【 走馬灯 】
◆RWQgmBzM32




848 名前: ◆RWQgmBzM32 投稿日:2007/01/28(日) 22:05:41.53 ID:5j+cHhkK0
 午後11時43分

 そして、僕は3人分の血が溜まったバスタブの中で息絶えた。
 
 午後11時31分

 バスタブの中で寄り添うようにして眠っていた妻と娘は、不自然な事に服を着たまま入
浴していた。僕の知らない入浴剤を使ったのか、バスタブには深紅に染まった湯が妻の腰
の辺りまで溜められている。おかしいなと思いながら手を伸ばせば届く位置まで近づくと、
僕は二人が死んでいる事に気が付いた。
 二人の死は誰が見ても分かるくらい決定的だった。バスタブに溜まった致死量を優に超
える二人の血がそれを物語っていた。どうして、妻と娘がこんな目に遭わなければならな
かったのだろうか。娘はまだたったの6歳なのに。僕は頭を掻き毟りバスルームのタイル
を何度も殴りつけた。だが、どれだけ手を痛めつけても悪夢は覚めてはくれない。疑問や
悔恨、罵倒の言葉が次から次へと口を吐く。涙は枯れる事無く溢れ続け、視界はすっかり
歪んでしまった。
 二人に手を伸ばそうとした僕は、何者かが背中にぶつかった様な衝撃を受けた。間髪入
れずに鋭い痛みが僕を襲う。その痛みはちょうど腎臓のすぐ下辺りから発せられていた。
言葉にならない呻き声が口から漏れ視界が傾く。シャワーカーテンを掴み崩れそうになる
体を支えようとするが、重みに耐え切れずシャワーカーテンは止め具ごと外れてしまった。
振り返り犯人の姿を確認しようとしたが、外れたシャワーカーテンが被さっていて顔を見
る事ができない。バスタブの中に崩れ落ちた僕は、包丁を持った奴の小指の付け根にほく
ろが3つ並んでいるのを目にした。
 奴は僕のお気に入りの包丁を手にし、馬乗りになりながら僕の弛み始めた腹を裂き内臓
を抉った。犯人の手が何かを探す様に内臓を掻き分ける。無数の傷口から夥しい量の血が
流れバスタブの水位を上げていった。

849 名前: ◆RWQgmBzM32 投稿日:2007/01/28(日) 22:06:57.19 ID:5j+cHhkK0
 午後11時26分

 リビングには誰もいなかった。だが、バスルームからシャワーの音が聞こえる。二人で
風呂に入っていたから電話の音にも気付かなかったのだろう。そう納得しかけて、それに
しては入浴時間が長過ぎる事に気付いた。僕が電話を掛けた時から既に1時間以上は経過
している。長風呂の好きな妻ならまだしも、すぐにのぼせてしまう娘が1時間以上も風呂
に入っていられる訳がない。何かがおかしい。
 僕は腰を下ろしていたソファーから立ち上がり、二人がいるバスルームへ向った。
 バスルームを開けると濃い湯気が立ち昇り、一寸先が見えないほど視界が悪かった。僕
は換気扇を回し目を凝らした。少しずつ湯気が薄くなるにつれて、バスタブに浸かってい
る二人の姿が鮮明になって見えた。

 午後10時29分

 僕は遅くなりそうだ、と連絡を入れようとしたが、妻の携帯電話にも家の電話にも掛け
たが誰も出る気配はなく、妙な胸騒ぎを覚え仕事を放り出し家へと急いだ。

850 名前: ◆RWQgmBzM32 投稿日:2007/01/28(日) 22:07:45.64 ID:5j+cHhkK0
 午後7時12分

 4人で囲んだテーブルの上には、僕と妻が作った料理が並べられている。娘の大好きな
オムライスも作り、ちゃんと日の丸の旗を刺しておいた。娘はそれを見て大喜びで、お姉
ちゃん、日本のはたー、と彼女に向って旗を振る。娘の言動に微笑んでいた僕と妻に向っ
て、彼女は沈痛な面持ちで口を開いた。
「あの、お二人の……その、大事な日に、私なんかがお邪魔しても宜しかったのでしょうか?」
「ああ、構わないさ。僕は食事というものは大勢でするものだと思っているから、むしろ
君が来てくれた事に感謝しているよ」
 俯き加減で言葉を紡ぐ彼女に、僕は肯定で答え料理を勧めた。
 レシピを見ながら初めて作る料理が多かったが、それなりに上手くできたと思う。テー
ブルの上に重ねられた空の皿がその証拠だ。僕は後片付けを申し出た彼女をテーブルに座
らせ、レコードから流れる古いジャズに耳を傾けた。トリオの演奏に混じり妻の食器を洗
う水音が聞こえる。
 ふと、その平穏な日常を切り取るかの様に、テーブルに置いた携帯電話が鳴り響く。会
社からの連絡だった。何やらトラブルが起きたらしい。僕はやれやれ、と肩を竦め立ち上
がり、そろそろお邪魔しますと言った彼女と肩を並べ家を後にした。

