【 夜のバニラ 】
◆p/2XEgrmcs




88 名前:No.31 夜のバニラ (1/3) ◇p/2XEgrmcs[] 投稿日:07/02/18(日) 18:50:26 ID:+whaIOjc
 帰り道の上で気付いたが、家に酒が無い。途端にうろたえた僕は、最寄り駅に着くとスクーターで
酒屋へと走った。家と反対方向にあるその店は、近くに飲み屋が多くあるために、日付が変わっても
しばらくの間営業しているので、閉店まであと数時間はある。冬の夜は何をどうしても寒い。
駅から離れ少しずつ風景が田舎らしくなってくる。冷たさは空気を綺麗なものに見せかけ、
呼吸するたびに肺が洗われるような錯覚が起きる。大型トラックとすれ違って、分厚い風をぶつけられ、
僕は吹き飛ばされそうになる。眠気は砂が飛ぶように散らばった。
 店でマイヤーズ・ラムとカルーアの大瓶を買うと、二本をリュックに入れ、急いで家を目指した。
毎晩酒を飲みたい訳ではないが、飲もうと思ったときに飲めないのは余りにやり切れない。
手間をかけて買った分、味わって飲みたいと思った。赤信号で止まった時に、今夜はラムで暖まろうと決めた。
 身体が冷え切った頃、家に着いた。どうやら両親は寝入ったようで、一階の居間には明かりが見えない。
僕はスクーターのエンジンを止め、なるべく物音を立てないように玄関の鍵を開け、家の中に入った。
鍵をかけて、冷たい廊下を歩いた。階段を横切り居間へ入ろうとすると、足音がした。驚いて振り返ると、
弟の啓二が階段を降りてきていた。白いパジャマの裾を踏んでいて、危なっかしい。
 「遅いじゃん」
 僕の驚いた素振りを笑いながら、啓二は階段を降り切った。僕は居間への扉を開け、中に入った。
暗闇と、人がいなくなってしばらくした後の、奥行きのある静寂が満ちている。それに逆らうように明かりを点けた。
 「お前こそ遅寝じゃないか。もう十一時だぞ」
 ちょっとね、と啓二は僕の脇をするりと通り、灯油ヒーターのスイッチを入れ、その前に座った。
僕はダウンジャケットを脱ぎ、リュックから大瓶二本を取り出し、冷蔵庫に向かった。
 ヒーターの点火音に少し驚いてしまう。


89 名前:No.31 夜のバニラ (2/3) ◇p/2XEgrmcs[] 投稿日:07/02/18(日) 18:50:47 ID:+whaIOjc
 「あっ、啓二、お前コーラ全部飲んだのか」
 「うん。いけなかった?」
 ラムをコーラで割ろうと思っていた僕は、少し泣きそうになるほど落胆した。仕方なくラムの瓶を冷蔵庫に入れる。
キャベツの芯が、少し茶色になっていた。カルーアを片手に持ったまま牛乳を出す。シンクにそれらを置くと、
大き目の陶器のカップを取り出し、牛乳を注ぐ。ヒーターの前に座っていた啓二が、シンクの向こうから
顔の上半分を覗かせる。申し訳なさそうな目をしながら、僕の挙動に興味を抱いていた。
 「ごめんね、コーラ」
 「いいよ。ホットミルク、飲むだろ」
 啓二は身を乗り出して頷いた。僕はもう一つカップを出した。そうしながら、啓二が平静を失っているのを感じた。
 僕は牛乳を一杯ずつ温めながら、何かあったのか、と訊いた。啓二はまたヒーターの前に座り込んでいるので、
もう姿は見えない。僕の言葉を無視して、二杯とも牛乳が温まるまで啓二は何も言わなかった。
 向かい合って座り、啓二は悲しそうに、ホットミルクに口をつけた。僕は自分のカップにカルーアを注ぎ、
スプーンで少し混ぜた。強いバニラの香りが、また隆起し始めた眠気を一遍に押し固めた。僕は啓二の
煮え切らない態度に、コーラを飲まれた怒りが刺激される感覚がして、相談じゃないのか、と急かした。
 「兄ちゃん、人嫌いになったことある?誰でもいいよ、友達でも、家族でも」
 啓二は僕の怒気を感じ取ってか、おっかなびっくり話を始めた。少し申し訳なくなって、語気を落ち着かせた。
 「あるよ。誰でもあるだろ、それぐらい」
 「そうなのかな。……でもそれっていけない事みたいな気がするんだ。だって色々あって
その人はその人になったのに、嫌いになるのって勝手じゃないかな」
 小学五年生らしいボキャブラリーで、歳相応でないことを言う弟に驚いてしまう。啓二は自信が無さそうにミルクを飲む。
カップで顔を隠しているようだった。温かいカルーアミルクを二口飲み、とても甘い苦味で喉を温めた。
 僕がカップを置き、喋ろうとした瞬間に、明かりが消え、ヒーターも止まった。少しずつ温度が上がってきたのに、
 啓二の寂しそうな表情が、水に沈むように消えた。
 「停電か」
 不意の暗闇に驚き、少しのアルコールは本来与えてくれるはずの酩酊を失くしてしまった。
 「兄ちゃん?」
 啓二の声が揺れた。それは寂しいというよりも、悲しい声だった。僕のことが見えなくて寂しい、というのではなく、
暗闇が悲しいというようにか弱い声を出され、僕は不安になり、こっちに来い、と呼んだ。ヒーターが消えたからか、妙に寒い。

