【 二枚のチケット 】
◆WGnaka/o0o




67 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/23(日) 23:54:27.80 ID:uEkdw+ee0
 桜が咲き誇る季節が足音をたてながらすぐそこまで近付いていた。
 スーツ姿には少し暑いと思えるほど、昼過ぎの街中には春の陽気が訪れ始めている。
 緑が少ない都会の街。コンクリートジャングルと呼ばれる東京都市。
 四年前に就職のため田舎からやって来た俺が生活している場所だった。
 その都会の一角にある、スクランブル交差点を急ぎ足で歩いていると、通り過ぎる学生の一団が目に付く。
 彼らは近隣の高校で執り行われた卒業式の帰りだろう。手には卒業証書の入った黒い筒と胸には一輪の造花。
 少し悲しそうに、それでも楽しそうに話しながら通り過ぎる学生たちの姿を、俺は暫く立ち止まって見送った。
 彼らはいったいこれからどんな道を歩んでいくのだろう。就職か進学か。
 全く赤の他人の俺では判らないこと。僅か四年前に俺も経験していた。
 結局、俺は高校卒業後に今の会社に就職した。いわゆる極々普通のサラリーマンだった。
 もう何年も楽しくない日々と、ストレスの溜まる一方の生活を送っている。
 田舎に残って就職していれば少しは違ったのかもしれないと、時折後悔しては現状に眩暈を覚えた。
 自由気ままだった学生時代に戻りたいと思うが、そんなことは出来るはずもない。
 『遊んでいられるのは学生の内だけだ』と良く聞かされてはいたが、今思うと骨身に沁みて判るようだ。
 都会に憧れて来た人間は皆、こんな現実を味わされているのだろうか。
 もしかしたら今の仕事は、俺に向いていないのかもしれないな……。
 そんなことを歩きながら考えている内に、歩行者信号の青が点滅し始める。
 俺は人ごみを縫うようにして交差点を駆け抜けた。昼休憩の時間はのんびりしていられるほど長くない。
 普段から慣れていたはずだった行為が逆に気持ちを緩めたのか、俺の肩が人に当たって衝撃を受ける。
 どうやら相手は女子高生だったらしい。目の前で尻餅をついた状態で瞬きもせずに放心状態だった。
 目の前の少女は緑色を基調としたブレザー姿で、掛けていた赤いフレームの眼鏡が少しずれてしまっている。
 歩道は人々で溢れかえり、俺たちを避けるようにコマ送りで過ぎて行く。まるで興味が無いといったように。
 ほんの数秒だけ目を合わせていただけなのに、なぜだか長い間そうしているような錯覚さえ感じた。
 人の波が納まった頃になると俺は慌てて立ち上がり、未だ呆けている少女の元へと駆け出す。
 少女の小さな手を取って無理矢理起こすと、そのまま歩行者もまばらになっていた交差点を突っ切る。
 渡り切った途端に信号は赤に変わり、車の群れが黒い排気ガスを撒き散らしながら通り過ぎて行った。
 危うく大事になりそうな状況を間一髪のところで切り抜け、安堵感を噛み締めるように溜め息を吐く。

