2 名前:No.01 「乳香霧」 1/3 ◇sjPepK8Mso[] 投稿日:07/02/17(土) 00:58:19 ID:EA0rFSGq
一つ山を超えた所にある、まだ世間から切り離されていない街道沿いの谷の中。そこには神が住むと言う。
神は人間には想像も出来ない姿をしており、人の眼で見ることが出来ず、人が見ることが出来るのは乳白色の霧ばかりだと言う。
薄い乳白色ではなく、濃く、一寸先も見えぬ程の霧だそうだ。爺は、その乳白色の煙を見たことがあると言う。まるで神の胃の中だったと言う。
爺がその霧を見たのは、今から丁度五十年前らしい。村に残る言い伝えでは、五十年に一度だけ谷に神は降りるそうだ。
それと、今、街道へ向かっている事は何の関係も無い。五十年経って、神に触れた者の子孫が訪れるのは、ただの偶然だ。
爺たちが住んでいる村は、世俗から切り離された山奥にある。木造の車が通れるような道は周りには無く、ただ、目を少し離した隙にでも見失ってしまいそうな獣道だけが道らしい道だった。
今は霧が辺りを包んでいるが、一寸先が見えない程濃い事も無ければ、乳白色でもない。爺の話によると、街道は村から出て三日三晩の所だと言う。
まだ、三日目の朝で、山を登っている最中だった。この山を超えれば、神のいると言う谷沿いの街道に着く。その街道に沿って歩けば、街に着く筈だ。
遠い道のりではあるが、この道を歩まねば村の存続は危うい。とにかく、医者と、できるだけ多くの食料を持って帰らねばならない。
牛も、乳を出すための牝牛しか残っていない。牛ですら最近の狂気騒ぎの被害者である。御する事ができなくなった牛も何頭もいる。
しかし、まだ彼が連れている牛は暴れる程我を見失っておらず、少々口から唸り声と泡を漏らすだけである。
何かに耐えているようにも思われるが、それは彼にとってはありがたい事だ。長い間飼ってきた乳牛が、恩を返してくれているのだと思う。
今、出来る事と言えば、足元に僅かに残る獣道をただ一心に辿るだけ。気を抜いたらぷっつりと途絶えてしまいそうな命綱の先は、見上げた山の緑に溶け込んでいる。
すこし先もまともに見ることが出来なかった。多少の霧なんて気になるものでも無いが、この獣道が何年も使われていないのには参った。
思えば、村の外に出ることなんて全く無かった。朝、起きて見渡してみれば、どこを向いても山があるのが当然だった。
村の周りでは不思議な位に木の実や草が取れた。懇々と沸く泉があった。その水を引く事で、乳牛を育てられた。
完全な自給自足。この村は俗世と係わり合いを持つ事が無い。昔から、父には村から出てはならないときつく言われていた。この村は神に守られているのだと。神の守りの外に出るな、と。
それが、そうも言ってはいられない状況になった。
「そうだ、牛の乳を飲んで気が狂うなんて馬鹿げてる」
我を失ってしまいそうな目で、ただ足元の獣道を目つめながら言う。うねる道を、牛を引きながら一歩一歩踏みしめる。時々足を滑らせそうになる。
事の始まりを思い出す。
一番最初に気が狂ったのは、向かいに住む牛飼いだったハズだ。夫に狐が憑いたと、村長の家に駆け込んだ牛飼いの嫁の姿を何人もの人が見ている。
二番目はその子供だった。まだ幼く、生まれてから四年も経ってはいなかった。
狐が憑いた、という言葉の意味をまともに覚えている人間はもう村でも半分程しか残っておらず、その半分も、間もなく知る事になった。
普段からまじめすぎるくらいだった牛飼いと、その子供が鍬を重そうに持って、家の玄関から出てきたのだ。普通じゃなかった。
何がおかしいのかと問い詰めたいほどにゲラゲラと笑い、鍬を滅茶苦茶に振り回し、お隣の一家を、皆が呆然としてる間にズタズタにしてしまった。
我を取り戻した人間が総がかりで取り押さえたお蔭で死傷者はいなかったが、一家全員がまともに立つことも出来なくなった。
それは事の始まりにしか過ぎなかったことは、当然その時には分からなかった。
次に「憑かれた」のは、その襲われた一家だった。