90 名前:No.31 夜のバニラ (3/3) ◇p/2XEgrmcs[] 投稿日:07/02/18(日) 18:51:08 ID:+whaIOjc
パジャマの白が、暗闇の中で輪郭を浮き立たせた。薄い闇の塊が、ゆっくり僕に近づいてくる。僕は両手で啓二の脇を抱き、
あぐらをかいている足に引き寄せた。触れた瞬間こそ啓二は驚いて身を固めたが、すぐ僕の胸に背中を凭せ掛けた。
 「暗いの、恐いか?」
 回した左腕を両手で掴んだままの啓二は、うん、少し、と呟いた。
 「啓二は、嫌いになるのが恐いの?それとも嫌われるのが恐い?」
 答えが返ってこない。弟だから心配なのではなく、自分に寄りかかる温かい生き物だからこそ心配になった。
押し黙る啓二を両腕で抱きしめて、僕は話を続ける。
 「嫌いになるのって恐いよなあ。そうすると次第に相手に嫌われるもんな。でもそれって好きになるのと同じじゃないかな。
特別に思ってる、ってことだもん。いけない事じゃないよ、嫌うのは。本当にいけないのは、嫌いなだけで攻撃することだよ。
啓二はその前でちゃんと止まって考えてるじゃん。嫌いになっても傷つけないようにしてるだろ」
 暗い中から少しだけ湿っている空気が昇ってくる。啓二の髪からだ。啓二はしばらく黙っていたが、
これ飲ませて、と懐っこい声を出した。酒だぞ、と言っても聞かず、僕のカップが動き、嚥下する音が聞こえた。
 苦いっ、でも甘い。変なの、おいしい。啓二がそう言って一拍置くと、明かりが点いた。
急な明るさに、目を開けていられない。目をつぶると、明るい暗闇がちかちかした。啓二の重みと体温が消えた。
 シンクから水音がしたのでそちらを見ると、啓二が口をゆすいでいた。
 「甘いね、それ。砂糖入ってるの?」
 「ええと、カルーアにはどうだろう、入ってたんじゃないかなあ」
 砂糖の有無には余り興味は無かったようで、啓二は返答を待たずに部屋を出ようとした。足取りに迷いがないが、耳が赤い。
 「ありがとう、あったかかった。おやすみ」
 ほんのちょっと酒が入れば、多分よく寝られるよ、と言うと啓二は笑ってドアを閉めた。
随分久し振りに啓二の笑った顔を見た気がした。そう思うと、八つも離れてるのに駄目な兄貴だな、と申し訳なくなった。
 (今度話してくれたら、しっかりした答えをあげないと。しかし、あったかかったのは僕なんだろうか、牛乳なんだろうか)
 まだ中身が残っているカップを傾ける。大分冷めたそれはよく混ざっていなかったようで、少し酒気が濃い。

(了)




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