【 ミルキーウェイに花束を
】
◆1EzYxEBEas
84 名前:No.29 ミルキーウェイに花束を (1/3) ◇1EzYxEBEas[] 投稿日:07/02/18(日) 17:21:12 ID:+whaIOjc
「うん、うまい。流石に酪農が盛んな土地だけのことはある」
そう言って喉を鳴らす笠原に、店主は不機嫌な視線を向けている。
「おい、たまにはアルコールを頼めよ。ここのラム酒は絶品なんだぜ?」
にこにことお代わりを頼む笠原を見かねたのか、カウンターの隣に座るアルがそう耳打ちをする。
「でもラム酒はこの土地で作ってるわけじゃないだろう? せっかくだから名産を楽しまなくっちゃ」
「酒場でミルクばかり飲んでる奴に言われてもなあ」
肩をすくめ、アルはグラスを傾ける。
「うん、やっぱりうまい。ここのミルクは今まで飲んだ中でも二番目のうまさだ」
「……たまにそのマイペースぶりが羨ましくなるよ」
苦労知らずの妙な東洋人、ミルキージャパニーズ、笠原は同僚達にそんな風に揶揄されている。彼自身その事は知っているはずなの
だが、それで悩んでいる姿をアルは見た事が無い。いつも浮かんでいる笑顔、その気楽さが少しでも自分にあればもう少し出世してい
るかもしれないな。そう自嘲しながらアルはラム酒を喉に流し込む。
「いいよなあカサハラは。俺なんて今日も部長に小言を浴びせられちまってさ、もう死にたい気分だよ」
「アル、小言くらいで大袈裟だよ。僕なんてもっと凄いものを浴びせられた事があるんだよ」
「へえ、爆弾か何かかい?」
くつくつと哂うアルに、笠原は笑みを浮かべたまま手元のグラスを指差した。
「ミルクさ」
それは僕がウィスコンシンにある町に行った時の事だ。ここと同じ酪農が盛んな所でね、本当に人よりも牛の方が多く住んでいるん
だよ。けれどここ最近近代化が進んでいてね、建設途中のビルやアスファルトの道路が所々にあって、なんとも違和感を覚えたものさ。
それでうちの会社もその近代化の尻馬に乗ろうって事になって、工場の誘致先としてそこの牧場が候補に選ばれた。それで僕が視察
に行く事になってね、まず土地の持ち主の家を訪ねたんだ。
あれは暑い夏の日だったなあ。シャツは汗でべったりだったし、とにかく早く仕事を済ませたかった。何よりビールが飲みたかった。
だから僕は悪いと思いつつも、静かな住宅街でインターホンを鳴らしまくっていたんだ。
だけど楽な仕事なんてあるはずは無い。ウィスコンシンで最初に僕を出迎えたのは、二階の窓から降ってきたミルクだったんだ。
「そりゃミルク好きのお前にはたまらない歓迎だったんだろうなあ」
笑い転げるアルに、笠原は珍しく不満そうな表情を作る。
「笑い事じゃないよ、アル。夏場のミルクはしばらくすると異臭を放つんだ。おかげで一張羅のスーツがゴミ箱行きだよ。それに、そ
の時の僕はミルクよりビールの方が好きだったしね」
85 名前:No.29 ミルキーウェイに花束を (2/3) ◇1EzYxEBEas[] 投稿日:07/02/18(日) 17:21:37 ID:+whaIOjc
「ああ、すまんすまん。しかしチャイムを鳴らされたくらいでそれとは、随分気の短い奴だったんだな」
「ところがね、原因は騒音じゃなかったんだよ。そこでは毎日ミルクが降っていたんだ。そのせいでそこは“ミルキーウェイ”なんて
呼び名がついていたくらいさ」
「ミルキーウェイ(天の川)ねえ……。随分センスの古いジョークだが、そりゃなんとも臭そうだ」
「実際たまったもんじゃなかったよ」
ミルクで追い返された僕は、ホテルで安物のジーンズとシャツに着替えた後、この話を持ちかけた人を訪ねる事にしたんだ。簡単に
言えば不動産みたいな所だね。それで住所を見て驚いた。それはあのミルクをばらまく家の向かいにある家だったんだ。
僕を出迎えたのはヒコ・カレーロっていう大柄の男性だった。僕ら日本人から見ると外見では年齢が分かりづらいんだけど、二十代
半ばと言った所だったかな。ミルクまみれのスーツを見せると、彼は困ったように笑って、そして何度も謝られたよ。
ミルクの家に住んでいるのはメアリという女性だった。当初は彼女の両親と契約を進めていたらしいんだけど、僕が訪ねる数日前に
その両親が事故で他界していてね。それで候補地である牧場を相続した彼女が、一転して土地を売らないと言ってきたらしいんだ。