村の衆は、傷口からうつったんだとか、隣に住んでるから侵されたんだとか言っていたが、その一家の介護をしていた友を見ていれば、そうでは無いと思えた。友は、独り言のように呟いた。
3 名前:No.01 「乳香霧」 2/3 ◇sjPepK8Mso[] 投稿日:07/02/17(土) 00:59:16 ID:EA0rFSGq
――骨に効くんだって、取れたての牛の乳を飲ませたんだ。そしたら、一口啜っただけで皆笑い出して……
お前はその牛乳を飲んだのか、と聞いたら少しだけ舐めたと言った。驚いて、器からこぼしてしまって、ものが悪かったかと思って少しだけ舐めた、と。
だが、なんとも無かったらしい。夢でも見たのだと思う事にすると言っていた。乳が怪しいのではないかと、疑ってどうするのだ。家族の一員ともなった牛が悪さをするはず無いではないか。
そう言った、次の日に友は気が触れてしまった。
知らせを受けて、血相を変えて友の家に飛び込んだ。山に囲まれているくせに妙に明るい空の下にありながら、友の家の中は不自然なほどに暗く、陰鬱で、そして甘い匂いが漂っていた。牛の乳のような、濃ゆい香り。
友は柱に括り付けられて身動きも取れぬようにさせられ、前歯をむき出しにして瞳孔を開いて、体中に力を漲らせてうめき声を上げていた。
縄を解けば今にも飛びかかってきそうで、そんな友を見て、ただ立ち尽くすだけしかできなかった。
野次馬がひそひそ話をしているのが聞こえる。気が触れた奴等の介護をしたからこうなったのではないのか。隔離してしまうべきではないのか。
それから村へ行く事を決めたのは、四日後の事だ。二日経った時には、村の衆の半分が狂い、その半分が山奥に姿を消した。
同じ日に村長が助けを呼ぶために若い者が村を出る事を許可した。村に住むのは年寄りばかりで若者は少なかったから、誰が行くことになるか、決まるのはすぐだった。
三日目には、牛飼いが飼っていた牛が、泡を吹いて暴れだした。人間とは桁が違う力で綱を引き千切り、柵を打ち壊して、街道の方へと走って消えていった。その時に母が言ったのだ。
――牛が悪さしてんじゃねえだろか。
聞かなかった事にした。そして、出かける直前に若い者の一人が言った。
――村から逃げるんじゃねえぞ。
そいつは長老にこっぴどくしかられていたが、内心痛い所を突かれたとも思う。
五十を過ぎてまだ生きてるのは、長老と爺だけだったから、二人の言う事は絶対で、痛い所を突いた若いのも、すぐにしょんぼりとしていた。
「誰が逃げるものか。村を救うんじゃ、のう?」
言って、傍らを歩く牛を叩いた。返事は無く、牛は喉を鳴らしながら歯を軋ませて泡を吹いていた。昨日の朝からは草も食べなくなった。日に日におかしくなっていっている気がする。
返事などもとより期待してはいない。願望があったのは確かではあるが。
額の汗を左の手の甲で拭う。大きな手拭いを持って来れば良かったと思いながら、山頂に着いた。後は下るだけ。
もう日は山の向こうに消えかかっており、辺りは薄暗くなってきていた。
ふと足音が聞こえた気がして、振り返るが、辺りが木々の陰に塗りつぶされていて、よく分からなかった。細い獣道は闇の中に飲まれている。ずっと向こうの方には、小さな建物が密集しているのが見えた。多分、村だろう。
「もう、大分遠くまで来たな……」
後は下ってから、街道を辿ればいい。獣道よりも太いであろう街道は、さぞや辿りやすいだろう。
山を下るのはすぐだった。若いから、降りる方が随分と楽だ。街道はすぐにそれと分かるほどに大きくて、道に添って木の柵が立ててあった。
辿るのは、北でも南でも構わない。街道に直角に合流したら、木の柵を越えた。その直後に編み笠を被った男に話しかけられた。
どこから来られたのか、と尋ねられて、近くの村から、とだけ答えた。男はそうか、と呟いた後、早くこの谷から離れる事だと言った。理由を問うと、五十年毎にこの谷には霧の怪物が現れると言う。
編み笠の男は早足で去っていった。しかし、街道に降りたばかりの村の男は、そんな迷信をまともに取り合うほど自分はバカではないと、牛を傍らに置いたままのんびりと歩いた。街道を北の方に向かう。