851 名前: ◆RWQgmBzM32 投稿日:2007/01/28(日) 22:08:31.86 ID:5j+cHhkK0
 午後3時50分

 すぐ隣で飽きる事無く話し続ける彼女に相槌を打ちながら、僕は改めて時間というもの
は目には見えないけれど確実に流れ続けているものだと感じた。よく僕に懐いて後ろを付
いて回っていた近所の子供が、ふと十年振りに訪ねて来たら綺麗な女性に変わっていたの
だから。初めは誰が訪ねて来たのかまったく見当が付かなかった。新手のキャッチセール
スかとも思ったくらいだ。暫く首と頭を捻り想起していた僕に、彼女は苦笑交じりに自身
の名を告げ、僕は彼女を思い出す事ができた。
「もうあれから10年が経ったんだね。君はいくつになったんだい?」
「やっと16歳になりました」
 彼女を連れて夕飯の買出しに行く事にした僕は、店までの道すがら彼女と互いの身の上
話をしていた。始めは口数が少なく俯く事が多かったが、店に着く頃にはすっかり緊張は
解け記憶にある少女と姿が重なって見えた。彼女は優しく人懐っこい少女のままだった。
彼女はカートを押す僕の腕に両腕を絡ませながら、思い出話に花を咲かせている。女手一
つで育ててくれた母が亡くなり叔父に引き取られた事、好きな人がいてその人と結婚する
約束をしている事。僕達は店の中を周りながら色々な話をした。ふと、彼女は買い物かご
を覗き込み、どうしてこんなに沢山買うんですか、と些細な疑問を僕に投げ掛けた。
「それは、今日が僕と妻の結婚10周年記念だからね。せっかくだし、君も一緒に祝って
くれないか」
 複雑な表情で頷き急に無口になった彼女に疑問を浮かべつつ、僕達は食材がぎっしり詰
まったスーパーの袋を両手に抱え帰路に着いた。今時の女子中高生の事はよく分からない
が、それでも彼女は一般の女子中高生よりも痩せ過ぎている様に思える。襟の付いたノー
スリーヴワンピースから覗く殆ど肉の付いていない腕は、過度のダイエットによるものな
のだろうか。所々、新旧問わず痣や傷が付いているのが伺える。一瞬、虐待という単語が
頭に浮かんだ僕は、苦笑しながらその考えを取り消した。もし虐待なら腕や足などの目立
つ所に傷を付けないだろう。
 玄関を開けると妻と娘が出迎えてくれた。僕は持っていた荷物を降ろし妻と娘に彼女を
紹介した。

852 名前: ◆RWQgmBzM32 投稿日:2007/01/28(日) 22:08:43.89 ID:5j+cHhkK0
10年前

 誰にでも身に覚えがある様な嘘とも言えない小さな嘘が、未来を大きく変える事になる
とは夢にも思わなかった。それが約束を破る前提で交わされたなんて事を、6歳の彼女に
は分かる筈がなかっただろう。欺瞞や虚偽を知らない無垢な笑顔を前にして、少しの罪悪
感にも苛まされなかったと言えば嘘になる。だが僕は、小指の付け根に並んだ3つの小さ
なほくろを眺めながら、全ては時間が解決してくれるだろうと楽観視していたのだ。節く
れだった僕の小指と自身の小さな小指を絡めて、彼女は他愛無い契約を交わし満足そうに
微笑んだ。
「約束だよ! 大きくなったらお嫁さんにしてね!」

 午後11時44分

「針千本、飲ませて上げました。飲み辛そうだったから、直接胃に入れてあげたんですよ。
それに痛くない様に、なるべく小さい針まで選んで。ね、私って優しいでしょう。それで
も痛かった? 何を言っているんですか。私の方がもっと痛かったんですよ? やっと1
6歳になったからあなたの元へやって来たのに、あなたの側には他の女がいたのだもの。
それに私の嫌いな子供まで。
 約束しましたよね? 大きくなったらお嫁さんにしてくれるって。私、その約束があっ
たから今まで生きて来れたんです。どんなに苦しくて辛い事があっても、幸せな未来が待
ってるって分かってたから耐え抜いて来れたんです。それなのに……。
 私、悲しくなりました。あんまり悲しくなったので、奥さんと子供を殺しました。楽し
かったぁ! やっぱり人を殺すのって楽しいですね。叔父さんを殺した時も楽しかったん
ですよ。拘束台に括り付けて指を一本ずつ切り落としてあげたら、やめてくれ、やめてく
れ、って情けない声で泣き叫ぶんですよ。私がいつもやめてって言ってもやめてくれない
のにね。切り落とした指を犬に食べさせた時の顔って言ったら! 叔父さんの顔、喪失感
でいっぱいだった。私、自分の体の一部を失う喪失感って、処女を失う時の感じに似てい
るんだと思うんですよね。だから、叔父さんにも感じてもらいました。私の処女を奪った
叔父さんに。ねぇ、聞いてますか? 聞いてたら返事してください。……。もう死んじゃ
ったんだ。つまんない」



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