(土) 23:49:21.12 ID:h1xejLam0
中は涼しかった。陽射しがないだけでも此程違うのかというくらいに。
どうやら靴を脱ぐ場所はない。汚れを落としてこなかったことを今更のように後悔しながら、私は辺りを見回した。
扉を囲うようにしてあった硬質ガラスから光が入り、ぼんやりとだが室内は明るさを保っていた。
どこまでを玄関と呼んで良いものか。エントランスは真っ直ぐ続き、薄明かりの中ぼんやりと色を呈する婦人のいる階段まで五間はある。
階段は緩やかな勾配で、頂上の踊り場から両翼にまた伸びていく。それらは向かい合う集合住宅のような部屋作りの二階部分へと続いていた。
広すぎる玄関口に至っては、三階部分まるまる吹き抜けになっていた。本当に古城のような造り。
高い天井には光を失った豪華なシャンデリアが、大輪の菊の花のように見えた。
生憎私には骨董品などの価値はよくわからない。
ただ、見える限りに置いてある飾りの品々は、いくらそれが埃にまみれていようが、自分の給料の何年分かには相当するだろうとは容易に想像できた。

今度は待たずに階段を上がっていく婦人。俄に自分の体が熱を持っているのに気付いて、私はハンケチで汗を拭きながら彼女を追った。
赤を基調にした見事な誂えの絨毯を早歩きで駆ける。婦人は年齢を感じさせない足取りで左翼の二階へと上がっていく。
豪華な入り口を一望できる通路の中程、邸宅の奥へと続く廊下にさしかかったところで私は彼女に追いついた。
物音も立てずに歩くその姿は小柄であったが、礼節を弁えた昔の美徳そのものだった。
声をかけようとして止める。場にそぐわないことはするべきではない。気付きのついでに、私は緩んでいたネクタイをきつく締めた。

通された部屋は彼女の自室だった。来客を招くには相応しくありませんが、と断ってきたが、私は気にしなかった。
不思議な部屋だった。一見簡素な構成。簡単な天蓋の付いた寝台に、小さな文机。洋箪笥に来客用のテーブル。
だがそのどれにも気品のような物が見える気がする。それでいてどこか安らぎを覚えてしまうのだから――気付けば、私は勧められるままに椅子に腰掛けていた。

扉の開く音に振り返ると、婦人はトレイに紅茶を乗せてきていた。テーブルにトレイごと置き、私の正面に座った彼女は大きく息を吐いた。
「単刀直入に申し上げます」カップに紅茶を注ぎながら彼女は云った。「この家を手放そうとは思っておりませぬ」
そうですか、と私の口は答えていた。それが会話の流れだった。
静かに音を立てて置かれたポット。薄紅色の中でくるくる踊る茶葉を見つめながら、私は次の言葉を待った。
「お口に合えばよいのですが」
待っていた言葉ではなかったが、私は白んで香り立つカップを手にした。ふと、暑さに苦しんでいた先刻の自分が頭を過ぎったが、そのまま口を付ける。
予想通り熱かった。
「この家は主人の形見なのです」
僅かに口に含んで嚥下したところで、彼女が切り出してきた。聞く素振りをしつつ、私は火傷していないか確かめながらカップを置いた。

338 名前: 女工(アラバマ州) 投稿日:2007/03/17(土) 23:51:03.06 ID:h1xejLam0
「もちろん、このような代物をあの人が建てたわけでは御座いません。向こうに用立てして貰い、こちらで少し手を加えました」
西を向いた部屋の窓は仕切りを開いており、眩しいほどの陽光が差し込んでいたが、表ほど暑くはなかった。
婦人の視線は窓の外に向いている。その眼差しに郷愁を見るが、生憎その先にあるうらぶれた林はさほど美しい光景ではなかった。
「長いこと此処に住んでいました。結婚と同時に購入しましたから、もう何年になるのでしょう」
彼女はゆったりとした口調で語った。初めて家を見たときの驚きを。共に暮らし、共に笑いあった日々を。
私はそれを耳にしながら――ゆっくりと答えた。そうですか、と。

婦人が子供を授かったのはそれから何年も後のこと。初めて授かった息子に彼女は主人と共に感激し、悪戦苦闘の日々が始まった。
晩婚だったこともあり、早産となった息子は育ちも一般的な速度ではなかった。
それでも彼女等は弛まぬ努力を重ね、無尽蔵の愛を彼に降り注いだ。その甲斐あって息子はすくよかに育っていった。

