【 色無し 】
◆hemq0QmgO2




96 :No.23 色無し (1/5) ◇hemq0QmgO2:07/02/04 23:43:40 ID:YvSIN2jt
 僕の恋は呆気ないものだった。時間にしたらほんの数時間だ。でも、その数時間は間違いなく
恋をしていた。世界はとても明るいピンクや水色や乳白色だった。たとえば高架下の空気は灰色から乳白色に、
バスは赤からピンクに、レンガみたいに赤茶色だった僕の心は水色に、透けるような水色に、なっていた。
 今は違う。高架下の空気は灰色で関東バスは赤い。僕の心は焦げ茶色だ。どうやら昨日の水色が
燃え尽きて、元の赤茶色に焦げ付いてしまったようだ。焦げた心をなぞるとまだ少しひりひりした。
どうしても悲しい気持ちになる。恋は昨日の昼に始まり、夜には全てが終わっていた。
「埃っぽい君とかさかさの僕がキスをしたら砂になって風に吹かれて……」
 十月の月明かりが黒い雲に遮られたり遮られなかったりしてた昨夜、「かば公園」でチカちゃんとキスを、
少年少女のイメージ通りの甘く優しいキスをした瞬間、僕等の恋はさらさらの砂になった。
十月にしては冷たい風が砂を払う。夜の公園にきらきら輝く砂嵐。すぐにどこかへ消えてしまった。
 僕はぽかんとしながらそれを見ていた。公園を包む柔らかい灯りも消えてしまった。十月の夜相応の
暗さになった。チカちゃんは泣いていた。それに気付いた時には僕も泣いていた。
かば公園から放射状に延びる「元の色」。十五歳の恋が終わった合図。僕の水色が燃える。
音も無く流れ、燃え、消える二人の全て。いつのまにか僕は一人になっていた……。

 昨日の話なのにぼんやりとしか思い出せない。痺れるような心の痛みだけがやけに現実的だ。
夕方の高円寺には活気が溢れている。何もかもがいつもと変わらない。昨日だけが特別だった。
 いつか忘れるのかなあ、それともずっと覚えているのかなあ? 僕には判りかねた。
どちらが良いのかも判らなかった。高円寺の活気に気圧されて歩き出した。ほとんどの人が
力強く、能動的に歩いているような気がして、少し後ろめたい気持ちになった。
八百屋の前で主婦と店員の熱気が渦を巻いている。商店街の入口で中年の男と若い男が口論をしていたが、
誰も気に留めていなかった。古本屋で立ち読みをしていると、なんとなく全て忘れてしまうような気がした。

 そうやって気だるげに時計の針を回して、回して、回したら、いつのまにか大学生になっていた。
僕は「恋」の感触をしっかりと覚えている。相変わらず心は焦げ茶色だ。痛みはもう無くなっていたけど。
あれから「恋」は無かった。義理チョコみたいな片手間の関係ならいくつかあった。
そして今日、僕はまた義理チョコを貰うためにに女の子とデートする。中野に六時、と杏子ちゃんは言った。
そろそろ出なきゃいけない。夕立が降るかもしれないから傘を持って行こう。玄関を出ると
むっとした熱気を感じた。六月ってこんなに暑かったっけ? なんだか毎年同じことを考えてる気がした。