すぐに編み笠の男は見えなくなり、街道には村から来た男一人と牛だけが残される。唸り声が辺りに木霊し、妙な雰囲気だな、と思った時に、
4 名前:No.01 「乳香霧」 3/3 ◇sjPepK8Mso[] 投稿日:07/02/17(土) 01:00:21 ID:EA0rFSGq
霧が降り始めた。普通じゃなかった。乳白色だった。
それほど濃くは無く、一寸先が見えない程ではなかったが、気味が悪い。何かの気配が辺りに感じられる。鳴き声と脈動の音が聞こえる。
逸る気持ちを抑えようとして心臓を押し黙らせ、早足でこの場を去ろうと思った。牛に繋がった綱を握り締め、滅茶苦茶な力でもって、引っ張った。
牛の力はもっと強かった。三歩進んで、綱が伸び切った事にも気付かずに走り出そうと足を上げた時、綱に引っ張られて盛大に転んだ。
「一体どうしたんだ……?」
言って、尻餅をついたまま牛を振り返る。牛の喉から漏れる唸り声がどんどん大きくなる。口から出る泡の勢いが増し、歯が噛み砕かれた。涎がだらだらと垂れ流され始めたが、それよりも異常な事があった。
牛は乳を垂れ流しにしていた。それも、絞った時の様に勢い良く出る訳ではなく、栓が抜けた様だった。
力無く、ただ流れるだけの白い乳は、いつもの乳よりもひどく濃く、一間も離れていても、甘ったるい匂いがしたし、見るからに比重が重い流れ方をしていた。どろどろしている。
声にならない呻き声を上げて後ずさると、一尺しない内に何かにぶつかった。さっきまでそこには誰もいなかったと思う。一体何にぶつかったのか。
一も二も無く振り返った。振り返った先には見知った顔が立っていた。村の衆にも良く顔が効く人間の一人で、何の変哲も無い人間だった。狂気騒ぎの前までは。牛飼いだった。
異常が怖くて、叫ぶ事も出来なかった。小便を漏らさないのが不思議だ。
その時、憔悴し切った瞳があるものを捉えた。
牛飼いは上を向いている。既に神様だか怪物だか分からない霧は、四尺先が辛うじて見える程まで濃くなっていて、牛飼いは口をぽかんと開けていた。瞳には生気が感じられなかった。
その口から、乳白色の煙が漂っている。もしやと思い、後ろを振り返れば、地に垂れた牛の涎から乳白色の煙が薄く昇っており、垂れた粘性の乳からはひどく濃い乳白色が漂っていた。濃すぎて、触れるのではないかとも思える。
そして、その後には霧は薄れていく一方になった。呆然としたままいると、風が吹いて、霧が散らされていく。そして、唐突にいくつもの人が倒れる音が聞こえた。
その次に、乳を垂れ流しにしていた牛が真横にゆっくりと倒れこんで、その時には霧が完全に無くなっていた。
小鳥が囀る声が聞こえて、木々が風にざわめく音を聞いた時、地に垂れた筈の牛の乳と涎は、全く跡を残さずに消えていた。牛の歯は砕けたままだった。
「……今何が起きた?」
自分のものではない声を聞いて振り返ると、牛飼いが呆然とした顔で座り込んでいた。
その後ろには、狂気に触れておかしくなっていた人々が何人も倒れこんでいて、村から逃げ出した牛も眠るように倒れていた。
「何も、わからない……」
みんな口々に寝起きのような言葉やあくびを漏らしながら身を起こし始めた。皆が皆起きた直後に呆然とする。最後に牛が起き上がって、もーと鳴いた。もう、唸り声ではない。
村へ帰らねばならないと、誰が言い出したのかわからなかった。
近くの宿場にはこう伝えられていると、旅人は聞くだろう。
この先にある谷沿いの街道には妖怪が姿を見せる。普段、その妖怪は谷の奥深くに住み、地脈を伝ってその体の一部を山の深くまで伸ばしている。
散った体は主に泉の水などに集まり、その水を口にしたものから精気を集める。特に乳などの力のつくものの中で多く繁殖する。子が無くとも乳を出す乳牛などは、さぞかし都合が良い事だろう。精を集めた後にはやがて谷に舞い戻る。
妖怪はそうやって生き長らえていて、この谷には五十年に一回、妙な霧に包まれる。
谷はそこにある。深すぎて、誰も底を見たことが無い。暗すぎて、何も見えたものじゃない。ならば何がいたって不思議ではない。
誰も、その妖怪がどんな姿をしていたのか、はっきりとは知らない。