父親の社会的地位は家系筋という後ろ盾に支えられ、相当の位置にあった。勿論財力は云うまでもない。
成人した息子には必然的に跡取りとしての素質が求められた。彼女は悩んだ。父親も悩んだ。
息子には生まれの際の事情が響き、社交界という表舞台には出られなかった。しかし、それは外見上のこと。
成長した彼の中には今や確固たる自我が存在し、対応だけならば立派な成人男性として成立する程だった。
息子は決して矢面には出ないことを条件とした、父親の管理下にある会社の社長となった。
会社は業績を伸ばし、政財界においても一目置かれる存在へと成長した。

息子に結婚の話が舞い込んだ。相手は良縁の令嬢。息子の事情を知りながら、それでもと云ってくれた。
政略的な意図ではなく、互いに愛し理解し合う、理想の夫婦像だった。婦人も父親も願ってもない縁談に喜んだ。
四人での生活が始まった。唯一気掛かりなのは息子夫婦等の子供のことだったが、それはまもなく解消された。
五人目――婦人にとっての孫が生まれた。皆の心配を余所に、生まれた子供は元気よく笑う赤子だった。

事件が起こった。若い父親――婦人の息子が自ら命を絶った。原因は彼の父親、彼女の夫だった。
表舞台に出られない息子の為に長く苦心していた父親は、ようやく授かった「まともな」血縁者に跡取りとして教育を施そうとした。しかしそれを息子が拒んだ。
社交界という汚毒に塗れて生きる生き方ではなく、自由に育って欲しい、と。辛く厳しい顔をしていた父を見続けた息子なりの意見だった。
父親は堪えかねて思いの丈を吐き出してしまった。「何故御前じゃなかったのか」と。
階段の踊り場で、息子は赤く染まっているのを見つけられた。残した家族と、父親への謝罪文が傍らに置いてあった。

一家は離散した。嫁は子供と共に去っていった。父親は悔悟の涙に暮れ、社会から退いた。彼女は――。

339 名前: 女工(アラバマ州) 投稿日:2007/03/17(土) 23:51:49.14 ID:h1xejLam0
「主人は逝ってしまいました。もう何年……かしらね」
何年前だろうか。あろう事か私もそれを失念していた。優雅に螺旋を描いていた茶葉は、皆沈殿しきっている。
冷めてしまった液体を一気に飲み干し、私は乱暴にカップを置いた。
陶器がぶつかる澄んだ音色が、静かな部屋に響き渡った。

凡てが優雅であり、悲哀に満ちた静寂を得る。音が満ちる間だけは、私にも彼女と同じ景色が見えたのではないか――そう思いたくなる。

「あら、こんな時間。随分長いこと話してしまいましたね」
婦人は朱く染まろうとしている窓の向こうを見つめながら独りごちた。色のないカンバスに赤色を垂らして、彼女は泣いているようにも見えた。
私は静かに椅子を引いて辞そうとした。「お帰りかしら。御免なさいね、私だけ話してしまって」彼女はそう言ってこちらを向いた。
私にはどうして今笑うのか、よくわからなかった。だから、彼女のその柔和な笑みに頭を下げた。
「さようなら。またお会いできると良いわね」
扉の前に立った私の背に、再び彼女の声がかけられる。一度だけ振り返ると、婦人は座ったままやはり窓の外を見ていた。
その惚けた顔を目に焼き付けて、私は部屋を後にした。

夕闇は直ぐ其処まで迫っていた。玄関を潜ると、夕陽に焼かれた草むらがぬるい風に吹かれ揺れていた。
私は思わず走っていた。赤い絨毯を掻き分け、勢いそのままに鉄格子を蹴飛ばした。
靴底に土の感触を覚えて立ち止まる。一気に汗が噴き出してきたようだ。外はこんなにも暑かったのか。
掌に掻いた汗をズボンで拭きながら、私はもう一度だけ、最後に振り返った。

朱い洋館は静かだ。まるで呼吸を忘れているかのよう。西日に照らされ、朱く焦げ付いて――悠然と聳え立っていた。

もう来ないだろう、との確信を胸中に秘めながら私は帰り道に向き直った。一瞬、視界の端に窓辺に立つ老婆が映り込んだ気もしたが、心残りはなかった。
上着のポケットから携帯電話を取り出す。電話口に出た女性秘書に自分であることを告げる。
彼女の質問に、問題ない、本件は管理者の死亡を待つことにする、と伝えて私は電話を切った。

不思議と――悲しくもあり、寂しくもあった。妙な気持ちを噛み締めながら、私は暗い山道を降りた。

【了】



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