97 :No.23 色無し (2/5) ◇hemq0QmgO2:07/02/04 23:44:01 ID:YvSIN2jt
 コンバースの靴を穿いて玄関を出ると、コンクリートの塀にカマキリの卵がべっとりと付着していた。
思わず触れてみたくなるような乳白色の気泡はグロテスクな妄想を掻き立たせる。
産みの苦しみはカマキリにもあるのだろうか? だとしたらつらいなあ、世知辛い世界だなあ。
 まだ六月だというのに随分と蒸し暑い。気象予報士は夕立に注意するように、と言っていた。
少し、嬉しくなった。大粒の雨に打たれて舞い上がる埃の匂いが好きなのだ。
 中野まで十五分。秋田くんは六時に着くらしい。傘は置いていこう。雨が降った時、雨宿りするために。
 ざあざあ降る夕立の中をひゃあ、とか言いながら駆けて行く私。雨宿りする私の湿った直毛を眺める
若い男の肉欲は季節外れのおでんみたいにぐつぐつ煮える。私は知らんぷりしながらきな粉みたいな
埃の香りを楽しむ。そして、ぐつぐつ煮えるおでんを後目に少し弱くなった雨の中を駆けるのだ。
 灰色の雲はダイナミックに蠢いていたが、ついに夕立は来なかった。
途中、ベンチに座った中学生くらいの女の子二人組がジャンケンをしていた。
なんの勝負かは分からないが四回連続であいこになり、互いの友情を確認したような微笑みを浮かべている。
私はなんだか和んでしまった。同時に、いやらしい想像ばかりしていた自分が少し恥ずかしくなった。
 しょんぼりしながら中野駅の北口に向かう。駅前は排気ガスと生ゴミの混合物の臭いがした。
この臭いがする限り中野は平和。仕事帰り、学校帰りの人の群れは何の変哲もない平日の光景そのものだった。
 少し早かったかもしれない。携帯電話の時計を見ると五時五十分だった。携帯電話を鞄にしまおう
としたその時、手のひらに細かい振動を感じた。メールの揺れ方だ。恐らく秋田くんからだろう。
「後ろに居るよ」
 振り向くと秋田くんが居た。くしゃくしゃの髪の毛がファニーでキュート、清潔感のある服装が
とても良く似合う男の子だ。どこか頼りなさげなのはタイトなシャツとジーンズのせいだろうか。
それでも、色男に分類されるであろう容姿を眺めてうれしくなる。私はこれからこの男とご飯を食べ、
お酒を飲み、あわよくばセックスするのだ。もしかしたら秋田くんも同じような思いを私に抱いてくれている
かもしれない。体がむずむずした。間違いなく私は幸福な阿呆だ。秋田くんが苦笑しながら私に語りかける。
「なんで黙ってるの、杏子ちゃん。やたらニヤニヤしてさ、お馬鹿さんみたいだよ」
「へへえ。いや、ええ男やなあと思いましてね。大学で会うときよりイケてるよ、秋田くん」
「杏子ちゃんは大学で会うときより変態ちっくだね。
とりあえず喫茶店かどっか行かない? 空気のレベルが最低だよ、ここ」
「あらやだ、せっかくのデエトなんだからお世辞くらい使おうよ。減点一だね」
「ごめん、エロ本に出てくる女の子くらい可愛いよ、杏子ちゃん。俺が知ってるとこでいい?」
「おやまあ、お下品な誉め言葉ですこと。どこでもいいよ。行こう」

98 :No.23 色無し (3/5) ◇hemq0QmgO2:07/02/04 23:44:22 ID:YvSIN2jt
 杏子ちゃんは香水の甘い匂いを駅前にばらまきながら無邪気に笑う。可愛い、とても可愛い。
それでも恐らく「義理」だろう。僕の恋は彼方、もう二度と手の届かない所にある。僕はピークを過ぎた
アスリートだ。たぶん。江古田行きの関東バスを横目に見ながら喫茶店に向かう。
 喫茶店は空いていた。暗い店内には冷房が効いている。二人ともアイスコーヒーを頼んだ。
杏子ちゃんは相変わらず小悪魔的に笑っている。なんだか優しい気分になって僕も笑った。
「美味しい義理チョコ」。失礼な言葉だ。自分は酷い人間かもしれない。苦し紛れに口を開いた。
「傘、持ってきてないの? 天気予報見なかった?」
「見たけどいいの。夕立も雨宿りも好きだから。傘持ってたらつまんないでしょ」
「はは、面白いなあ、杏子ちゃんは。ってことは今日は期待外れ?」
「うん。それに男の子って雨に濡れた女の子見たらうんと優しく、いやらしくなるでしょ?
それも好き。突然の雨サイコー。ところで、これからどうするの?」
 まったくこの娘は。「濡れたら」なんてさらりと言うからどきっとする。これからどうする、か。
飯、酒、性行為。とても自然な流れだ。自然な流れ、僕が愛してやまない惰性の回転。
「杏子ちゃんは何がしたい?」
「んー、特にこれといった願望は無いよ。とりあえず酒でも、みたいな。んで親睦を深める、みたいな」
 汗を掻いたグラスを弄くりながら杏子ちゃんが言った。「親睦を深める」。ううむ。
「よし、じゃあ親睦を深めるために酒を飲もう。どんなトコがいい?」
「安くて美味しいお店、かな。チェーン店不可。ある?」
 僕はアイスコーヒーを飲みきって考える。安い、美味い、チェーン店不可、か。
「うむ、あそこだな。イタリアンでいい?」
 杏子ちゃんはうん、と言って立ち上がる。彼女のアイスコーヒーはまだ半分近く残っていた。