元々メアリは牧場を愛していてね、売る事には反対だったんだ。そのせいでヒコもミルクを何度も浴びせられたらしい。
だけど一番困ったのは僕だ。すぐに本社に事情を説明したんだ。そうしたら本社の連中は“なんとしてもメアリを説得しろ”って言
ってきたんだよ。休暇気分の軽い下見のはずが、なんとも面倒な事になったなとため息をついたもんさ。
「……そりゃあヒコって奴の不手際だろう? そこまで話を進めていたんなら、両親が生きているうちに契約書にサインなりさせとき
ゃよかったんだ」
「僕もそう思ったよ。だけどヒコは困った事に純朴な男でね。彼はメアリと幼なじみだったらしいんだ」
新しいラム酒を注文しながらも、アルは怪訝そうな顔をしている。
「つまり、正式な契約は彼がメアリを説得してからにするつもりだったんだよ。ヒステリックにミルクをぶちまけながら、“私の牧場
を潰さないで”って叫ぶ幼なじみの姿が心苦しかったんだろうなあ」
「だが結局は説得できず、そのおかげでカサハラはミルクをたっぷり飲めたってわけだ」
「そういう事。そしてそれからがまたミルク三昧の日々さ」
それから毎日、僕とヒコはミルクを浴びるためにインターホンを鳴らしたよ。
僕はレインコートを何枚も重ね着してたんだけど、そのせいでとにかく暑かった。ヒコは罪悪感からかコートを着なかったんだけど、
その代わりとにかく臭かった。
あの時はいつ帰れるんだろうと途方に暮れていたよ。5キロは痩せたかな。体重計を見ながら、脂ぎった上司の連中こそこの仕事を
やるべきだと思ったよ。
86 名前:No.29 ミルキーウェイに花束を (3/3) ◇1EzYxEBEas[] 投稿日:07/02/18(日) 17:22:03 ID:+whaIOjc
だけどある日、ふと疑問に思ったんだ。たしかにミルクはすぐに臭くなるけれど、それにしても新鮮すぎるってね。いくら牧場主っ
て言っても、嫌がらせにしてはちょっと変だと思ったんだ。そう、どうせなら腐ったミルクをばら撒いた方が効果的じゃないかってね。
その事をヒコに尋ねると、彼は心当たりがあるようだった。だけどあまりに口が堅かった。それでビールをしこたま飲ませると、彼
はぽつりと呟いたよ。
メアリはこう言いたいんだ。こんなに美味しいミルクを作ってる牧場をどうして潰すなんて言えるの、ってね。
「……そりゃヒコって男は惚れてたんだな」
「やっぱりアルもそう思うかい? だけど彼はかたくなにその事を認めようとしなかった。町が潤うためにはもう牧場じゃ駄目なんだ。
そう繰り返すばかりだった」
「そりゃまた頑固な男だ。そういう男は嫌いじゃないが、色恋沙汰が絡むと面倒だ」
「実際面倒だったよ。だけど僕は必死に彼を説得したんだ。本当に牧場を潰してしまっていいんですかってね」
「へ? お前、それじゃ仕事放棄じゃないか」
「……うん、そうなんだ。でも上司やヒコ達の顔を思い出す度に、工場なんてナンセンスだと思うようになっちゃってね」
「日本人は仕事熱心だと思ってたんだけどなあ」
「実際そうだよ。でもね、僕は浪花節が何より好きなのさ」
それからもミルクと説得の日々は続いた。でもね、あまりにしつこい僕に嫌気がさしたのか、ついに彼に決心させる事が出来たんだ。
あの牧場のミルクで俺は育ったんだ、彼はそう言って照れくさそうに笑っていたよ。
けれど彼は恋愛に関してはとことん奥手だった。僕も人のことは言えないんだけどね。どうやって告白していいか分からないって泣
きつかれたよ。
僕は一晩寝ずに考えて、とある日本の映画のラストシーンを思い出したんだ。その作戦は彼も気に入ってくれたよ。
両手一杯に赤い薔薇を抱えた彼は、緊張した顔でメアリの家へ向かって行ったよ。黒いタキシードに身を包んでね。だけどいざとな
るとしり込みしちゃって、ぐるぐるとその場で歩き回っていたよ。暫くの間そうやって、ようやくインターホンをそっと鳴らしたんだ。
勿論、その日もすぐにミルクが降ってきたんだけどね。
「――それで、その二人はどうなったんだい?」
空のグラスを振りながら、アルは聞いてくる。
「アル、こういう浪花節のラストってのは決まっているんだ」
笠原は懐から写真つきの葉書を取り出し、にっこりと笑った。
「世界で一番うまいミルクを作っているよ」 <了>