69 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/23(日) 23:54:49.48 ID:uEkdw+ee0
「あの、すいません、痛いです」
 後ろから何か批難するような声が聴こえて来る。
 俺は誰かの手を力強く握っていることに気付いて、慌ててその手を振り解くように離した。
「あっと、悪い。信号変わりそうで急いでたから。それよりぶつかって悪かった。怪我無いか?」
 恥ずかしさからか、なぜか早口口調になってしまっていた。
 心配しながら少女を見やると、眼鏡を指先で掛け直してから鋭い視線を向けられ睨まれてしまう。
 やっぱりあんなことをされて怒ってるのだろうか。眼鏡レンズ越しの瞳が怖い。
「ちょっと手の平を怪我したぐらいですが平気です。こちらの不注意もありましたし、すみませんでした」
 綺麗に言葉を紡ぐ少女の唇は、リップを塗っているのか艶やかだ。
 上唇付近にある小さなホクロが、つられて小さく動くさまに思わず魅入ってしまう。
 良く見て初めて判った端正な顔立ちが相まって、制服を着ていなければ年上の女性とも見える。
「あ、いや、こっちこそ悪かった」
「いえ、謝ってもらわなくても良いですから。私、急ぎますので失礼します」
 言葉の終わりに軽く会釈をすると、彼女は人ごみを掻き分けるようにしながら窮屈な歩道を走り去って行く。
 俺はただ棒立ちのまま揺れる後ろ髪を見送るだけだった。
 まだ仕事中だったことを不意に思い出し、流れて来る人の波に呑まれるようにその場から歩き出す。
 三歩ほど進んだところで、何かを踏み付けた感触が革靴の底から這い上がってきた。
 吐き捨てられたガムか、それとも良くあるパターンで犬のウンコだろうか。もしそれだったら最悪だ。
 嫌な想像をしながら足元に視界を落として確認すると、淡いピンク色の長財布が顔を覗かせていた。
 思惑通りではなくてちょっと安心する。行き交う人々の視線を受けつつ、屈んでそいつを拾い上げてみた。
 あまり重くは無いが俺の財布よりは分厚い感じだ。そして暫くどうするかと悩む。
 ネコババは良くない。かといって警察署に届けている時間は無い。
 どうしたもんだと思い、とりあえず俺には似合わないファンシーな財布を持って歩き出す。
 やはり警察に届けるべきか否か。昼飯はやっぱり寿司にしようか。悩みながら暫く歩みを進めた。
 人間というものは常に追求心と好奇心を持っているべきなのだ。
 持っている財布が気になるのは当たり前。これは然るべき行動だと思う。
 なんだかんだで正当な理由をつけてから、おもむろに中身を開いてチェックしていた。
 落とし主を特定するためだ。別に何も疚しいことは決してない。そう、決して。断じて違う。
 自ら言い聞かせるように心の中で反芻する。邪念を持ったらやられる。何にかは判らないが。
 中には千円札が七枚に大量のレシート、几帳面に小分けされた幾らかの小銭にカード類。

70 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/23(日) 23:55:07.44 ID:uEkdw+ee0
 透明なパスケース入れのところには学生証と書かれた顔写真入りの身分証名称が挟まっていた。
 赤いフレームの眼鏡レンズの奥に見えるキリッとした眼光と、上唇付近にあるホクロが特徴的である。
「どこかで見たことあるな……」
 そう呟いてしまうほどに見覚えのある顔をしていた。
 というかさっきまで俺の目の前に居た少女そっくりだ。そっくりさんではなく本人だった。
 間違いない。きっとこの財布を落としてしまったのだろう。
 確か用事があるとかで走っていったが、この財布がなかったら困るのではないのか。
 これはきっと神様からのご褒美――ではなくて試練だ。宜しい、受けて立とうではないか。
 落とし主に届けるといっても、その後を追い駆けるしか道はなさそうだ。
 意を決して財布をズボンの後ろポケットに仕舞おうとしたとき、紙切れが二枚俺の足元に落ちた。
 拾い上げて見るとそれは映画のチケット。最近話題になっている恋愛ものの国外映画のタイトルだった。
 一度俺も観に行ったことがある。無論、職場の男同僚とだが。まあ、面白いといえば面白かった程度だ。
 よく見るとチケットの片隅には有名な映画館の名前が明記されている。
 その名前は見覚えがあり、便利な駅前にあるので俺も良く行く場所だった。
 館名指定なんてものが記載されているということは、わざわざ予約して取ったチケットらしい。
 それだけでよほど大切なものだろうと感じた。二枚あるということはデート用だろうか。
「しょうがねぇ、行くか。ま、元々俺が蒔いた種だしな」
 俺は映画館に向けて走り出す。駅前だからそう遠くは無い。もう昼飯なんてどうでも良くなっていた。
 普段から外回りの営業で自然と身に付いた体力は、伊達ではないということを証明するいい機会だ。
 あの少女と別れてからもう十分以上も経過しているが、果たして間に合うのだろうか。