 冷房に慣れてしまったせいか外の気温がつらい。蒸し暑い初夏の夜、まとわりつく湿った空気、月は見えない。
杏子ちゃんは楽しそうだ。酔ったらもっと元気になるかもしれない。よし、僕も明るく振る舞おう。
とりあえず「義理」とか「恋」とかは忘れてしまおう。ただ杏子ちゃんと親睦を深めよう。

99 :No.23 色無し (4/5) ◇hemq0QmgO2:07/02/04 23:44:43 ID:YvSIN2jt
 くだらない。「義理」だって「恋」だってただの言葉だ。僕は言葉に逃げているんだ。
なんで突然そんなことを? 違う。僕はずっと気付いていた。知らないフリをしていただけだ。
このままじゃ今日もごまかしてしまう。そして永遠に時計の針を惰性で回す。壊れた機械みたいに。
いや、猿のマス掻きみたいに。それじゃダメだ。シラフの間に決めなきゃいけないんだ。
チカちゃん、君はあれから誰かと恋をした? それともたくさんの男に義理チョコを配っているの?
僕はもう言葉は捨てるよ。「恋」や「義理」なんて体のいい言い訳だ。焦げ茶色の心だけが本当だ。
チカちゃん、君は気付いているかい? 言葉なんて嘘だよ。僕達のあの数時間、
かば公園の砂嵐、涙、それだけが本当だ。ああ、どうか君が言葉なんかに縛られていませんように!

 秋田くんは地面を見ながら数分間無言で歩いている。何かあったのだろうか。少し怖いので声を掛けてみる。
「秋田くん? 大丈夫?」
 彼はびくっ、と肩を揺らして突然立ち止まり、ゆっくりと振り返って言った。
「ああごめん、ごめん杏子ちゃん。ちょっと考えごとを」
 私は笑いながら彼の肩を叩く。
「ははっ、ありえないよそのリアクション。『びくっ。いや、ちょっと考えごとを』って。あまりに漫画ちっくだよ」
 秋田くんは頭を掻きながら笑う。
「そうかなあ、ノーマルだと思うけどなあ。あっ、ここだよ。危ない危ない、通り過ぎるところだった」
 そこはこじゃれたイタリアン・バーで、お酒や食事の値段もお手頃だった。私は意味も無く嬉しくなって、
秋田くんのシャツの袖を引っ張りながらからかうように褒め称えた。
「やるねえ、秋田くん。色男だねえ。これはポイント高いよ。我がサークルの女子もすぐ墜落するわけだ」
「その話は勘弁してくださいよ、杏子さん。僕だって忘れかけてたのにい」
 私は調子に乗って畳み掛けた。
「なるほどなるほど。これなら美佳ちゃんも速攻ホテルね。うーむ、何もかもうなずけるわあ」
「もういいよ、奢るつもりだったけどワリカンね」
「あっウソウソ冗談、ホントごめん。秋田様、どうか慈悲を」
 秋田くんはわざとらしい膨れっ面をやめて、本来の穏やかな色男に戻った。
「僕も冗談だよ。というかお店に入ろう。ちょっと混んでるかもよ」
 確かに店は混んでいたけれど、待たずに席につけた。とりあえずビールとアンティパストの盛り合わせを頼む。
ビールが来るまでメニューを凝視していると、秋田くんが目を閉じて静かに笑った。むう、なんか悔しいなあ。

100 :No.23 色無し (5/5) ◇hemq0QmgO2:07/02/04 23:45:10 ID:YvSIN2jt
 杏子ちゃんはメニューを凝視しながら真剣に悩んでいる。楽しそうだな。僕は少し安心して
大きく息をついた後、目を閉じて笑った。なんだか今日は笑ってばっかりだな。
杏子ちゃんはいい。
可愛くて、面白くて、甘い匂いがするいい女の子だ。一緒にいると涼しくなるような、変な女の子だ。
義理か恋か。馬鹿らしい。さっき決めたじゃないか。そんなのどっちでもいい。
 ビールが来た。よく冷えたレーベンブロイの中ジョッキ。イタリアンなのにドイツビール。
これのためだけでもこの店に来る価値がある。笑顔でジョッキを掲げる。杏子ちゃんも。
「じゃ、乾杯」
 呪いの言葉からの脱却に。杏子ちゃんは何に乾杯しただろう。

「かんぱーい」
 素敵な男の子とのデート、そして未来の可能性に。(了)



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