71 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/23(日) 23:55:24.74 ID:uEkdw+ee0
 人でごった返す駅前のロータリーまで辿り着くと、大きく深呼吸をして乱れた息を落ち着かせる。
 目的の映画館はロータリーを抜けたすぐそこ。上映中の映画を描いたイメージボードが見えていた。
 映画館までもう少しのところで歩道の赤信号が俺を立ち止まらせる。
 車の群れが視界を遮るように何台も通り過ぎて行く。早く青になれと願いつつ信号を睨み続けた。
 そして、信号が赤から青に移り変わったのを見計り、俺は一目散に歩道を駆け出す。
 すると、映画館の入り口に背を向けて立っている、あの少女の姿が目に飛び込んできた。
 項垂れるように少し俯き加減のその姿は、どこか寂しそうに感じる。
 俺が急ぎ足で駆け寄ると、少女はなぜだか嬉しそうな表情を浮かべて顔を上げた。
 笑った顔を始めて見た。綺麗というよりこっちは可愛いと思えるのはどうしてだろう。
「はぁっ、っはぁ……これ、忘れもん」
 相手が俺と判った途端、少女から笑顔が消える。溜め息を小さく一つ吐くと今度は俺を睨んだ。
 やはり怖い。差し出した財布と共に向けた俺の満面の笑みも凍りそうなほど。
「……ありがとう」
 そう言いながら素早く財布を俺の手から?ぎ取り、中身の確認をし始めた。きっと信用ないんだな俺って。
「良かった、ここにあったんだ」
 映画のチケットを見つけるなり、少女は嬉しそうにそれを胸に抱き締めた。やはり大切なものだったのか。
「じゃっ、俺もう帰るから。彼氏と仲良くしろよ」
「あ、ちょっと待ちなさいよ」
 踵を返したところで急に引き止められ、もう一度俺は回れ右をして少女と向かい合う。
「なんだ? お礼は要らないぞ」
「お礼はもう言ったじゃない。それより、待ってるの彼氏じゃないんだけど――ってそれはいいわもう」
 少女はしまったという風に頭を片手で抑えて顔をしかめた。
「なんだよいったい……俺、これから仕事先に戻らないといけないから手早く頼むぞ」
 有りもしない腕時計を見る動作で急かす。昼休みがそろそろ終わってしまうのは事実。
「……あたし、振られちゃったみたい」
「は? なんだいきなり」
「約束すっぽかされたのよ。勇気出して好きな人誘ったのに。それなのに時間になっても来ないの」
 さっきまでの気丈な表情が嘘のように消えていき、今度は泣きそうな表情に変わっていく。
 まるで俺が泣かしているみたいで焦ってしまう。さぞかし周りの人間にはそう見えることだろう。

73 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/23(日) 23:55:58.72 ID:uEkdw+ee0
「それはつまり、俺のせいだと言いたいワケデスカ?」
「ち、違うわよっ。ただ、その、チケット要らなくなっちゃったから貴方にあげるわ。お財布のお礼」
「いや、悪いけどその映画もう観ちゃったしさ……それに二枚も要らな――」
「なによっ、要らないの? 折角あげるって言ってるのに。このわたしが言ってるのよ?」
 なんだろう、最後の意味あり気でなさそうな自信に満ち足りた言葉は。
「んんー、じゃあこうしよう。そのチケット、今すぐ使うっていうことで」
「どういうこと?」
「無駄になるなら無駄にしなようにする。今から俺と君がこのチケットを使う。判る?」
「え? でも貴方今から仕事じゃないの? そんな暇ないじゃない」
「たまには羽を伸ばす時間も必要さ。毎日毎日つまらないことばかりで飽きてたとこだし。ほら、行くぞ」
 交差点のときと同じようにその手を掴んで館内へと向かった。少々強引過ぎたかと恥ずかしくなる。
「……ありがとう、助けてくれて」
 きっと背後から聴こえてきたそんな声は幻聴だろう。今はそう思いたい。



 映画を観終わった俺たちはその場で別れた。少女は気が晴れたのか、素直な笑顔を見せてくれた。
 俺は春の陽気にうんざりしながら、電源を切っていた携帯をゴミ箱へ投げ捨て会社へと歩き出す。
 ああそうだ、確か観た映画にもこんなシーンが途中であったな。
 会社を辞めて好きになった女の元へと駆け出すその主人公と、今の俺は同じだろうか。
 まあ、こんな映画のような恋の始まりもアリか。
 使えなくなったチケットの裏に書かれた綺麗な文字。携帯のメールアドレスと電話番号に名前。
 大切にスーツの裏ポケットへ仕舞い込み、俺は駅前のロータリーを駆け出した。
 新しい携帯を買うためと、辞表届けを書く用紙を求めて。
 あの映画の結末と同じようになってくれるだろうと、今はただひたすらに信じたいものだ。


  了



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